試合開始前のコイントスに勝ち、サーブもしくはリターンを選ぶ権利を勝ち取ると、彼は迷わず"リターン"を選んだ。

 試合開始直後──、相手のサーブがバウンドするや否や、右腕を一閃。コートを切り裂く鮮やかなリターンエースで、試合が......そして、錦織圭の1年8カ月ぶりの復活劇が幕を開けた。

 何度ケガに見舞われようが、幾度離脱しようが、その度にコートに帰還し、再び高い山に挑むのを楽しむかのように、前へと力強く踏み込んでいく。そんな錦織圭のリターンゲームを見られる喜びに、全身が泡立つような「カリビアン・オープン」の開幕戦だった。

 その復帰戦となる初戦での快勝から、5日後──。錦織は5つの白星を連ね、チャンピオンとしてコート上で両手を天に突き上げた。


復帰戦で優勝した錦織圭。復活劇がここから始まる

 カリビアン・オープンは「ATPチャレンジャー」と呼ばれるカテゴリーに属し、グレードとしてはATPツアーの下部に相当する。今大会参戦選手の最高ランキングは182位で、200〜400位の選手がボリューム層だ。

 ただ、上位を目指し野心たぎらす新鋭や、時に錦織のような実力者も参戦する。今回、錦織が決勝で対戦したマイケル・ゼン(アメリカ)もランキングこそ1118位だが、昨年のウインブルドンジュニア準優勝者。鋭いサーブと高いポテンシャルを秘める、19歳の若者だ。

 そのゼンを錦織は、本人曰く「めちゃくちゃよかった」プレーで序盤から圧倒する。

 バックで放つ鋭利なウイナーに、相手を翻弄するドロップショットなど、伝家の宝刀を惜しみなく披露。時にやや安定感を欠くスマッシュや、ゲームカウント5-2から追い上げられるハラハラ感も、ファンにとっては実に20カ月ぶりに味わうスリルだ。

 感嘆の息も、手に握る汗も、それらすべてひっくるめて、錦織圭の帰還である。

 思えば、錦織が最後にATPチャレンジャーに出場したのは2018年2月。この時も手首のケガからの復帰過程で、前週のチャレンジャー初戦敗退から、最後は優勝で幕を閉じた。

【5年前は初戦敗退からスタート】

 優勝者がセレモニーで、主催者やファンたちに「来年もまた戻ってきます」と宣言するのは、ウイナースピーチの慣例。

 この時の錦織も「来年もまた......」と言いかけるが、しばし言葉を切ったあとに「戻ってこないかな?」と困ったように続けて、観客の笑いを誘った。それは、来年のこの時期にはもうチャレンジャーに出るレベルにはいない、という意志表示。

 果たしてその言葉どおり、錦織は復帰戦のわずか9カ月後には、年間レースの上位8名のみが出場できる「ツアーファイナルズ」の舞台にいた。

 出場者たちがオーダーメイドのスーツに身を包み、ロンドンの夜景を背後にパーティやフォトシューティングを行なう、テニス界で最も絢爛な選ばれし者たちの集い。

 その大会開幕前日に、こんな一幕があった。

 選手が互いに動画を撮り戯れるなかで、錦織に「今季、最も思い出深い出来事は?」の質問が飛ぶ。

「チャレンジャーの初戦で負けたこと」

 いつもの朴訥な口調で錦織がそう言うと、「そうだった! 信じられないよ!」の言葉とともに、選手間からドッと笑い声が上がった。

 チャレンジャー初戦敗退からスタートしたシーズンで、最終的にこの地位にいる。それがいかに偉業であるかを誰よりも熟知するのは、その場にいた選手たちだからだ。

 なお、この2018年ツアーファイナルズ出場選手をランキング上位から記すと、次のようになる。

 ノバク・ジョコビッチ(セルビア/当時31歳)、ロジャー・フェデラー(スイス/当時37歳)、アレクサンダー・ズベレフ(ドイツ/当時21歳)、ケビン・アンダーソン(南アフリカ/当時32歳)、マリン・チリッチ(クロアチア/当時30歳)、ドミニク・ティーム(オーストリア/当時25歳)、錦織圭(当時28歳)、ジョン・イズナー(アメリカ/当時33歳)。

