元ラグビー日本代表・畠山健介が明かす2015年W杯南ア戦の裏側 フランス大会で日本は 「ベスト8ではないか」
ラグビーワールドカップ
バトンを継ぐ者たちへ〜日本代表OBインタビュー
第2回・畠山健介 後編
前編を読む>>元ラグビー日本代表・畠山健介「自分の準備不足がチームに悪影響を及ぼしてしまった」2011年W杯 を振り返る
苦い経験となった2011年のラグビーワールドカップから4年、エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)体制下でも主力として活躍した畠山健介さんは、自身2度目の大舞台で優勝候補の南アフリカとの初戦を迎える。
ラグビー史上最大のアップセットとなった南アフリカ戦を含む2015年のワールドカップ、それまで共に戦ってきた盟友との突然の別れ、そしていよいよ9月10日にフランスで行なわれるワールドカップ初戦を迎える日本代表について、畠山さんが忌憚なく思いを語った。
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自身が経験した2度のW杯について語った畠山健介
──2015年大会の初戦、南アフリカ戦で畠山さんは先発出場し、後半13分まで活躍されました。その53分間、南アフリカのスクラムはいかがでしたか?
「強かったです。スクラムではどうしようもないなと感じましたし、脳震盪の影響で意識が若干朦朧としていたので、スクラムではあまり力が入りませんでした」
──パワーのある南アフリカに対して、日本代表は前半29分にモールでトライを取りました。
「FLリーチ(マイケル)のトライですね。あの場面、実は僕もモールの最前線でがんばっていました。モールは前が崩壊すると後ろにも影響を与えるので、僕が前に出て(後ろの選手を)引っ張っていたんです。手前味噌ですが、あのトライにはかなり貢献したと思っています(笑)。強い南アフリカからモールでトライを取ったわけですからね」
──交代してベンチに下がった後、畠山さんは終盤の展開をどう見ていましたか?
「最後の時間帯に(相手のペナルティで)リーチがスクラムを選択しました。(PGを指示していた)エディー(ジョーンズHC)さんが怒っていたそうですがそれは後で聞いた話なので、それよりも僕はスクラム選択の是非を現場で確認していました。
相手は(後半38分に)シンビンで1人減っていましたし、僕らはずっと「ビート・ザ・ボクス(=南アフリカを倒す)」というマインドでやってきましたので、悪い選択ではないと思いながら見ていました。それでも押し込んできた南アフリカはさすがでしたね」
──日本代表がスクラムで無事マイボールをキープし、フェーズを重ねてフィニッシュまでつなぎきりました。WTBカーン・ヘスケス選手が左隅にトライを決め、34−32で歴史的逆転勝利を手にしましたが、畠山さんはその瞬間をどんな思いで見ていましたか?
「目の前に閃光が走り、頭が真っ白になったことを今でもはっきり覚えています。比べることではないかもしれませんが、早稲田で4年生の時に大学選手権で優勝した瞬間がそれに近く、サントリーに入ってからも『おそらくあの瞬間を超えることはないだろう』とずっと思っていましたが、南アフリカ戦の勝利はそれを大きく塗り替えました」
──次のスコットランド戦は歴史的な勝利から中3日という厳しい日程でした。
「思った以上に南アフリカ戦での消耗が激しく、3日間では十分回復しませんでした。戦術的には南アフリカ戦と一緒で『走り勝とう』というプランでしたが、南アフリカ戦と同じパフォーマンスを出せる余力は僕たちには残っていませんでした。ガス欠であの点差(日本10-45)になったのかなと思います」
──しかし、続くサモア戦(日本26−5)、アメリカ戦(日本28-18)は連勝し、決勝トーナメント進出こそ惜しくも逃しましたが、ワールドカップ初の3勝で歴史を作りました。
「南アフリカ戦はいろいろな偶然、奇跡的な要因も重なって勝利した面もありますが、サモア戦に関してはすでに相手が警戒し、日本代表の情報も十分持っている状態でした。それでも自分たちの用意したプランで勝ちきったので、僕はサモア戦こそが評価されるべき試合だと思っています」
──前半41分のWTB山田章仁選手のトライ、ラストパスは畠山さんでした。
