「現行憲法は集団安全保障を前提としている」―国際政治学者・篠田英朗氏が語る憲法9条の”最も素直な解釈” - BLOGOS編集部

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※この記事は2017年10月27日にBLOGOSで公開されたものです

10月22日に投開票が行われた衆議院選挙において自民・公明など与党勢力が憲法改正の発議に必要な2/3を超える議席を確保した。これに希望・維新などを加えたいわゆる改憲勢力が全体の8割近い議席を確保したことによって、いよいよ憲法改正が現実味を帯びてきたと考えられる。

現行の憲法、特に9条の解釈をめぐっては、これまでも激しい議論が繰り広げられ、「自衛隊や集団的自衛権は違憲」といった指摘がなされてきた。しかし、今年7月に「ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判」を上梓した篠田英朗氏は、国際政治学の立場から、こうした指摘に反論している。日本の憲法学やこれまでの憲法議論の問題点とは、どのようなものなのだろうか。篠田氏に話を聞いた。【取材・執筆:永田 正行(BLOGOS編集部)】

日本国憲法の背景にある「国際協調主義」

―まず篠田さんのご専門である「平和構築」と憲法の関連性を教えてください。

紛争、戦争が起こった社会が平和になるために行う活動、その活動を助ける国際社会の支援の在り方が、私の研究対象です。「平和構築」では、 紛争が起こっている社会において、紛争を終結させ、平和な社会に作り直していく活動、あるいは紛争の解決方法について、学問的な視点からアプローチすることもあります。

具体的にいうと、例えばアフガニスタンという国では戦争が起こり、タリバン政権が倒れて新しい政府が作られました。アメリカが軍事介入して、新たな大統領が誕生させたわけです。その時に、前政権であるタリバンが作った憲法を維持するわけにはいかないので、当然新しい憲法を導入することになります。憲法は国の仕組みやあり方を規範として定めるものですから、戦争による被害が激しければ激しいほど 必ずそこに改革のメスが入ります。

つまり、私は「平和構築」の専門家の観点からアフガニスタンやイラク、シエラレオネ、リベリア、南スーダンといった紛争が起こった国々において、平和な社会を立て直す過程で必要な法規範・憲法の在り方を考えてきたのです。そして、日本国憲法についても、同様の視点から考えてきました。

―そうした視点から、篠田さんはご著書である「ほんとうの憲法」の中で、日本の憲法9条が日本一国の平和ではなく、国際平和を目的としていることを指摘していますね。

日本が甚大な被害もたらした第二次世界大戦を経験し、「こんな戦争を二度と繰り返したくない」「日本を平和主義の国家に作り変えたい」という考えに基づいて憲法が作られたことは間違いのない事実であり、それが現行の憲法が作られた目的の一つであることは疑いないでしょう。

日本は、かつて国際社会の規範に真っ向から挑戦し、国際法を蹂躙して自国の論理を押し付け、独善的な行動を正当化するなかで戦争をしてしまった。憲法が依拠しているのは、このような考え方であるはずです。

こうした考え方に従って、戦争の惨禍を繰り返さず、平和主義国家になるための必要条件の一つが国際法を遵守することです。国際的な規範を守り、国際社会で協調主義的にふるまうことで他国と争ったり、独善的な行動をとらない国家となる。

これが、現行憲法が語るところの「平和主義国家になる」こと。つまり、「国際協調主義」と「平和を希求する精神」がイコールで結ばれているのが日本国憲法の精神であり、それが憲法前文に書いてあるというのが”最も素直な解釈”だと私は考えています。

現行憲法は国連憲章の集団安全保障を前提としている


―憲法9条が国際協調主義に立脚したものであるという指摘を新鮮に感じる人も多いのではないでしょうか。むしろ、これまでメディア上などでは「憲法9条は世界でも類を見ない、日本独自の最先端の条文なのだ」といった言説が盛んに取り上げられてきました。だからこそ、「個別的自衛権は合憲であっても集団的自衛権は違憲なのだ」という指摘が一定の説得力をもって語られてきたのではないでしょうか。

憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という記載がありますが、この文章における「平和を愛する諸国」とは何でしょうか。

国際政治、国際法を学んだ人間であれば 、「平和を愛する国(peace loving nations)」は国連憲章にも出てくる言葉だということを知っています。 つまり、日本人だけを信頼するのではなく、国連加盟国を信頼して自国の安全を確保することを憲法は定めている。1945年当時の国連加盟国といえば第二次世界大戦の戦勝国であり、日本を木っ端微塵に打ち負かし、原爆を落とした国々です。それでも、こうした国々を平和愛好国家だと考え、信用して自国の平和と安全を培おうということなのです。

もっと具体的に言えば、「国連加盟国を信じる」ということは「国連憲章を信じるということ」です。つまり、日本の平和と安全を守るということは、国連憲章で定められている集団安全保障を通じて守るということなんです。

―2015年の安保法制をめぐる議論では、多くの憲法学者が「集団的自衛権は違憲だ」という主張をしてきましたが、そもそも憲法が制定された当初から集団的自衛権、集団安全保障が想定されていたということですね。

しかし、実際には、当時の集団安全保障体制は現行憲法ができて、すぐに米ソの冷戦によって機能しなくなってしまいます。そこで、日本に戦争を持ちかけるアメリカは平和愛好国家ではないということにして、日本だけが絶対主義的に唯一の平和愛好国家になろうとしたというのが伝統的な憲法学的な解釈なのです。

