消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜橋本武広(後編)

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 プリンスホテル野球部の活動期間は1979年から2000年。社会人野球で金属バットが採用された期間(79年〜01年)と符合する。当時、都市対抗の本塁打総数は採用前年の78年に23本も、後楽園球場最後の87年には95本と4倍に増えていた。その87年に入社した左腕の橋本武広(元ダイエーほか)は、その時代ならではの配球を監督の石山建一から伝授されている。


ダイエーからトレードで西武に移籍した橋本武広(写真右)は左殺しとしてチームを支えた

【プリンスを強豪にした生きた教材】

「石山さんに言われたのは、金属バットだから右バッターは外の球をドアスイングで打ってホームランにするけど、インコースの膝下は弱い。そこに投げられるコントロールを身につけて、どんどん突けと。実際、試合で右バッターに投げる時はそのボールばっかりでした。基本的には、インサイドの厳しいところにしっかり投げさえすれば、そうそう打たれることはなかったです」

 コントロールを身につけるため、3球連続でストライクをとる練習、さらには3球連続でアウトコース低めに投げる練習に取り組んだ。3球続けられたら1セットにして、セット数を積み重ねることを目標にした。また、コーチの中本龍児(近畿大−大昭和製紙−ヤマハ発動機)からは「スライダーのボール球をうまく使えるように、徹底して覚えろ」と指導された。

「右バッターに対して、外のボールゾーンから入るスライダーです。中本さんはピッチャー出身じゃないんですけど、バッターの感覚で『腕を振って投げたら、バッターは必ず振るから。追い込んだあと、2球投げたら1球は振ってくれるよ』って。このスライダーは左バッターの真ん中低めに投げても有効で、『見逃された場合はインコースに投げなさい』と教えられました。

 そうやって、徹底してバッターが振ってくれるところに投げる。そのための練習も徹底的に取り組んだ結果、面白いように三振をとれるようになる。これはいいなと思って、もう一段、野球が好きになりましたね。もっと三振をとりたい、もっと抑えたいっていう欲が出てきて」

 野球に対して貪欲になった橋本は、新人ながら都市対抗では予選からリリーフで活躍し、東京第二代表での本大会出場に貢献する。大会では1回戦のIBM野洲戦、4点リードの6回途中から二番手で登板。打ち込まれて3失点も、味方打線が奮起してチームは9対7で勝利。2回戦の本田技研戦では7回から2イニングを零封し、チームは延長11回を戦って6対5で勝利した。

 つづく準々決勝のNTT信越戦で橋本の登板はなかったが、チームは6対5とまたも接戦を制し、創部以来初の準決勝に進出。迎えた東芝戦、橋本は5対5と同点の4回から二番手で登板。ロングリリーフで4イニングをゼロに抑えてきた7回裏、味方打線が2点を勝ち越した。

「それで8回も抑えて、あと1イニング抑えれば勝つ予定でしたけど、9回、終わらなかったですよ。打たれて、3点とられて逆転されて。最後、ベテランの鈴木さんに代わったんです。その年、20年連続都市対抗出場という。当時37歳の、すごい方ですよ」

 9回の橋本は4安打され、2本のタイムリーを浴びて3失点。チームの決勝進出はならなかった。最後に代わった鈴木政明(岡山・勝山高)は、中本と同じく大昭和製紙、ヤマハ発動機を経て84年、プリンスに移籍。中本が翌年からコーチに就任した一方、鈴木はおもに抑えを務めながら投手陣のまとめ役となり、生きた教材となり、20年連続の偉業を達成して現役を引退した。

「中本さん、鈴木さん、強いチームで都市対抗優勝も経験されている方たち。社会人野球をよく知っているベテランのふたりが移籍して来られた。それで僕たち、いろんなことを教えていただいたから、プリンスは強くなったと思うんですよ」

【史上最低のチームが都市対抗初制覇】

 都市対抗には83年から5年連続で出場し、86年にベスト8、87年にベスト4。まさに着実に強くなっていたのだが、88年は1回戦の大阪ガス戦、延長12回を戦って3対4で敗退。エースの石井丈裕(法政大)、3番の小川博文(拓大紅陵高)、4番の中島輝士(柳川高)と、同年のソウル五輪に出場する全日本メンバー3選手を擁しながら勝てなかった。

「もう、大変なことです。プリンスは都市対抗に出るのが当たり前。たしかに予選は大変だけれど、通過点と意識づけされたチームでしたから。いかに都市対抗で優勝するかを考えて、毎日練習していましたから。それなのに1回戦で負けたら『何やってんだ?』です」

