「なぜ俺が…」フジテレビを辞めてフリー転身して2カ月でがんと告知された笠井信輔アナ。仕事とは、人生とは。がんになって見えてきたこととは?(撮影:今祥雄)

フジテレビアナウンサーとして、僕の居場所はもうないのか──。

56歳でフジテレビを退職。定年まであと4年を残して、新しい船出をするはずだった笠井信輔さん。しかし、退職からわずか2カ月後にがんの告知を受けることに。

なぜ俺が。なぜこのタイミングでがんにならないといけないのか。被害者意識にさいなまれながら、どのように病気と向き合っていったのか。『とくダネ!』など華々しい活躍から一変し、笠井さんが見た世界とは──。

フジテレビで数々のワイドショーや情報番組を担当

子どもの頃から人前に出ることが好きだった。小学生の頃は、学級委員や児童会長を、中学生では生徒会長に自ら立候補し、つねに先頭に立って学校生活を盛り上げた。

とくに、「話すこと」には興味があった。きっかけは小学4年生のとき。近所の子ども祭りで司会をした際、周りから上手だと褒められたことは今でも覚えている。また中学時代は、生徒会長として全校生徒の前で挨拶をすると、校舎に響く自分の声がうれしかった。

高校生になると、すでに「笠井の話は面白い」と評判を呼び、文化祭では笠井さんの話を聞きたい生徒が殺到。教室に入りきらないほどの人気だったという。

その後、1浪して早稲田大学に入学。放送局でアルバイトをしながら、将来の就職先はテレビ局を考えた。そして、超難関の倍率をくぐり抜け、晴れてフジテレビへの就職が決定。1987年4月、フジテレビアナウンサーとして華やかにスタートをきった。時代はバブル絶頂期だった。

笠井さんはフジテレビに入社以降、数々のワイドショーや情報番組を担当した。その中でも笠井さんの代表番組の1つ、『情報プレゼンター とくダネ!』を任されたのは35歳のとき。

メインキャスターの小倉智昭さんと共に番組をスタートし、その後20年にも及ぶ長寿番組となった。番組は長きにわたり視聴率1位をキープ。笠井さんが歯切れよく話を展開する姿は、今でもたくさんの読者の脳裏に残っているだろう。

番組が長く続く中で、視聴率が低迷した時期もあった。コーナーのマンネリ化も避けられない。それでも何度かテコ入れを繰り返し、一時は1位まで復活した。

ただ、時間の経過で変化したのは視聴率だけではなかった。

笠井さんが番組で話す時間は、番組開始から約15年間は、20〜30分程度あった。しかし、最後の5年間は2分程度まで激減。もちろん、裏方としての仕事はたくさんある。番組の台本を書く。後輩にプレゼンの指導をする。経験してきたからこそできる仕事だ。

しかし、アナウンサーを天職としてきた笠井さんにとって、正直満足できる環境ではなかったと言う。「もう、フジテレビに自分の居場所が無くなってきたんです」。新たな道を考え始めた。

追いやられた中での「脱出」

もちろん、随分前からフリーアナウンサーへ転身するのはどうかと、周りから勧められてはいた。映画を中心とした専門分野の知識も豊富で、社外の仕事も多かった。

しかし、局アナでフリーに転身する人はほぼ40代まで。フジテレビでは定年まで働き続ける先輩が多かった。


(撮影:今祥雄)

「すぐにフリーにならなかったのは、収入の心配はもちろん、フジテレビアナウンス室の居心地がとてもよかったからです」

最終的に、フジテレビ退職を決めたのは55歳のとき。周りから応援する声もある一方で、「大企業を辞めてもったいない」「あと少しで退職金を満額もらえるのに」とも言われた。

笠井さんをよく知る小倉さんや妻からはともに「5年遅かった」という反応が返って来た。それでも笠井さんはこう語る。

「羽鳥慎一アナや、福澤朗アナのように、ゴールデン番組を持ちながら華々しく辞めるわけではない。追いやられた中で、脱出する感じです。それでも、どこかに自分を必要としてくれる人がいるのではないか。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、新たな舵をきる決心をしました」

