元ラグビー日本代表・畠山健介「自分の準備不足がチームに悪影響を及ぼしてしまった」2011年W杯 を振り返る
ラグビーワールドカップ
バトンを継ぐ者たちへ〜日本代表OBインタビュー
第2回・畠山健介 前編
2011年ワールドカップでトンガと対峙する畠山健介
スクラムの最前列に鎮座するポジション、PR(プロップ)。8人対8人、およそ1トン対1トンの重量FW(フォワード)同士による組み合いの中心で、味方からの押しを前方に伝えつつ相手からの押しにひたすら耐え忍ぶ「我慢」のポジションだ。
その姿は他のFWやBK(バックス)の選手より目立つことは決してない。だが、常にチームを縁の下から支えている陰の功労者だ。
PRで日本代表最多の78キャップを持つ畠山健介さんは、桜のジャージーで最も多くスクラムを組んできた代表選手の一人だ。ラグビーワールドカップは2011年と2015年の2大会に出場し、後者では南アフリカ戦の歴史的勝利に貢献した。
畠山さん自身の日本代表の足跡、そしてワールドカップでの激闘を振り返ってもらった。
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──ラグビー日本代表としてワールドカップに2大会出場されました。いつ頃から日本代表を意識していたのでしょうか?
「小さい頃からずっと日本代表になりたいと言っていましたし、そういう思いはずっとありました。ただ、自分に自信がない人間だったので、本当にそれを実現できるかどうかは別として、とにかくそう言い続けていた、そんな子どもでした」
──中学時代はバスケットボールもされていましたが、その後ラグビーに一本化されます。
「正直、僕は『ラグビーが好きだ』という感情でやっていたというより、ラグビーをしていると褒められるからやっていたんです。評価されたい、承認されたいという気持ちですね。だからこそ必死でやってきました。がんばるほど褒めてもらえて、試合に勝てばみんなが喜んでくれる。そこにどっぷり浸かっていました」
──才能を見出された畠山さんはユースの各世代代表を経験したのち、2008年のアメリカ戦で日本代表デビューしました。
「テストマッチでもやっていること自体はそこまで大きく変わらなかったのですが、やはり国歌斉唱や、ずっと見てきた桜のジャージーに自分が袖を通す、というそれまでにはない経験をしました。特別な感覚でしたね」
──2011年のワールドカップまでの間にも数多くのテストマッチを経験しました。
「全部の試合が印象的でしたが、イタリアとの現地での試合(2011年8月13日。イタリア31−24日本)はスクラムでボコボコにされたこともあって、よく覚えています。あとは2009年のパシフィック・ネーションズカップでサモア、トンガ、フィジーと初めて対戦した時の、パシフィックアイランダー特有の破壊力と安定感、そしてフィジーのスピードやアジリティ(敏捷性)は衝撃的でした。特にサモアは『どうやって勝てばいいんだろう?』と思うぐらいバランスがよく、強いチームでした」
──そのような強度の高いテストマッチを経て、2011年に初めてのワールドカップを迎えます。プールAの初戦の相手は、この大会で最終的に準優勝という結果を残す強豪フランスでした。
「チームとしては手応えがあって、前半途中まではいい勝負をしていたのですが、後半は突き放されてしまいました(フランス47-21日本)。対等に戦えたという評価もありましたが、僕個人としては全くもってダメでしたね。当時は日本代表になってワールドカップに出ることが僕の目標だったので、実際に試合に出て活躍すること、勝つことは目標ではなかった。つまり、出た瞬間に僕の目標は達成され、終わってしまっていたんです。実際のところ、準備は全然できていなかったですし、能力的にもまだまだでした。代表に選ばれていい選手だったのかどうかも疑問です」
──次のニュージーランド戦は大差になりました(ニュージーランド83-7日本)。畠山さんは後半19分からの途中出場でした。
「日本代表の目標は『マスト2ウィン』、つまり大会2勝でした。そのためにオールブラックス戦はちょっとメンバーを落として(その後のトンガ戦とカナダ戦に)備えたわけです。それを見たニュージーランドはFL(フランカー)リッチー・マコウ主将が100試合目の予定だったのに彼を下げて、メモリアルな試合にはしなかった。そのような背景を物語っている点差になりました。試合前の入場時に『オールブラックスの選手、あまり大きくないな』と思っていたのですが、いざ試合が始まってみると体幹、芯の強さが段違いでした」
──トンガ戦(トンガ31-18日本)はいかがでしたか?