 しかも同年のドラフト。石井は西武、小川はオリックス、中島は日本ハムに指名されてプロ入り。投打の主力が抜けたプリンスは周りから「史上最低のチーム」と言われることもあった。だが、それでも翌89年2月のキャンプでの猛練習を経て、3月のスポニチ大会で優勝。87年の都市対抗準決勝で敗れた東芝と決勝で当たって8対6で勝ち、橋本は胴上げ投手になった。

「僕らは『打倒東芝』で、僕自身、都市対抗でやられていたから東芝にだけは勝ちたかったんです。で、その年の都市対抗予選は最後の最後、みんなで何とか勝って、負けたら終わりの第三代表でした」

 第60回の記念大会。プリンスは1回戦のJT戦に6対3で快勝し、2回戦のトヨタ自動車戦は4対3。5回から5イニングを零封した二番手・橋本の好投が大きかった。準々決勝の河合楽器戦は1対0と、先発の白井弘泰(日大二高)から橋本、補強の竹田彰(JR東日本)につないでの完封リレー。準決勝の松下電器戦も延長13回で3対2と、ことごとく接戦を制した。

「エースがいなくて、継投、継投でね。そのなかで竹田さんと近藤さん(光夫/東京ガス)の補強したピッチャーが頑張ってくれて。僕は決勝まで4試合に投げて防御率0.00でしたけど、ピッチャー陣全体、全試合で3点以内に抑えたのはすごいことですよ。しかも、金属バットの時代、その年からDH制になったのに被本塁打ゼロでしたから」

 決勝の大昭和製紙北海道戦。打線が爆発して8対3で勝ち、創部11年目で初の優勝。石山の「予言」どおり、6回から三番手で登板した橋本が胴上げ投手になった。全試合継投の投手陣を巧みにリードし、打力も光った捕手の瀬戸山満年(中京大中京高)が最高殊勲選手賞(MVP)に相当する橋戸賞を受賞した。

「僕自身、点差が開いた決勝がいちばんラクと言えばラクでしたけど、優勝の瞬間はね、このために1年間、練習してきたんだという思いだけでした」

【潰れるか、伸びるかの二択】

 大会後、ハワイへの優勝旅行を経て、11月のドラフト。石山の許可が下り、橋本自身、前年から意識していたプロへの道が開け、3位指名されたダイエーに入団した。1年目はフォームで試行錯誤するなど苦労したが、2年目に権藤博(元中日)が投手コーチに就任。自分本来の長所を生かす指導に気持ちがラクになった。そして翌92年オフ、根本陸夫(元近鉄)が監督となる。

「大将、すごかったですよ。僕のことをプリンスの時から知っていたからか、呼ばれて、キャンプで毎日400〜500球投げされられました。シーズン中もバッティングピッチャーで30分投げたあと、ゲームで投げて......。でも、言われたのが『社会人から25歳で入ってもう4年目や。潰れるか、伸びるか、2つに1つの選択肢しかないから』って」

 根本に助言された橋本は、もうつぶれてもいいと思いながらも、納得するまでやってみようと必死に投げ込んだ。球数を投げるほどに余分な力が抜け、いい投げ方になり、いい球が行くようになり、しかも肩・ヒジにケガはなかった。93年は20試合に救援登板し、防御率は前年までの5点台から3点台へと改善された。そのオフに大きな転機を迎える。

「11月に根本さんに呼ばれたんです。あ、クビだな、これで自分の野球、終わりかと思って行ったら『ハシ、所沢に帰れ』と。『ハイ?』って聞いたら『西武に行け』と」

 93年11月16日、西武・秋山幸二外野手、渡辺智男投手、内山智之投手−ダイエー・佐々木誠外野手、村田勝喜投手、橋本武広投手の3対3の交換トレードが成立。移籍した橋本は「一軍でやるのであれば、とにかく左打者を抑えることに集中してくれ」と投手コーチの森繁和に言われ、西武では自分のはっきりした仕事があると実感。中継ぎとして生きていくことになる。

「節目、節目でいい方に出会えたかなと。プリンスで石山さんにお会いして、プロで悩んでいる時に権藤さんが来られて。そのあと、根本さんが来られて投げ込んで、いいトレードをしていただいて。だから僕、7年続けて50試合以上登板できたと思いますし、いろんな方との出会いが僕の財産です」

 現在、橋本は解説の仕事をしながら、社会人野球の三菱自動車岡崎で投手コーチを務めている。選手の欠点は目に入りやすいが、それをすぐ指摘して直すような指導はしない。まず見て、この選手のいいところは何だろう、というところから入る。権藤から習った方法を生かしている。

(=敬称略)