斎藤佑樹が明かす早大野球部100代主将就任の舞台裏「無理だよって…でも流れは止められませんでした」
2009年、春の早慶戦。両校、優勝の可能性は消えたうえでの伝統の一戦ではあったが、1回戦のマウンドには背番号1の斎藤佑樹が立っていた。この試合、慶大は1番から6番まで、ズラリと左バッターを並べてきた。この"斎藤対策"に対し、斎藤は対応能力の高さを見せつける。プレートの真ん中を踏んで投げる斎藤が、2回から突如、一塁側を踏んで投げ始めたのだ。
【早慶戦後の涙のワケ】言われてみればそんなことがありましたね。慶應のオーダーを見た時にビックリしたのを思い出しました。左バッターには特別な苦手意識はないどころか、むしろ得意なほうだったんですが、なぜそういう戦法をとってきたのか、いまだにわかりません。ただ1回を投げ終わって、左バッターに対してツーシームをもっと有効に使えないかなと思ったんです。それでプレートを踏む位置を変えてみようと思いました。一塁側を踏んだのは、もしかしたら初めてだったかもしれません。
もちろん、そういう思いつきを楽しんでいる自分もいたんですが、もうひとつ、やっぱり当時は自分に対して自信を持てていなかったのかなということも感じます。もし自信があったらそれまでと何も変えることなく、相手のバッターが左だろうが右だろうが同じように投げていればいいんです。でも自信がないから、相手に合わせてプレーしないと抑えられないと思ったんでしょうね。
それを「引き出し」と言ってもらうこともありましたが、どこかでその場に応じて帳尻を合わせられている自分への言い訳にしていたような気もします。勝負できるボールを投げて打たれないのが一番なんですけど、毎回、そういうボールが投げられるかといえば、そうではない。
調子が悪い時には変化球も真っすぐもキレがなくなる。そういう時、球が速くて調子がいい時のイメージではなくて、自分より球が遅くて、それでも抑えているピッチャーのイメージをすることも大事だと考えて、いろんなことにトライしていたんだと思います。
僕が3年の時は、春も秋も優勝できませんでした。ということは、僕の一つ上の先輩たちは最上級生の年に優勝を経験できなかったことになります。しかも秋のリーグ戦では、この試合に勝てば優勝という早慶戦で負けてしまいました。
1回戦の先発を任されたのに4イニングしか投げられずに(3失点で負け投手)大敗、2回戦もリリーフで9回に登板しましたが、ダメ押しの1点をとられて連敗。慶應に勝ち点を落とした結果、明治に優勝をさらわれてしまいました。
さすがにあの時だけは試合後、ベンチ前で思わず泣いてしまいました。1学年上には早実でピッチャーとして一緒に戦った高屋敷(仁)さんもいましたし、早実のキャッチャーでキャプテンを務めていた武石(周人)さんもいました。武石さんは大学では新人監督で、学生コーチでもありましたから、戦略的なミーティングをする機会も多かったし、ものすごくお世話になっていたんです。
松下(建太)さん、楠田(裕介)さん、大前(佑輔)さん......この代の先輩たちとは、3年間という長い時間をともに過ごしてきました。僕が1、2年の時の4年生はリーグ優勝を味わって、そこには僕も少しだけ貢献できたという気持ちもありましたが、もっとも長く過ごした先輩たちには貢献することができなかった......それが申し訳なくて、悔しかったんだと思います。
【初めてプロの打者と対戦】3年のシーズンが終わって(2009年11月22日)、プロのU−26の選抜チームと試合をする機会がありました(セ・パ誕生60周年を記念したU−26NPB選抜対大学日本代表)。その試合で大学選抜の先発ピッチャーに選んでいただき、1イニングだけでしたが、プロのバッターと対戦することができました。
自分がプロへ進む前にその当時、プロで活躍している選手たちと対戦することで自分のレベルを推し量るいい機会だなと思っていました。同時に、自分が大学に進んでよかったんだぞってことを証明できるいいチャンスだなとも思いました。なぜ高校からプロへ行かなかったのかという声があることは何となく知っていましたし、僕にも意地のようなものがあったんでしょうね(笑)。
