ついに登場!承久の乱で三浦義村と兄弟対決を繰り広げる三浦胤義(岸田タツヤ)の生涯【鎌倉殿の13人】
義村の弟。策謀を巡らす兄・義村を支える実直な武者。
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより
三浦義村(演:山本耕史)の弟、三浦胤義(みうら たねよし)。兄が北条義時(演:小栗旬)の盟友であり続けたのに対して、胤義は朝廷に与して承久の乱(承久3・1221年)で義時と敵対。
ということはつまり兄・義村と決別してしまうのですが、果たしてどんな生涯を送ったのでしょうか。
今回は岸田タツヤさんが演じる三浦胤義の生涯をたどってみようと思いますので、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にどうぞ。
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畠山重忠の乱、和田合戦で活躍
三浦胤義は生年不詳、三浦義澄(演:佐藤B作)と正室・伊東祐親(演:浅野和之)の娘との間に誕生しました。
元服してからの通称は九郎(くろう。平九郎)、『吾妻鏡』での初登場は元久2年(1205年)6月22日。畠山重忠(演:中川大志)の討伐戦、恐らくこの「畠山重忠の乱」が初陣でしょう。
「鎌倉殿の13人」今回は畠山重忠の勝利!組み伏せられた義時に突きつけられる刃…第36回放送「武士の鑑」振り返り
「武士の鑑」畠山重忠。歌川芳虎「大日本六十余将 武蔵 畠山次郎重忠」
※この事から、初陣≒元服≒15〜20歳と考えた場合、胤義の生年は文治元年(1185年)〜建久元年(1190年)ごろと推測されます。
畠山一族が滅亡して間もない同年閏7月19日には「牧氏の変」で兄・義村や長沼宗政(演:清水伸)、結城朝光(演:高橋侃)、天野六郎政景(あまの ろくろうまさかげ)らと共に出動。将軍・源実朝(演:柿澤勇人)を救出しました。
「牧氏の変」でクーデターに失敗した北条時政(演:坂東彌十郎)は出家させられ、りく(演:宮沢りえ。牧の方)ともども伊豆国へ幽閉されます。
その後も実朝に仕えた胤義ら三浦兄弟。建暦3年(1213年。改元して建保元年)5月2日には和田義盛(演:横田栄司)が義時を打倒せんと挙兵。いわゆる「和田の乱(和田合戦)」です。
義盛「平六、平九郎。お前ぇら、同族の和田を裏切るんじゃねぇぞ」
義村「……決まってるでしょう。なぁ九郎?」
胤義「左様。三浦一族の長老を裏切るなど……」
ならばその旨、起請文を書いてもらおう……というわけで起請文を書いた義村でしたが、後で胤義と相談しました。
義村「三浦の祖先・三浦平太郎為継(へいたろうためつぐ)はかつて八幡太郎・源義家(みなもとの よしいえ。実朝の5代祖先)の奥州征伐に従って以来、源家累代の家人として忠義を尽くしてきた。それを裏切るようなことがあれば、天罰を免れまい」
胤義「いかにも。ここはやはり過ちを認め、鎌倉殿と執権殿へお味方するよう内通しておき、タイミングを見て寝返ろうじゃないか」
和田合戦の様子。歌川芳虎筆
かくして三浦兄弟が裏切ったことで計画が狂った和田勢は奮戦むなしく滅亡してしまいます。
以来、御家人たちは「三浦の犬は友をも喰らう(一族さえ裏切る卑怯者)」と呼び蔑んだということです。
とは言え、和田合戦の戦功はきちんと報いられ、胤義は義盛の旧領であった上総国伊北郡(現:千葉県いすみ市・勝浦市)を恩賞として与えられました。
こうして北条の盟友として鎌倉幕政に重きをなした三浦兄弟。しかし胤義の心は次第に京都へと惹かれていくのです。
鎌倉へ叛旗を翻し、打倒義時に奮闘する(承久の乱)
やがて胤義は鎌倉を離れて京都で大番役を務めたのち、検非違使(判官)に任じられます。人々からは九郎判官(くろうほうがん)などとも呼ばれたとか。何だか、かつての源義経(演:菅田将暉)みたいですね。