【ファイナリストたちの5年後】

 この当時のフェデラーは37歳でなおトップフォームを誇ったが、その彼も昨年末、ついに栄光に彩られたキャリアに幕を引いた。

 昨年の全仏で足首のじん帯を損傷したズベレフは、今年1月に復帰。先の全仏オープンでベスト4に勝ち上がるなど、往時の輝きを取り戻しつつある。

 アンダーソンは、昨年3月に引退。

 ティームは2020年全米オープンで悲願のグランドスラムタイトルを手にするが、翌年に手首を損傷。7カ月後に公式戦に戻るも、復帰戦のATPチャレンジャーでは初戦で敗退。このあたりの足跡は、2018年初頭の錦織と重なるものがある。現在のランキングは89位。彼もまだ、かつていた高みへと戻る道なかばだ。

 なお、本来ならラファエル・ナダル(スペイン/当時32歳)とフアン・マルティン・デル・ポトロ(アルゼンチン/当時30歳)も出場するはずだった。だが、ふたりはいずれもケガのために欠場した。

 そのナダルは現在、今季初頭に負った臀部のケガのためツアーを離脱中。「来年がおそらくは最後の年」と引退をほのめかしている。

 デル・ポトロも、キャリアを通じ数多のケガに悩まされ、この4年間で公式戦に出たのは1度だけ。引退を囁かれながらも希望を捨てぬデル・ポトロだが、今年の全米オープンが最後だと示唆している。

 思えばこの5年間は、ここ20年ほどの男子テニス界を振り返った時、もっとも大きな地殻変動が起きた年月だったかもしれない。昨年、カルロス・アルカラス(スペイン)が19歳にして世界1位に君臨したのは、象徴的な出来事だった。

 錦織も2019年秋に右ひじにメスを入れ、1年近くツアーを離脱した。復帰後は着実に調子を取り戻したかに見えたが、2021年10月を最後にコートを離れ、昨年1月に股関節にメスを入れる。2022年はコートに戻ることなくシーズンが消え、その間、股関節は完治するも練習中に足首を激しくひねった。最終的にはそのケガが、予想以上に長引いたという。

 復帰に懐疑的な世間の声もあったなか、今回の優勝という結果は、そして本人が得た「今日のレベルだったら、ツアーでも戦えるくらいよかった」という手応えは、日本中のテニスファンを幸福にしたはずだ。

【錦織の次戦は北米のコート】

 先ほど、この5年間で大きな地殻変動が起きたと書いた。だが、一度は表舞台を去ったかに見えたベテランたちも、コートでしか得られぬ刺激や高揚感に、今なお純粋な渇望を抱いている。

 錦織が「一緒に成長してきた選手」と認めるミロシュ・ラオニッチ(カナダ)は、先週のリベマオープン(ATP250/芝)で1年11カ月ぶりにツアー復帰。

 初戦で39位のミオミル・ケツマノビッチ(セルビア)に快勝し、関係者たちを驚かせた。2回戦では敗れるも「初戦と2回戦の間が2日空いたのは不運だった。調整が難しくなった」と滲ませる悔いに、むしろ手応えがあふれた。

 2019年に人工股関節を入れたアンディ・マリー(イギリス)は、全豪オープンでは5時間越えの死闘を立て続けに制し、医療関係者たちを「ありえない」と驚嘆させている。チャレンジャーにも出場し、今季早くも3大会制覇。その最新のタイトルは、先週のノッティンガム大会で手にしたものだ。

 自身の優勝の数時間後に、錦織が海の向こうのプエルトリコで戴冠したことを知ったマリーは、「復帰戦での勝利、よくやった!」と絵文字付きのツイートで祝福した。

 そのマリーはチャレンジャー優勝の翌週もロンドン開催のATPツアーに出場し、ウインブルドンへと向かっていく。

 一方の錦織は、いったんの小休止を挟み、北米のハードコートを中心に復活への道を進む予定だ。

 深く腰を落とし、相手の動きをつぶさに両目で捕え、獲物に飛びかかるようにボールに向かい、右腕を一閃する──。

 錦織のリターンゲームが、また始まる。