世界の海を経験した岩粼明さん。彼が故郷の海で始めた、一年中“ホタル”が見られるグラスボートとは?(写真:著者撮影)

鹿児島の北端にある長島町ではきらめく夜光虫が見られるナイトクルーズが年間を通して開催されている。夜光虫は代表的なプランクトンの一種で、物理的な刺激を受けると発光する習性がある。真っ暗闇に包まれた海で輝く様子はまるでホタルさながらだ。

「川辺のホタルは初夏のわずか1カ月くらいしか見られませんが、海のホタル(夜光虫)なら一年中見られます」。そう話すのはナイトクルーズ船・船長の岩粼明さん。


グラスボートから見る夜光虫の輝き(撮影:岩粼謙治)

岩粼さんは長島町で網元の家系に生まれて海を遊び場に育ち、高校卒業後は世界中の海で遠洋漁業を展開する水産会社に就職。航海士としてハワイやロシア、オーストラリア、アフリカ沖など世界中の海を航海した後に長島に戻り、網元4代目として家業を継ぐとともに、観光グラスボート事業も始めた。

「ほかの誰もやらないことをやる」が信念。漁師として長島の海を身近に育ち、世界の海を見てきた経験を生かして海の面白さや不思議さ、すごさを伝えている。この記事ではグラスボートツアーの様子や事業運営に至った岩粼さんの経歴を紹介したい。

海中探検コースとナイトクルーズ

岩粼明さんは観光グラスボート事業のほか、民宿と食堂の運営も手掛ける。以前は漁業も多岐にわたって行っていたが、現在は親族が中心になって執り行う。獲れた魚は民宿や食堂で提供。ミズイカ(アオリイカ)やメジナ、キビナゴなど、長島の海の幸が味わえる。


民宿兼食堂のえびす屋。観光グラスボートの受け付けもここでやっている(著者撮影)


宿の裏手にある岸壁。ここからクルーズ船は出発する(著者撮影)

観光グラスボートは、その名の通り船底がガラスになっており、船内から海中の様子が観察できる。日中の「海中探検コース」と日没から21:30頃までの「ナイトクルーズ」があり、日中は透明度の高い長島の海とテーブルサンゴや色鮮やかな魚たちが見られ、夜は輝く夜光虫を見ることができる。

「ナイトクルーズ」は暗い海の中を進むため、このあたりの地形を熟知している岩粼さんの知識と技術あってこそ成り立っているツアーだ。冒頭で夜光虫は物理的な刺激を受けて光ることを説明したが、ボートが海を進むことによって船底が夜光虫に当たり、その刺激によって発光するのだ。船のスピードを速めると夜光虫はより刺激を受けて輝きを増す。


怪獣岩(撮影:岩粼明)

日中の「海中探検コース」では、海の中だけでなく船からの景色も楽しめる。このエリアは雲仙天草国立公園で、島々が連なる多島景観やダイナミックな海岸線が見られる。約300万年前の大噴火から成る凝灰岩は風化によって典型的なリアス海岸になっており、まるで怪獣が口を開いているような“怪獣岩”や宝物伝説が残る洞窟が多く存在する。

料金は「海中探検コース」「ナイトクルーズ」どちらも大人1800円、小人(12歳以下)900円で、1人からでも受け付けてくれる。天候や海の状況、年2回のドックで休みになることもあるが、基本的に通年で運航。県内だけでなく関西や関東からの予約も入る。新幹線の停車駅・出水駅から直通のシャトルバスも出ているため、車がなくてもアクセスしやすい環境だ。

岩粼さんが案内する海の世界は驚きと楽しさに満ち溢れている。それは、子どもの頃からずっと海と関わり続けている岩粼さんの経験や思いがあるからだ。

戦後の漁村育ち

網元の家に育った岩粼さん。子ども時代は裕福ではなかったが、魚もよく獲れ、乗り子には分け前を百円札の束で渡していた父の姿を覚えている。当時は貴重な現金収入が得られる場で、若手が働きに来ていた。しかし船や網の購入・メンテナンス等出ていく金額も大きかった。当時は半農半漁で、父も祖父も365日、海でも陸でも仕事の毎日だった。

「祖父は私が3歳半の頃に亡くなったんですけどもしっかり記憶があります。病床の寝床にも網を持ち込んで繕いをして、最後まで漁の心配をしながら亡くなりました。68歳でした」

長島の海を遊び場に育った。網元の家には近所のお年寄りがよく集まって、彼らが話す歴史の話も興味深く聞いた。歴史の偉人・西郷隆盛や鎖国時代に禁を犯して海外留学へ旅立った薩摩スチューデントに憧れて、「自分も外国に行ったらきっと変われるぞと」と思った。

小さな離島(※1974(昭和49)年に黒之瀬戸大橋でつながるまで長島は離島だった)から、遠い海の向こうの世界へ夢を抱く。

18歳で長島を出て世界の海へ

高校卒業後に水産会社に就職。実務経験を積みながら航海士の免許を取り、世界の海を巡った。

初めての航海でハワイへ着いたときの感動は忘れえぬ思い出だ。暗闇に包まれた夜の海を進んでいくと、水平線の向こうにかすかな光芒が見え、光が次第に大きくなり、夜景のきらめく港と街が姿を現した。

「何度経験してもこの入港の瞬間はたまらなかったです。ワクワクしすぎて前の晩から眠れないくらい」

当時のイミグレーション(入港管理事務局)では、一人3個ものパイナップルを丸ごとプレゼントしていた。食べたことのないパイナップル、どう食べるのかわからずリンゴみたいに皮ごとかぶりついてみた。

