「三鷹市って鉄道空白地帯じゃない?」――このような意見がSNSで話題となりました。地図を見ると確かに、市域を避けるように鉄道があります。同市に位置する3駅も、市域の端に所在。なぜこのような状況となっているのでしょうか。

市の南北を通るJR中央線と京王線の成り立ち

 東京23区に隣接する人口約19万人の三鷹市。その周囲には東に京王井の頭線、西に西武多摩川線、南に京王線、北にJR中央線と、四方に取り囲むように鉄道が走っていますが、市内にはほとんど鉄道がありません。都心に近いベッドタウンでありながら、三鷹に鉄道が少ないのはなぜなのでしょうか。


JR三鷹駅も、市域の北の端に位置する(画像:写真AC)。

 三鷹の歴史は、現在も地名に残る上連雀、下連雀などの10村が1889(明治22)年に合併し、三鷹村が成立したことに始まります。この頃、多摩地方は神奈川県の管轄だったため「神奈川県北多摩郡三鷹村」でしたが、1893(明治26)年に東京府に移管されました。

 三鷹村の成立と同じ年、中央線の前身である甲武鉄道が新宿から八王子まで開通します。しかし、開業時に設置された駅は新宿、中野、武蔵境、国分寺、立川、八王子のみで、三鷹には駅は設けられませんでした。この頃はまだ東京の郊外化が進んでいなかったためです。

 中央線の線路が中野から立川まで長い直線なのは、八王子方面に繋ぐにあたって最も効率のよいルートだったからといわれています。逆にいえば沿線には気にかけるほどのものがなかったということです。

 一方、三鷹市の南を走る京王線は1913(大正2)年、前身である京王電気軌道が笹塚〜調布間で開業し、1916(大正5)年に笹塚から新宿まで延伸しました。京王線は新宿から府中まで甲州街道とほぼ並行して敷設されていますが、これは新時代の経済合理性を追求した中央線に対し、街道という旧来の人とモノの流れを重視した路線であるといえるでしょう。三鷹はそんな性格の違う両路線に囲まれた位置にありました。

幻の「西武立川線」計画

 明治・大正期を通じて純農村地帯の面影を残していた三鷹が住宅地に変貌したきっかけとは、1923(大正12)年に発生した関東大震災でした。災害のリスクが高く、環境も悪い都心から郊外へ移り住む人が相次ぎ、1920(大正9)年に5725人だった三鷹村の人口は、20年後の1940(昭和15)年には4倍近い2万4247人にまで増加しています。

 移り住んできた人の多くは都心で働く勤め人だったことから、郊外から都心までの通勤需要が高まり、1930(昭和5)年、中央線に待望の三鷹駅が開業します。1933(昭和8)年には京王井の頭線の前身である帝都電鉄が開通し、井之頭公園(現・井の頭公園)駅と三鷹台駅が開業しました。武者小路実篤や太宰治など、多くの作家が三鷹に移り住んだのもこの頃です。


西武多摩川線の多磨駅。府中市内の駅だが、三鷹を東西に結ぶ人見街道の近くにある(2022年5月、大藤碩哉撮影)。

 郊外の開発が進むにつれ、私鉄は既設線に挟まれた空白地帯をビジネスチャンスと見るようになります。中央線と京王線に囲まれたこのエリアでは、西武鉄道(現在の西武鉄道ではなく、西武新宿線の前身である村山線を開業した初代西武鉄道)が1923年、新宿と多磨霊園近くの浅間山まで結ぶ新線の免許を申請しています。

 この計画は1925(大正14)年に立川まで追加申請され「西武立川線」と呼ばれました。実現していれば井の頭線の久我山駅から人見街道に沿って西武多摩川線の多磨駅近くまで、三鷹市のほぼ中央を横断する路線になっていたはずです。

 しかし西武は村山線の経営が厳しく、新線建設をする余裕はなくなり、やがて西武池袋線の前身である武蔵野鉄道の傘下に入ります。その過程で立川線の免許は失効し、計画は幻に終わりました。

三鷹を挟んでにらみ合った西武と京王

 1920年代は多くの私鉄が開業していますが、1930年代に入ると郊外でも都市化が進んだことと、不況で経営が悪化したことで、首都圏における新線の開業はほとんど見られなくなります。郊外化が早すぎても遅すぎても鉄道は実現しないのが難しいところです。

 戦後になると、中央線を挟んで京王と西武のつばぜり合いが繰り広げられます。まず京王が1948(昭和23)年、井の頭線を久我山から分岐させ、三鷹駅を経由して北上し、田無までつなげる新線を申請します。具体的なルートは不明ですが、三鷹市の北東をかすめるような路線になった可能性があります。

 自社の営業エリアへの乗り入れに反発した西武は京王にクサビを打ちます。そのひとつに、都電杉並線の杉並車庫前から多磨墓地(現・多磨霊園)前まで延伸するという、かつて失効した立川線を思わせる計画がありました。

 西武が都電の延伸を計画したことを不思議に思う人もいるでしょう。現在の地下鉄丸ノ内線の新宿〜荻窪間を走っていた都電杉並線は元々、西武鉄道のルーツのひとつである西武軌道が敷設したもので、1942(昭和17)年に東京市電へ組み込まれた後も資産は西武のものでした。戦後に西武が返還を求めて東京都と対立する事態となっており、西武としては都と京王の両方を牽制する意味合いがあったと思われます。

 それでも京王は退きません。新宿から富士見ヶ丘を経由して国立まで結ぶ新線と、富士見ヶ丘から分岐して三鷹に至る支線の免許を申請しますが、結局どちらも実現することはありませんでした。

JR京葉線の三鷹延伸はどうなった?

 鉄道史家の森口誠之氏は「当時の京王と西武の経営状況、そして社会情勢を考えても、両社ともに新線を具体化するだけの力があったとは思いにくい」とした上で当時、多摩地区のバス輸送の免許取得を巡る争いが激化していたことから「バス免許の争奪戦を優位に進めるため、鉄道建設を推進する姿勢を見せて相手を牽制しようとした」と指摘しています(『鉄道未成線を歩く vol.7』)。


東京駅のJR京葉線ホームは、他路線からは離れている。西へ、新宿や三鷹方面への延伸構想があるためだ(国土地理院の地図を加工)。

 結局、戦前と同様、市街化が進んだ地域での新線建設は現実的ではなく、西武線と中央線、中央線と京王線の間にはバスによる“縦”のネットワークが構築されました。

 ただ、実は今でも三鷹付近を通過する新線構想が存在しないわけではありません。2016(平成28)年に公表された最新の答申にも含まれている、JR京葉線を東京駅から新宿駅を経由して三鷹まで延伸し、中央線と直通運転を行う計画です。

 あくまでも構想止まりで詳細なルートは決まっていませんが、国鉄時代の計画では新宿駅と三鷹駅の間に、丸ノ内線 方南町駅付近、井の頭線 浜田山駅付近の2駅を設置するとしており、仮に実現したとしても、市内をかすめるだけで、市内に三鷹以外の駅が開業することはなさそうです。また4000億円以上ともされる莫大な建設費を、コロナ後の国や都、JR東日本が負担できるとは考えられず、この計画もやはり幻のまま終わりそうです。

※一部(京王電気軌道の開通区間)修正しました(6月20日20時)