「途中までは勝利をたぐり寄せていましたが、勝てませんでした。トンガはワールドカップになると全く別のチームになる、と感じた試合でしたね。これは後に知ったことですが、パシフィック・ネーションズカップ(同年は日本、サモア、トンガ、フィジーが対戦。日本はトンガに1点差で勝利)とは違って、ワールドカップ本番は選手たちが活躍することで世界のマーケットに名前が出て、ヨーロッパのビッグクラブに入れる可能性が出てくるわけです。ワールドカップが選手個人のキャリアにつながり、そこで得たお金で家族を養えるようになる。選手のモチベーションが高いわけです。
一方、僕らはどうだったかというと『マスト2ウィン』に向けて勝つイメージ、戦術は持っていたかもしれませんが、何のために勝つのか、何のために一生懸命歯を食いしばるのか、というところまでモチベーションレベルを上げられていたかというと、おそらくトンガに比べると上がりきっていなかった。それが集中力の差として表れ、後半突き放された要因になったと考えています」
──最後のカナダ戦は2007年大会に続きドローという結果でした(カナダ23-23日本)。
「最後の自分のペナルティで(PGを決められ)同点にされたので、責任を感じています。終わった後、JK(ジョン・カーワンHC)がみんなに挨拶しているなか僕には一言も口を聞いてくれなかったことは今でも引っかかっていますが、それ以上に、自分の準備不足がチームにまで悪影響を及ぼしてしまった、と強く感じた試合であり、大会でした」
──畠山さんを国際舞台へ導いたのはそのカーワンHCでした。
「JKは『世界の大きな選手と戦うためにはフィジカルが重要』という方針を示していました。それは間違っていないと思います。2011年のワールドカップではキャプテンのNO.8(ナンバーエイト)菊谷崇さん、LO(ロック)北川俊澄さん、WTB(ウイング)遠藤幸佑さんなどの大柄な選手を選んでいました。ただ、フランスにはコンタクトで劣勢でしたし、ニュージーランドのスピードには対応できなかった。今思えば方針自体は間違ってはいないものの、課題はあったのではないかと思います」
──その4年後の2015年大会に向けては、2011年大会とは期するものが違いましたか?
「そうですね。エディー(・ジョーンズ)さんがHCになって、ワールドカップでベスト8を目指すことになりました。取り組みの中身や(チーム内での)プレゼンテーションなどが大きく変わり、試される部分も増えましたので、僕もワールドカップに出るだけではなく出て活躍することを目標にコミットしました。
エディーさんがやりたいラグビーに自分がハマったのが大きかったです。PRとしての最大の仕事はスクラムであり、セットピースを安定させ、ドミネート(圧倒)することが求められたわけですが、エディーさんはフットボールの部分、つまり走り勝つことも求めていました。僕はどちらかというとセットプレーよりもフィールドプレーが好きでしたから、そういうラグビーと自分のスタイルがマッチして、成長する機会を与えてもらいました」
後編に続く>>元ラグビー日本代表・畠山健介が明かす2015年W杯南ア戦の裏側 フランス大会で日本は 「ベスト8ではないか」
【profile】
畠山 健介(はたけやま・けんすけ)
1985年8月2日生まれ、宮城県気仙沼市出身。ポジションはPR。地元の鹿折(ししおり)ラグビースクールで小2からラグビーを始める。仙台育英高では3年連続花園出場。高校、U19などユース日本代表も経験。早稲田大では1年から出場し、4年時は副将として全国大学選手権優勝に貢献。サントリーでも主力として活躍し、2008年日本代表デビュー。2011年、15年のラグビーワールドカップに連続出場。英ニューカッスル・ファルコンズ、米ニューイングランド・フリージャックスでもプレー。2022年5月、現役引退。日本代表78キャップは歴代5位。現在はグラスルーツレベルの指導、解説、テレビ出演など幅広く活躍中。