局アナからフリータレントに転身し、自分の人生をかけると決めた。

フジテレビの退職を決意し、新たなスタートの準備を進める中──。退職する半年くらい前から、徐々に体の異変を感じるようになった。

腰痛に、急激に襲う強烈な尿意。前年に小倉さんが膀胱全摘出手術をおこなってたので、がんを疑い泌尿器科を受診すると「前立腺肥大」と診断された。さらに2つ目の病院を受診した。しかし結果は同じ、「がんではない」との診断だった。

症状は悪化、3つ目の病院では…

しかし、しばらく経っても状態は落ち着かない。それどころか悪化の一途をたどる。急激な尿意に備え、日中は電車に乗る前、乗り換えの駅、目的地の駅に着くたびにトイレに駆け込んだ。夜は寝床に入っても、腰が痛くて寝返りが打てない。

変化が起きたのは3つ目の病院を受診したとき。泌尿器科から腫瘍内科に変更して検査をすると、すぐに医師が「がんでしょう」と告げた。

「悪性なのか良性なのか、そもそも何がんなのか見つかりません。ただ、重病なのは数値からして間違いない。すぐに入院してください」

しかし、笠井さんは「がん」とはっきり確定するまでは絶対に入院しないと宣言した。なにしろ、一大決心をして会社を退職し、今がまさに頑張りどき。不安な中での船出ではあったが、退職後もテレビやラジオ、半年先まで40件ほどの講演まで決まっていたのだ。

それに、どうやら長期入院になりそうだった。会社にいればさまざまな手当てがあるが、フリーになればそれもゼロ。長期入院に備えて、あらかじめ入院費を稼いでおく必要があった。

それから2カ月後。病院でさらに詳細な検査を行うと「悪性リンパ腫」とハッキリ診断がついた。1つ目の病院を受診してから、4カ月の月日が流れていた。

がんを告知されたとき──。「なんで俺が。なんでこのタイミングで俺ががんにならなきゃいけないんだ」「がんじゃないって言ったじゃないか──」。

怒りと悔しさ、さらに悲しみ。被害者意識しかなかったという。

もちろん4カ月間、検査が続く中で覚悟はあった。しかし希望もあった。「やっぱりがんじゃなかったですよ」。その一連の言葉に望みを託すが、無残に散った。

「清水の舞台から飛び降りたら、地面が無かった。さらに落ちたんです」

晴天の霹靂ではなく、曇天の霹靂だった。

「ごめん。がんだった」

がんの告知を受けた日は、ちょうど友人の八嶋智人さんの舞台を観に行く予定だった。そこで、どこか慰めてほしい気持ちもあった。しかし、舞台が終わって楽屋に行って、皆のうれしそうな顔を見ていたら、とても自分はがんだとは言えなかったという。

「がんって、人に言えないんです。周りに迷惑をかける。負担をかける。そして排除される。アンコンシャス・バイアスという無意識の偏見です。がんだからこっちでやっておくねとか、周囲の優しさだけど、社会から排除されることもあるんです」

そのまま帰宅して妻に告げた。「ごめん。がんだった」。涙を抑えられなかった。しかし妻は話を聞きつつも、すぐにセカンドオピニオンを勧めたという。

後日、医師にその旨を伝えると、医師も賛同した。「笠井さんのがんは非常に珍しいタイプです。すぐにでも診てもらってください」。

しかし、4つ目の病院で受診するも結果は同じ「悪性リンパ腫」。

セカンドオピニオンでも「悪性リンパ腫」が確定。ただ、現実は悲しみに浸る間もなく、すぐにいろいろな選択を迫られた。

どの病院で、どの医師に、どんな治療法を受けるのか。手術にするのか、放射線治療にするのか、抗がん剤治療を受けるのか。いろいろな方法がある中で「どれにしますか?」とすぐに決断しなければならない。