「今のラグビーではPRは15mラインから外側には行かないんです。勝つためにそれぐらいシステマチックにやっています。エディーさんの時代もそういう戦術でしたが、エディーさんのすごいところは選手の判断を『結果が出れば全然問題ないよ』と容認してくれたことです。実際、あの時の自分の感覚、判断は間違っていませんでした。今はどんなチームでもそれが許容されづらい時代なので、あのようなプレーはもう見られないのかなと思うと寂しいですね」
──そんな歴史に残る2015年のワールドカップも含め、畠山さんは同じ日本代表のフロントローだった元HO(フッカー)湯原祐希さん(2020年9月29日急逝)と仲よくされていたそうですね。
「ユース代表時代に出会い、日本代表ではずっと一緒に過ごしていました。実のお兄ちゃんのような感じでとても仲良くさせていただきました。遠征先のホテルでは気を遣う相手と同部屋になるのが嫌で、必ず湯原さんと一緒になるようにしていました。
湯原さんは腕時計が好きで、たくさん持っていました。僕はそのひとつ、あるG-SHOCKがどうしても欲しくて『湯原さん、それ、僕にください』とずっと言っていたのですが、ワールドカップのアメリカ戦が終わり、代表最後の日にあらためてお願いしたら『いや、これはあげられない。リーチも欲しいって言っているから』と断られてしまいました。『いやいや、俺でしょ。僕ら、ずっと一緒にいたんだから』と強くお願いしたら、やっともらうことができました。
訃報を聞いた時は意味がわかりませんでした。後日、記事を読んだ時に湯原さんのキャップ数(22)を知って、自分のキャップ数(78)と足したら100になることに気づきました。僕は、最初にお話しした承認欲求の強さから、日本代表で誰も到達していない100キャップを目指していました。それが2016年に78キャップで止まり、『俺は100点満点中78点の選手なのか』とずっとくすぶっていたんです。でも、その時初めて湯原さんと合わせて100キャップだと気づいて『そうか。俺はこの人と一緒だったから、実は100点だったんだ』とスッと腹に落ちて、代表への未練がなくなりました。結果として形見になった湯原さんの時計は今でも大事に使っています」
故・湯原祐希氏から譲り受けたG-SHOCKをつける畠山健介
──そんな様々な出来事を経て、そして多くの方々の思いを背負って、いよいよ日本代表がワールドカップに臨みます。初の2大会連続の決勝トーナメント進出はなるでしょうか?
「これは僕の先輩やもっと上の世代の方々がよく言っていたことですが、いわゆる『ファイナルラグビー』、つまり負けたら終わりのノックアウトステージに入った時に何が大事になるかというと、ディフェンスと規律です。リーグ戦やプール戦よりもその重要度が一段と高まります。日本代表はベスト4に行けると信じていますが、やはりそのような要素や様々な統計などを踏まえるとベスト8ではないか、と僕は予想しています。
ただ、本当に必要なのは『勝ち』とは別にラグビーの『価値』を広めることだと考えています。残念ながらそれができていないのが現状です。僕は現場の選手とファンがその価値を広げる鍵を握っていると考えていますので、その点にも注目しています」
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ただ勝利を期待するだけではなく、その後に向けての懸念も忘れない。桜のジャージーを着て大きな歴史を作った一員として、畠山さんは真剣な眼差しで訴えかける。今回のワールドカップは日本ラグビーの大きな転換点となるのか。期待して見守りたい。
【profile】
畠山 健介(はたけやま・けんすけ)
1985年8月2日生まれ、宮城県気仙沼市出身。ポジションはPR。地元の鹿折(ししおり)ラグビースクールで小2からラグビーを始める。仙台育英高では3年連続花園出場。高校、U19などユース日本代表も経験。早稲田大では1年から出場し、4年時は副将として全国大学選手権優勝に貢献。サントリーでも主力として活躍し、2008年日本代表デビュー。2011年、15年のラグビーワールドカップに連続出場。英ニューカッスル・ファルコンズ、米ニューイングランド・フリージャックスでもプレー。2022年5月、現役引退。日本代表78キャップは歴代5位。現在はグラスルーツレベルの指導、解説、テレビ出演など幅広く活躍中。