羽生直剛の日本代表ベストゲーム。試合後「オシムさんが目を合わせて、うなずいてくれた」
日本代表「私のベストゲーム」(12)
羽生直剛編(前編)
1979年生まれの羽生直剛は、いわゆる"黄金世代"のひとりである。
10代にして頭角を現した小野伸二や稲本潤一らに比べれば遅咲きだったとはいえ、2002年に筑波大学からジェフユナイテッド千葉(当時はジェフユナイテッド市原)に加入して以降、2017年シーズンを最後に現役を引退するまで、プロとしてのキャリアを長らく歩み続けた。
「『おまえみたいなレベルでは、プロになれるわけがない』とか、『なれたところで、2、3年で終わる』とか言われていましたし、『おまえは教員免許をとったんだから、その後は先生になれ』って、そういうイメージをずっと刷り込まれていましたからね。僕は"隠れ黄金世代"なんです」
そう言って苦笑する羽生は、「筑波大の食堂で安いカレーライスを食べながら、(黄金世代が準優勝した1999年の)ワールドユースをテレビで見ていました」。プロ入りしたあとも、「日本代表は具体的な目標では全然なかったです」。
だが、周囲の予想に反し、羽生は16年間のプロ生活で日本代表に何度も選出され、国際Aマッチ通算17試合に出場した。
そんな羽生が選んだ自身の日本代表ベストゲームは、2007年6月5日、埼玉スタジアムで行なわれたキリンカップ、日本vsコロンビアである。
「基本的に僕、代表で大した活躍をしていないので消去法ですね(笑)。胸を張って好パフォーマンスだったって言える試合はないんですけど、少し充実感があったのは、そのゲームだったかなっていう感じです」
羽生直剛が自らの日本代表ベストゲームに選んだ2007年のコロンビア戦
話はコロンビア戦から、さらに5年遡る。
2002年のルーキーシーズン、羽生はJ1で23試合出場2ゴールの記録を残せたことに安堵感を覚えていた。プロ入り前の"刷り込み"を考えれば、無理もないことだっただろう。
そんな折、千葉の新指揮官としてやってきたのが、イビチャ・オシム監督だった。
旧ユーゴスラビア代表をワールドカップでベスト8進出へ導くなど、ヨーロッパで数々の実績を残してきた老将は、羽生に対し、こんな言葉を投げかけ続けたという。
なぜおまえはこの程度で満足しているんだ。もっと上を見ろ――。
羽生はもともと、「手を抜いたりすることが嫌い」な性格だった。そのうえ、おまえがプロになれるわけがないと散々刷り込まれてきた小兵は、裏を返せば、普通にやっていれば、すぐにクビになってしまう。そんな切迫した気持ちを常に抱えていたとも言える。
「一生懸命やって、オシムさんに認められたい、みたいなところがありました。一日、一日、全力でレベルを上げることだけは努力しましたし、危機感を持ちながら、それをエネルギーに変える選手だったと思っています」
その結果が日本代表選出だった。
「結果的には、オシムさんが代表監督になったので、僕も代表選手になれた。ある意味、夢をかなえさせて"もらえちゃった"っていう感じでしたけどね」
羽生が日本代表に初めて名を連ねたのは、2006年8月。オシム新監督が誕生して2試合目となる、アジアカップ予選のイエメン戦でのことだった。
「緊張感もありましたけど、何か不思議な感じというか、最初の試合はベンチスタートだったと思うんですけど、自分が代表の青いユニフォームを着て、満員のスタジアムで、国を代表して君が代を聞くみたいな気持ちは......、高揚感というか、そういうものを感じたのは覚えています」
当時の日本代表でひとつの話題となったのが、オシム監督が課す練習メニューの難解さや複雑さである。戸惑いを見せる選手が多いなか、しかし、すでに千葉で存分に鍛えられていた羽生らにとって、それは当たり前の日常だった。
「やっている練習とか、練習が意図していることというのは、ジェフの時と変わりませんでした。だからこそ、僕ら(ジェフの選手)が入って練習の効率を高めるっていうことも含めての人選だったと思います。僕自身は、レベルの高い選手たちの足を引っ張らないようにという気持ちでやっていました」
もちろん、オシム監督自身から、みんなに練習の意図を伝えてくれ、と言われたことはない。それでも、羽生は「そうなるだろうな、っていう感じだったんじゃないですかね」と振り返る。
「練習の効率を上げるっていうのも、ひとつのタスクだなとは思っていたので。自分がチームをよくする存在でいたいという気持ちは、初めて選ばれた時からありました」
それだけ羽生らの存在は、日本代表において貴重だったということだが、当の本人にしてみれば、初招集以降、コンスタントに選出されるようになってもなお、ただただ必死に毎日を過ごすのみだった。
「練習でも、試合でも、その日のミッションをやり遂げ、日本代表にふさわしいパフォーマンスができるかどうか。僕はそれだけを考えてやっていました」
そして迎えたコロンビア戦。羽生がこの試合をベストゲームに選んだのは、試合そのものだけでなく、前段階の出来事が強く印象に残っているからだ。
「僕、そのゲーム、(日本代表選出を)辞退しようとしていたんです」