身内ががんになって、奔走した経験がある人は、多少はわかるかもしれない。しかし、そういったことにまったく経験のない初心者が、すぐに大事な選択を迫られる。

がんは最初が肝心と聞く。後になって、あの治療にしておけばよかった……そんな声もよく聞くかもしれない。

ただ、笠井さんの場合は血液のがんだったため、よくも悪くも選択肢は一択。まずは抗がん剤治療。

治療に関しては迷いようがなかったが、やはり知識がないがゆえ、いろいろうろたえた。入院前にはネットで介護ベッドをあわてて購入した。役所で手続きをすれば、介護ベッドをレンタルできることは後から知った。がんは備えておいたほうがいいというが、当事者にならないとわからないこともある。その立場になって初めて痛感した。

ボロボロの体で仕事をする中、入院を促される

悪性リンパ腫という診断の確定とともに、4人目の医師、主治医になった医師からもすぐに入院を促された。

すでに体はボロボロだった。しかし、がんとは関係なく仕事が入っていた。

とくに『徹子の部屋』には絶対出たかった。収録は、がんが確定した日から2週間後。主治医に少し入院を延ばせないか相談するも、首を縦に振ろうとしない。

「何かあったときは、先生、病院のせいにはしないから。必要なら一筆書きます」

そこまで伝えると、2週間ならそこまで大きく状態は変わらないだろう、ただし、急変したときはすぐに入院することと約束して許可を得た。

「仮に病気が治ったとしても、もうテレビに出られないだろうと思ったんです。それなら最後に爪痕を残したい。気づいたら、笠井アナ消えたね……と言われるのは、自分の人生プランとしてありえないと思ったんです」

当初、仕事は『徹子の部屋』だけに絞ろうと思った。痛みが限界に達しており、それ以外のすべての仕事をキャンセルするつもりだった。

しかし笠井さんの担当、加藤マネージャーから指摘が入る。笠井さんが復帰した後、あのとき笠井さんは『徹子の部屋』には出たけど、僕たちの番組はキャンセルした。軽く見ていたんだと思われて、一気に信用を無くすと。

「今すぐ入院するか。全部の仕事をやって、『徹子の部屋』にも出るのか、どちらかにしてください」

そうか。マネージャーは、僕が戻ってくると思っているのか。結局、最後の2週間もすべての番組に予定どおり出演した。1回につき数時間しか持たない痛み止めのロキソニンを飲むタイミングに気を配りつつの、大変な苦しみの2週間になった。

『徹子の部屋』収録当日。入院3日前。

本来、収録が終わって3日後に世間に公表する予定だったが。妻、ますみさんのすすめもあって黒柳徹子さんの耳にその話は伝えられた。明るく穏やかに話を進めてくれた。

さらに収録には妻と息子も同席した。「妻は僕が病気から必ず復帰するとは言っていたけど、それでもね。家族が見学にくるなんて初めてです。まるで発表会みたいですよ。でも、来たいって言われたときに、ちょっと嫌だったけど、見てほしい気持ちもありました。自分の最後の晴れ姿だと思ったんです」。

なんでそんなに働くの?

ところで、がんになったことで、自分を責めるような気持ちはあったのだろか。

「それは随分後になってからです。告知されたときは被害者意識しかなくて、自分を責めるなんて微塵も思わない。俺は一生懸命生きてきた。粉骨砕身働いてきたのも、フリーになったのも、すべて自分のスキルを上げるため。それがなんら悪いとは思ってないし、自分に自信があるからここまでやってきた。

ただ、家族には評判が悪かった。なんでそんなに働くの?って。夜中の3時に迎えの車がきて、帰宅するのは夜の9時10時。普通は昼に帰ってくるんじゃないのと。

でも、俺が間違っていた、なんて思うのは告知されてもっと後。抗がん剤を打って、夜眠れなくなっているときにようやく考えることです」

今でこそ、働きすぎている人を見ると「そんな無理をすると、がんになるよ」と声をかける。家族のために休むことを勧める。しかし、いわゆる“昭和人間”は、働きすぎていることが自慢だったりする。笠井さん自身、そこで自己評価していた部分もあった。思い当たる人も少なくないのではないだろうか。

(この記事の後編:「フリー転身2カ月でがんに…笠井アナが見た世界」

(松永 怜 : ライター)