※この記事は2017年11月10日にBLOGOSで公開されたものです

「永遠のポップス・スター」として知られるミッシェル・ポルナレフ(73)に世界から注目が集まっている。

言うまでもなくポルナレフは数々のヒット曲で70、80年代の日本における洋楽ポップス界を牽引してきた。その彼が12月8日に50年以上にも及ぶ音楽生活の集大成アルバムCDを発売する。しかも、その中身は430曲入りで23枚組にもなるという。

「音楽制作、そしてツアーを重ねる中で今までのカタログを自分なりに整理し続けてきた。ポルナレフには膨大な作品がありますからね」。

ポルナレフに詳しい洋楽関係者のテンションは高まるばかりだ。

「収録曲のうちのおよそ三分の一が未発表曲や初CD化となっています。洋楽ファンにとって年末最大の話題になることは間違いありません」。もっとも、同CDは全世界での発売が決まっているが、日本においての発売は決まっていない。ポルナレフはユニバーサルミュージックと契約を結んでいるものの、現時点では「輸入盤で入手していただくしかありません」(宣伝担当者)。

しかし、23枚組というCDの規模から言って、ファンの間では早くも「入手は困難になるのではないか」という声も出ていると言う。

「レコードが擦り切れるほど聞いた」と言うユーミン

そんなポルナレフの音楽の世界に魅了された1人にニューミュージックの女王・松任谷由実がいる。かつてポルナレフについて問われたユーミンは「初めて聴いたのは中学生の時でした。まだアナログ・レコードの時代だったんですけど…。それこそレコードが擦り切れるほど聴いちゃっていましたね」と語っていた。

一体、ポルナレフの魅力や人気は何だったのか?

日本でポルナレフを一躍、有名にしたのは、何と言っても「シェリーに口づけ」の大ヒットだった。当初は、「追わないで」のカップリング曲「可愛いシェリーのために」で発売(1966年)されたがヒットはしなかった。が、しかし、1971年にタイトルを変えて発売した結果、大ヒットとなった。

「シェリーに口づけ」。

このタイトルをつけたのは当時、CBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)企画制作1部2課EPIC班(その後のEPICソニーレコード)で担当ディレクターだった高久光雄氏だった。曰く 「この作品は、イントロの部分で〝トゥートゥートゥマシェリー〟というボーカルが〝チューチュー…〟と、キスをする音に聞こえるんです、だったら〝口づけ〟をタイトルに入れたらいいのではないかと。あと〝シェリー〟というのは、女性の名前だと思いがちですが、フランス語では〝愛しい人〟という意味なのです」。

EPICレコードの第一弾は〝フレンチ・ポップス〟から

シェリーに口づけの発売日は1971年8月21日だった。高久氏は「秋でもないのにフレンチ・ポップス」というキャッチ・フレーズをつけてメディアを回ったと言う。

キャッチ・フレーズに深い意味がなく、本田路津子のデビュー曲「秋でもないのに」がヒットしたことから「ちょっと使わせてもらった」のだと言う。しかし、これが「EPICレコード」の〝フレンチ・ポップス攻勢第1弾〟となった。

「EPICレコード発足目的の1つだった〝世界中の良い音楽を届ける〟という基本コンセプトは、まずフレンチ・ポップスからスタートと言うことになったのです」
しかも9月に入ると、いきなりフレンチ・ポップスはメディアから脚光を浴びるようになった。

「当時の洋楽と言ったらロックでしたが、レコードビジネスで実は、フレンチ・ポップスがシングル・セールスの20%を独占し、ポルナレフの『シェリーに口づけ』は、発売1か月後の9月25日には1日1万枚以上を売るまでになっていた。ロック全盛という現実の中で起ったフレンチ・ポップスのムーブメントは、音楽業界にとっても大きな衝撃だったと思う」と高久氏は振り返っていた。

いずれにしても、洋楽と言うとアメリカやイギリスのアーティストしか思い浮かばないでいる大多数の音楽ファンにとってポルナレフの存在はメロディ、サウンド、フィーリング、詩の面で、まったく新しい世界を教えてくれたと言っても過言ではないだろう。その結果、当時「シェリーに口づけ」は80万枚を売り上げた。洋楽シングルとしては異例のセールスだった。

そして、72年には待望の初来日、東京・新宿厚生年金会館で公演を行った。

ポルナレフのステージは、特に照明に圧倒されるという。「ライティングに彼なりの拘りがある。作品に合わせてのドラマチックな演出は半端ではなかった。当時、日本のアーティストは誰もが彼のステージに刺激を受けたはず」と当時を知る音楽関係者。ポルナレフは1979年までに4回の来日公演を繰り広げてきた。

21世紀を前に〝日本人の応援歌〟に

そのポリナレフが再び日本で注目を集めたのは、1998年のワールドサッカーのフランス大会だった。同大会のためのアジア予選で日本チームのサポーターが「シェリーに口づけ」をテーマソングとして使ったことだった。
「フランスに行こう!」

「シェリーに口づけ」は21世紀を前にした日本人の応援歌となった。その盛り上がりは、CMにも飛び火、織田裕二が出演する携帯電話(au)のCM「CDma‐1」でも使われ再びポルナレフ・ブームを巻き起こした。

ところが、日本でポルナレフのアルバムは1980年以降、発売されるこはなかった。

CDは「輸入盤頼り」となっていたと言う。この間、ポルナレフは米ロサンゼルスで暮らしていた。そんなポリナレフと私はロサンゼルのペニンシュラホテルで会うことができた。

「今、新しいアルバムを制作しているんだ」と意欲を見せるポルナレフに日本国内でCD発売が実現してこなかったことを尋ねると「確かに日本だけは発売出来なかった。それは何故かって?…商売上の事情があるのかもしれないけど、正直言って僕自身も理解できない、不思議でたまらないんだよ」と困惑した。ただ、その一方では「日本のファンからの声援はインターネットを通して知っているよ。素晴らしいファンばかりだ」。

38年間来日公演が実現せず…

ポルナレフの作品は「権利問題」が絡んでいて日本の発売が実現しなかったと言うが、現在は問題も解消しポルナレフのアルバムは順次CD化されている。しかし、その一方で来日公演は実現していない。すでに38年になる。

「おそらくギャラの問題が大きい。ギャラが高すぎて採算が合わないのでしょう。しかし、彼はそれだけのステージを見せてくれるのも事実です。彼は素晴らしいメロディーメーカー、素晴らしいエンターテインメント、そして素晴らしいキャラクターという、(私が定義づける)スーパースターの3要素を今でも持ち続けているのです」。
来日公演が実現することが待たれる。