引き金となったのは、コロンビア戦直前に行なわれたJ1第13節の対ガンバ大阪戦。千葉は前半に先制しながら、後半、羽生のミス(自陣ゴール前で味方に落としたボールを相手にさらわれ、そのままゴールに叩き込まれた)で同点に追いつかれると、立て続けに決勝点も許し、1−2の逆転負けを喫していた。
しかも当時の千葉は、オシム監督が日本代表に"引き抜かれた"ことで、その息子であるアマル・オシム監督が後任に就いていたが、なかなか勝てない時期を過ごしていた。
その最中、「自分が失点に絡むミスをして同点に追いつかれて、僕自身、感情的になっていたのもあるんですけど」、羽生はアマル監督のところへ行き、「自分は代表にいられるだけの選手じゃないので辞退したい、と言いました」。
「代表選手になれて、今でこそ幸せだと思うんですけど、やっぱり"オシムチルドレン"とかって言われているなかで、僕のプレーでオシムさんが批判されてしまう。そのプレッシャーがものすごくありました」
話を聞いたアマル監督は、ひとまず羽生の言い分を引きとった。だが、次の日、改めて羽生を呼ぶと、「親父も意味があっておまえを呼んでいるんだから、行って来い」。そう伝え、こんな言葉を添えたという。
背負った荷物を下ろすのは簡単だぞ――。
羽生は「親子そろって名言みたいなことを言ってくるんだなと思ったんですけど(笑)」、結局、アマル監督に背中を押される形で、代表へと向かうことを決めた。
「ここでチャレンジしてダメだったらいいや、っていう開き直りみたいな感じがありました」
背水の陣を覚悟して臨んだこの試合、停滞したまま0−0で終わった前半を受け、羽生は後半開始から稲本潤一に代わって途中出場する。
「僕にできることがそんなに多かったわけじゃないので、とにかく(チームを)活性化するっていうところを目指して入りました」
その言葉どおり、羽生は空いたスペースを見逃さずに走り込み続け、いくつもチャンスを作り出した。
結果を言えば、試合はスコアレスドローに終わるのだが、ハーフタイムを境に、日本代表というチームに血が通い始めたことは明らかだった。
「僕がいろんなところに顔を出すことによって、結果的に他の人にボールが入るシチュエーションが増える。オシムさんも、僕がボールを持ってひとりで仕掛けてゴールを決めるとかっていうんじゃなく、僕をおとりに使うことで個性あるタレントに多くのボールが入るとか、多くの選択肢が生まれるとか、そういうイメージだったと思います。自分がアクションを起こすことで(チーム全体が)動く。まずは自分が率先して動こう、という気持ちはありました」
とはいえ、羽生は正直なところ、この試合でのプレーを細かく記憶しているわけではない。「後半から入って、(自分が出場した日本代表戦のなかでは)一番明確に流れを変えたかなっていう感覚が残っている」という程度だ。
だが、そんなおぼろげな記憶のなかには、はっきりと脳裏に刻まれていることもある。
「その試合のあとに、オシムさんが『おまえ、今日はよかったぞ』みたいな感じで、目を合わせて、うなずいてくれたのは覚えていて......。今日は少し認められたのかな、みたいなことを感じた記憶は残っています」
もちろん、かの名将は甘い顔を見せてくれただけではない。当時の試合映像を見返してみると、試合が残り10分になったあたりで、大きく「ハニュー!」と呼ぶ声が聞こえてくる。
声の主は、オシム監督だ。
「その時に何を言われたかは覚えていませんが、ジェフの時から、試合中に呼ばれることはよくありました。いや、もう......、呼ばれた時には何を言われるのかと......、振り向くのがめっちゃ怖かったですから(苦笑)」
しかし、そんな積み重ねがあったからこそ、試合後の"無言の会話"が特別な記憶となるのだろう。
「試合が終わって、そうやって目配せというか、目を合わせてくれると、『あー、よかったー』みたいな感じですよ(笑)」
一度は下ろしかけた荷物を再び背負うと覚悟を決めた羽生に、待っていたのは自身のベストゲームであり、恩師からのご褒美だった。
「オシムさんがずっと言っていた、『サッカーではキツい時に逃げ出すよりも、そこから先に進もうとすることのほうが大事なんだ』っていうことは、そこからも学べたと思いますからね。
(辞退せず)行ってよかったなと思っています」
羽生直剛(はにゅう・なおたけ)
1979年12月22日生まれ。千葉県出身。八千代高から筑波大に進学。同大学を卒業後、2002年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入り。1年目から主力選手として活躍。プロ2年目には"人生の恩師"であるイビチャ・オシム監督と出会って、2006年には日本代表入りを果たす。2008年、FC東京に移籍。その後、ヴァンフォーレ甲府、FC東京でのプレーを経て、2017年シーズンには古巣の千葉へ完全移籍。同シーズンを最後に現役から退いた。2018年からFC東京のスカウトを務め、2020年には自らが代表取締役を務める(株)Ambition22を設立。スポーツ事業におけるマネジメント、支援、教育サポートを行なう事業を展開し、日々奔走している。