「ひどい目に遭いました(笑)。その後、ワイキキでパイナップルを搾ってくれるジュースに出会って、もう生まれてこの方味わったことのない初めての味に感動しました」

出会う風景も人も、今までとはまったくの別世界。18歳の感受性豊かな岩粼さんの目には何もかもがきらめいて見えた。

「18ですから今から考えるとまだ思春期。どう生きるべきかが当時の自分には課題で、まだ慣れない英語で「What do you living for?(何のために生きていますか)」といろんな人にインタビューしました。と。すると「For enjoy my life(自分の人生を楽しむため)」と。

自分の故郷とはまったく違う世界、人、考え、価値観を揺さぶられた。


民宿えびす屋の壁に貼られた世界地図。ピンが刺さっている場所が岩粼さんが訪れたことのある海だ(著者撮影)

遠洋漁業の黄金時代

岩粼さんが水産会社にいた1970年代は遠洋漁業の黄金期であり転換期だった。

戦後の1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約発効後、日本の漁業は「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」と世界の海へ進出していった。1972(昭和47)年には年間1012万トンを水揚げして漁業生産高世界一になる(うち遠洋漁業での水揚げは約40%)。

しかし、海洋資源の利用に対する考えや沿岸国の利益の保護の観点から、沿岸国200海里内での漁業等に関する排他的な管轄権を主張する動きが強まっていった。アメリカやソビエト連邦(現・ロシア)、ヨーロッパ各国でも200海里の設定に踏み切り1977(昭和52)年は「200海里時代」の幕開けとなった。

「カナダとソ連の間のベーリング海でズワイガニを獲っていたときに200海里問題でそこを出ることになり、会社から『新しい漁場を開拓してくれ』と言われて調査船であてのない世界旅に出ることになりました」

その後、アフリカ沖でカニの大きな漁場を見つけた。船内の工場でむき身に処理・冷凍して、中積み船(運搬船)で陸へ運ぶ。カニの肉だけを日本やフランス、イギリス、カナダ等にも輸出していた。そのため、船の中に加工場を備えて対応した。ここで岩粼さんは航海士だけでなく工場長の役割も担う。約4500m下の海底からカニを引き上げるため、機械も普通のギアではなく油圧式のローラーを導入したり、設備の検討・導入・手配まで担当した。

「試行錯誤です。船の中で全部解決しなきゃいけないので、いろいろと工夫する癖がつきました」

経験を生かして観光船運営を始める

水産会社に10年務めた後日本へ帰国。帰りの飛行機の中では「自分の経験を生かしてほかの誰もやらないことをやろう」と決意を新たにした。故郷長島で網元4代目を継いだ後、1989(平成元年)に観光船を始めることにした。

「魚の生態ってすごいんですよ。何でも人間が一番だと思ってるかもしれないけども、海の中に行くと私たちはとてもかなわない。誰が命令するわけでもなくあれだけの小魚の大群が一糸乱れずに方向を変えて泳ぐわけですから。ちゃんとコミュニケーションが取れてるんですよね」

海の面白さや魅力を伝えていきたいと観光船運営に乗り出すが、当初は前例がないことや法律上の問題で行政から反対の声もあった。その時、父や地元の人、町も大きな味方になってくれて、法律面をクリアして無事スタート。

観光船開始1年目はわずか年間500人の利用だったが、マスコミや口コミで広がり2年目は1000人、3年目は3000人、4年目は5000人と大きく客数を増やしていった。

その後、1993(平成5)年にナイトクルーズも始める。ちょうどその頃は川の水質が改善されて再びホタルが川辺を飛ぶようになった等のニュースが注目された時だった。

「私は海育ちなので、海のホタル(夜光虫)なら一年中いるのにあまり知られていない。観光としても日本ではメジャーではない。人がやらないのだったら、自分が海の中にもホタル(夜光虫)がいることを世に示したいと思った」

漁師の育ち、世界の海を経験したからこそできた

観光グラスボートは、設備の維持管理、安全性の確保、集客をクリアしながら運営しなくてはいけない。特にナイトクルーズは、期間限定のイベントで開催しているところはあっても岩粼さんのように不特定多数の人が年間を通していつでも来られるものは、ほぼないといっていいだろう。

「船長、副船長、船員を雇わなくてはいけないし、専用岸壁もいるし、船のメンテナンス知識を持つ人も必要です。資金がかかる分集客もしなくてはいけない。大きなホテルでも観光船を持つのは大変です」

漁師で海を知り尽くし、運航やメンテナンスすべてを自分たちでこなせるからこそできた事業である。漁師の強みが生きている。

「自分は学歴があるほうじゃないし、体力的に人よりも優れているわけではない。人と競うことも好きじゃない。だからこそ経験や自分の持っている知識で他の人があんまりやらないこと、できないことをやろうといつも考えてきました」

そして何よりも海とその生き物に対する熱い思いがあった。岩粼さんは自分で収集した貝を展示したり、漁獲したハリセンボンの針の数を数えて本当に「針千本」かどうか確かめたり、日ごろから海を楽しみそれを面白く伝えてくれる。だからこそ訪れる人が楽しめるのだろう。

長島町の海は真夏もきれいだが、秋冬になると海はさらに透明度を増す。岩粼さんの語る海の生き物や海洋史、世界の海の話を聞きに訪れてはどうだろうか。


グラスボート乗り場横にある砂浜(著者撮影)

参考文献:

岩粼爾郎(1982)『物価の世相』読売新聞社

岸康彦(1996)『食と農の戦後史』日本経済新聞社

(横田 ちえ : ライター)