『承久記』によると胤義は、後鳥羽上皇(演:尾上松也)の側近である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)の説得によって鎌倉へ叛旗を翻したと言います。
藤原秀康と語り合い、打倒義時に燃える三浦胤義。『承久記絵巻』より
その動機は正室である一品房昌寛(いっぽんぼう しょうかん)の娘が前の夫・源頼家(演:金子大地)を時政に殺され、彼女の産んだ禅暁(ぜんぎょう。頼家の四男)も承久2年(1220年)4月14日に義時の命により殺されたため。
「今や鎌倉に源氏の君なく、執権の北条一族が政を牛耳るのみ。今こそ逆賊を討ち滅ぼし、天下をあるべき姿に戻そうではないか!」
「おう。逆臣北条、討たいでか!」
話が決まったなら善は急げ。さっそく胤義・秀康らは京都守護であった大江親広(おおえの ちかひろ。大江広元の子)と伊賀光季(いが みつすえ。義時の義兄弟)にも味方するよう打診しました。
「上皇陛下にお味方せよ!」
それぞれ呼びつけて起請文を書かせようとしたところ、うっかり参上してしまった親広は、畏れ多くも上皇陛下に面と向かって「嫌です」とは言えず、泣く泣く味方してしまいます。
一方の光季はそもそも呼び出しに応じず「私は鎌倉殿(≒執権)の命で京都に来ているので、どんな気軽な御用であってもまずは鎌倉殿のご許可をいただいてから参上いたします」と遠回しながら拒絶したため、滅ぼされてしまったのでした。
秀康「さぁ、こうなったら後へは退けぬ。鎌倉の勢力を削ぐため、平六殿を味方につけるよう説得できるか?」
胤義「もちろんです。兄は『嗚呼の者』だから、次の鎌倉殿(日本国惣追捕使)にしてやると言えば、断るはずがありませんや」
この「嗚呼(おこ。烏滸)の者」とは、現代でも「烏滸がましい」なんて言うように、身の程知らずの愚か者≒野心家とでも訳したらいいんでしょうか。
つまり「今は義時にベッタリだけど、権力の座を約束すれば必ず寝返ってくれるでしょう」と言いたかったようです。
胤義「まして義時を討てと院宣を下せば、ヤツは朝敵。味方する者なんて一千騎もいないでしょうな。もう楽勝々々!」
秀康「それは頼もしい。はっはっは……」
胤義からの誘い状を義時に差し出し、忠義を誓う義村(中央)。『承久記絵巻』より
……などと高をくくっていたのですが、残念ながら現実はそう甘くありません。義村はじめ坂東武者たちはこぞって義時たちに味方し、胤義らは奮闘むなしく敗れ去ってしまいます(その辺りはまた改めて)。
エピローグ
「……朕は敗れた。もはやそなたたちにしてやれる事は何もない。去るがよい」
承久3年(1221年)6月15日、最後の決戦に敗れた胤義は後鳥羽上皇に別れを告げられ、東寺に立て籠もって最後の決戦を挑みました。
宇治川の死闘。『承久記絵巻』
『承久記』によれば兄・義村と最後に対面を果たすも「バカの相手は時間の無駄だ(しれ者にかけ合て無益なり)」と引導を渡されてしまいます。
義村「で、誰が『嗚呼(おこ)の者』だって?」
胤義「嗚呼(ああ)……!」
兄に見放された胤義は子の三浦胤連(たねつら)・三浦兼義(かねよし)らと共に西山の木嶋(現:京都市右京区・木嶋坐天照御魂神社)で自害して果てたのです。
以上、岸田タツヤさんが演じる三浦胤義について、その生涯をざっくりたどってきました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどのようにアレンジされるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
御家人制研究会 編『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1992年3月貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第三巻 自巻第十七 至巻第二十六』新人物往来社、1997年7月高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月トップ画像: 鎌倉殿の13人 公式ページより