その時に対戦したバッターはすべて覚えています。1番が坂本勇人、2番が松本(哲也)さん、3番天谷(宗一郎)さん、4番に新井(貴浩/オーバーエイジ枠で参加)さん、5番が亀井(義行、現在は善行で登録)さんでした。いろんなことを忘れてしまう僕ですが(苦笑)、大学の時にプロと対戦できた唯一の機会でしたから、しっかりと記憶に残っています。
もちろん結果も覚えています。坂本にレフト前ヒットを打たれて、松本さんはフォアボール、天谷さんをセカンドゴロのゲッツーに打ちとって、でも新井さんにライト前へタイムリーヒットを打たれて、1失点。最後は亀井さんをファーストゴロに打ちとりました。
あの時は手応えというよりも悔しさしか残りませんでした。どんな形でもいいからゼロに抑えたかった。でも、点をとられてしまいました。
新井さんに対してはインコースをきちんと突いて、フォークでファウルを打たせて2−2と追い込んだんですが、最後、アウトローを狙った真っすぐが高く、甘く入ってしまって、一、二塁間を破られた......あれは悔しかったなぁ。あとは坂本に打たれたヒットも悔しかったですね。狙ったところにスライダーを投げきったのにそれをレフト前へ打たれて、結局はそれが1失点につながってしまいました。
プロのバッターに投げた印象は、今の自分でも戦えるんじゃないかな、という感じでした。ホームランを打たれたとか、圧倒的にやられたという感じがなかったので......いま思えば、それがプロの凄味だったんだなとわかりますけど、あの頃は、内野の間を抜けていくようなヒットだったので、飛んだコースが不運だった、という感覚でいました。プロを目指す僕にとってはとてもありがたい機会だったと思います。
最上級生となり主将となった斎藤佑樹
最上級生になって、僕は主将を務めることになりました。應武(篤良)監督からは3年生の頃からそういうニュアンスを聞かされていたので驚きはありませんでしたが、僕が1年の時から見てきた3人の主将のなかにピッチャーの方がいなかったので、ピッチャーでキャプテンというのはどういう感じになるんだろうという戸惑いはありました。
監督に言われたのは、「4年になるメンバーのなかで1年の時からケガもせず、ずっと試合に出続けた選手はお前しかいない。だからこのチームはお前が引っ張っていかなきゃいけないんだ」ということでした。
ほかの選手はメンバーに入れなかったりケガをしたりして、試合に出ていない時期がある。ずっと試合を見てきたお前だからこそできることがあるんだ」と......なるほど、そういう考えもあるんだなと思いました。
ただ、それまでの僕はチームを見るというよりも自分のことで必死でしたし、自分のことしか考えていなかった。だから主将なんて無理だよ、とも思っていました。実際、僕は投票では宇高(幸治)に入れました。でも投票結果は発表されずに最後は監督が決めて発表するので、もう流れは止められませんでしたね(笑)。
しかも、僕は100代の主将でした。たぶん100代じゃなかったら、主将になっていなかったんじゃないかと思います。僕らは入学した時から「お前らの代の主将って100代目だな」ということを言われていて、「100代だったら斎藤じゃね?」「だって應武監督、そういうきりがいいのが好きだもんな」って、そうやって外堀を埋められていた感じはありました。
だから何となく心の準備はできていましたし、宇高が副主将になったので、いろんなことは野手の宇高に相談しよう、なんて考えていました。
主将の仕事は、練習終わりのミーティングで監督が気づいたことを短く話して、その話を受けて新人監督がしっかりと話をしたあと、最後に主将の「お疲れ様でした」の挨拶で締めるくらいの感じでした。だからなのか、あまり気負うことなくスタートできたような気がします。
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3年間で斎藤が積み重ねた数字は通算25勝、奪三振は265。その時点での東京六大学では5人しか達成していなかった通算30勝&300奪三振のダブル達成を視野に、主将となって背番号10をつけた斎藤の大学ラストイヤーが幕を開けた。
(次回に続く)