中日・ロドリゲスの亡命騒動で思い出す「お騒がせ助っ人たち」の迷言、奇行、武勇伝…
昨年45ホールドポイントを挙げ、「最優秀中継ぎ」のタイトルを獲得した中日のジャリエル・ロドリゲスが、キューバ代表として参加したWBCのあと、来日せずに行方をくらました。その後、メジャー入りを目指し亡命。ドミニカでトレーニングに励んでいるという。このロドリゲスのようにこれまで日本球界をざわつかせた"お騒がせ助っ人"は数多くいた。そのなかでも印象に残った5人を紹介したい。
わずか29試合で退団したドン・マネー
ドン・マネー(近鉄)
ドン・マネーはメジャーでオールスター4度出場のスター選手。すでに36歳で現役を引退するつもりだったが、84年に近鉄に誘われ来日した。
だが、環境がよくなかった。当時、本拠地の藤井寺球場はナイター設備が完備しておらず、もうひとつ使用していた日生球場は収容2万人。思えば、1979年の近鉄対広島の日本シリーズでは、日本シリーズ開催の条件を満たしておらず、大阪球場での開催だった。
しかも藤井寺球場は汚いロッカーに加え、極めつけは住居の中古マンションから大量のゴキブリが出たことも。マネーは29試合で8本塁打と、当時の130試合制なら35発ペースと快調に飛ばしていたが、「家族がホームシックだ。契約金は返すから」と途中退団し、帰国を申し出た。
名前から誤解されがちだが、決してメジャーのスター選手のわがままではなく、じつは同情に値する退団劇だった。
王貞治監督(写真左)も期待した超大物助っ人のケビン・ミッチェルだったが...
ケビン・ミッチェル(ダイエー)
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年に47本塁打、125打点でナ・リーグの二冠王に輝き、MVPを受賞したケビン・ミッチェル。来日前年の94年も、ストライキにより8月中旬から試合が中止となったが、それまで打率.326、30本塁打、77打点の好成績を残していた。
ただ、ミッチェルはメジャー時代から"トラブルメーカー"として有名で、球団もそのことは百も承知だったが、95年は王貞治氏が新たに監督に就任したことで目玉がほしかった。94年までの通算220本塁打は、87年にヤクルトに入団したボブ・ホーナーの通算215本をしのぐバリバリの超大物メジャーリーガーだったのだ。
そして95年、ミッチェルは西武の快速球エース・郭泰源から史上初の"開幕戦初打席満塁アーチ"の離れ業を演じ、翌日にもホームランを放つなど「さすが!」の活躍を見せた。
しかし、それ以降はケガや病気を理由に欠場を繰り返し、2度の無断帰国。球団は愛想を尽かし、解雇を言い渡した。だがミッチェル劇場は終わらず、年俸が全額支払いにならなかったことから裁判を引き起こす。同姓のマーガレット・ミッチェルの小説『風とともに去りぬ』をもじり、「カネとともに去りぬ」とマスコミに揶揄された。
ミッチェルはメジャー復帰後、3年間でわずか14本塁打で現役を引退。引退後も"トラブルメーカー"らしく暴力事件で2度逮捕されている。
神のお告げにより突如、現役引退を発表したマイク・グリーンウェル
マイク・グリーンウェル(阪神)
メジャー屈指の人気球団、ボストン・レッドソックスの看板選手として「ミスター・レッドソックス」と呼ばれたマイク・グリーンウェルは97年、阪神に3年契約で入団した。
新監督に就任した吉田義男氏が、「タテジマをヨコジマに変えてでも......」とラブコールを送った清原和博を長嶋茂雄監督率いる巨人に奪われた阪神は、近鉄、西武との争奪戦に勝利して獲得したのがグリーンウェルだった。
だが2月のキャンプ中に「副業(牧場と遊園地経営)の事務処理」「夫人との結婚記念日」を理由に離脱。さらに「背中の痛み」もあって、再来日は4月30日までずれ込んだ。
5月3日の広島戦でNPB公式戦初出場を果たすと、その試合で2安打、2打点。その後も噂に違わぬ活躍を見せていたグリーンウェルだったが、5月10日の試合で自打球を当て、右足人差し指を骨折。
翌日も強行出場したが、5月14日に突然会見を開き「野球をやめろという神のお告げがあった」と引退を表明し、周囲を唖然とさせた。退団の際に年俸の4割にあたる9600万円を返金し、契約金の返金も申し出たが、当時の久万俊二郎オーナーから「正直だ」と感激され、契約金返還はなしになったそうだ。
巨人では0勝に終わったエリック・ヒルマン
エリック・ヒルマン(巨人)
1996年、最大11.5ゲーム差からの逆転優勝で「メイクドラマ」を完結させた巨人は、オフに飽くなき巨大補強を施す。打者では清原和博、石井浩郎、投手ではエリック・ヒルマンの獲得に成功した。
ヒルマンは95年、ロッテに入団。左腕から繰り出すスライダーとシンカーのコンビネーション、さらに208センチの長身から投げ下ろすストレート。ボビー・バレンタイン監督のもと、伊良部秀輝、小宮山悟らとともに先発三本柱のひとりとして12勝を挙げる活躍を見せ、長年低迷が続いていたロッテを2位に躍進させた立役者となった。
ヒルマンは翌年も14勝をマークしたが、球団が伊良部にタイトルを獲らせようと投手陣のスケジュールを調整したことに激怒し退団。巨人に移籍することになる。
97年、巨人に移籍したヒルマンだが左肩を痛めた。最初は「左肩に違和感がある」「ナイフが刺さっているように痛い」と繰り返していたが、言うに事欠いたのが「肩に小錦が乗っているようだ」と発言。ちなみに小錦とは、97年を最後に引退した体重275キロ(当時)のハワイ出身の名力士である。
結局、97年は2試合の登板に終わり、オフに手術。98年は未登板で、さすがの渡辺恒雄オーナーも「金はやるから出て行ってくれ」と憤慨。当の本人は「ミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ」と弁明したが、結果的に2年間で投げたのは6イニング。それでもちゃっかり5億円は獲得した。
球団史上最速で解雇となったダン・ミセリ
ダン・ミセリ(巨人)
巨人は江川卓、西本聖、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄ら、伝統的に先発完投型が多く、昨年まで12球団で唯一、通算100セーブ達成の投手がいない。
2004年のチーム最多セーブは、久保裕也の8。そうしたチーム事情もあり、堀内恒夫監督2年目の05年、巨人は新外国人のダン・ミセリに守護神役を期待した。というのも、ミセリは04年にアストロズで74試合に登板し、6勝6敗2セーブ、24ホールドを挙げたリリーバーだったからだ。
本人は「目標50セーブ」と豪語するなど、期待は高まった。だが、開幕から2戦続けて敗戦投手となると、契約条項をタテに二軍行きを拒否。不甲斐ない投球は周知の事実となり、リードされている相手球団から「ミセリコール」が起こるほど。
結局、4月19日に球団史上最速で解雇。さすがに年俸の支払いは3カ月分に減額されたようだ。
その解雇当日、ミセリは家族で浅草観光に出かけて人力車に乗るなど満喫。その後も1週間ほど日本観光を楽しんで帰国した。余談ながら、その翌年の06年に第1回WBCが開催され、ミセリはイタリア代表として出場した。