一方、我々国際政治学者は、冷戦が始まって米ソが仲違いするという事態が、国連憲章において想定されていたことも知っています。もし国連の安全保障理事会が機能せず集団安全保障が発動されない場合、国連憲章の51条の文言に従えば、集団的個別的自衛権で次善の策としての秩序維持策を取ってとらなければいけない。そして、そのために様々な対応策を加盟国は考えるべきだということが書いてあるのです。

この精神に従って、欧州でNATO(北大西洋条約機構)が出来ました。そして、アジアでは冷戦体制がより複雑だったことから、ハブ・アンド・スポーク体制(※アメリカを中心に二カ国間の安全保障条約を積み重ねていく体制)ができたのです。

国連加盟国をまとめて一体のものとして信頼できれば分かりやすかったのですが、そうした状況ではなくなってしまった。であれば、次善の策として、自分たちと一番関係が良好なグループを信頼した上で、自国の安全保障政策を作る。こうした枠組みを日本にあてはめたのが、日米安全保障体制なのです。

憲法の前文に書かれている精神に従って、集団安全保障を尊重する。もしそれが機能していなければ51条の論理に従って国際平和と安全を維持し、その中で自国の平和と安全を確保する。これが憲法前文の予定している論理構成です。

私がこのように主張する理由は、国連憲章を書いたのも、その半年後に日本国憲法を起草したのもアメリカ人だからです。彼らは国連憲章を横に置きながら、その秩序の中に日本も組み込むというイメージで日本を平和国家化するというプロジェクトを遂行しようとした。私が「素直な読み方」というのは、そうした当時の政治情勢を考慮すれば、国際社会の規範の一部として日本国憲法が作られていることは自明の前提だからです。

私の本を読んだ人の中に、「国際法は憲法に優越しない」「憲法の正文は英語ではなく日本語だ」といった批判をする人がいるのですが、私が主張しているのは、現行の憲法典は国際法規範を前提として書かれており、その中の一部として調和的に生きていくことを「平和主義国家日本」のイメージとして構想しているものだということなんです。

3項の追加で憲法9条の解釈の確定を

―しかし、2015年の安保国会などの例が示すとおり、憲法学者やメディア上では「集団的自衛権は違憲である」という認識の方が一般的なように思います。

こうした状況が生まれた原因の一つとして、私は「団塊の世代中心主義」があるではないかと思っています。つまり、既存の憲法学者の主張する「法的安定性」とは「団塊の世代中心主義」に過ぎないのではないかということです。

何故なら「集団的自衛権違憲論」が固まったのは1972年の安保闘争の激しい左右対立を経てからです。高度経済成長期に自民党が談合政治を導入し、密約に密約を重ねて絶対に不可能、実現したら日本は大変なジレンマに陥るといわれていた沖縄返還を達成する過程の中で、「集団的自衛権違憲論」というのが出てきた。

団塊の世代が学生運動をするようになる以前、1940年代、50年代の人達は「集団的自衛権は違憲だ」とは言っていませんでした。1960年代後半から、日本も自民党も変化していったのです。日米安全保障条約を作り、改訂した岸信介の時代、あるいは吉田茂首相・西村熊雄外務省条約局長の時代までは、安保条約を維持するためには「国連憲章51条のロジックを用いた集団的自衛権で行くしかない」という確信を持っていた。そのことは安保条約の条文にも書いてあります。

ところがちょうど団塊の世代が大人になったぐらいの時期に「集団的自衛権は違憲だ」ということになってしまった。今日、有力な憲法学者が「法的安定性」と主張しているのは、団塊の世代が社会に出て行った時に作られた現実を永遠の現実として固めていこうという話に過ぎない。だからこそ、同世代の人には受けても、若い人にはどうもピンとこないということにならざるを得ないのです。

―現在のように憲法9条をめぐり護憲派と改憲派それぞれの前提が乖離した状況では建設的な議論を進めるのは難しいと思います。どうすればより建設的な議論ができるのでしょうか。

正直に言って、先行きは暗いのではないでしょうか。PKO協力法が出来た翌年である1993年に私は文民職員としてカンボジアに行きました。その頃から様々な議論がありましたが、約四半世紀が経過した現在でも、未だに茶番としか言いようがないような議論が続いている。

団塊の世代の人たちが引退したら、多少変化があるかもしれませんが、現状ではなかなか難しいというのが正直なところです。

―今後、憲法改正の中でも9条をめぐる議論は、注目を集める可能性が高いと思います。篠田さんは、現行の9条をどのように改正すべきだとお考えでしょうか?

実は私は、憲法9条というのは二項どころか一項もなくていいと思っています。そもそも世界各国の憲法典の中で9条のような特異な条項を持っている国は稀ですから、なくてもいい。なければ、「国連憲章に批准している」という事実から国際法・国連憲章を遵守していけばよいということになりますから、結果は同じなのです。つまり、戦争は違法であり、自衛権だけは行使してもいいということになる。ところが、憲法9条という条文があるがゆえに、「いやそれだけじゃない」「憲法を守るべきであって国際法はダメだ」といったややこしい話になってしまう。

しかし、急に9条を削除すると、周辺諸国に無用な警戒心を与えてしまう可能性もある。そこで、モニュメント的に残すという選択肢はあると思います。既に歴史的な役割は終えているけれども、「我々はここから出発した」ということを思い出すために9条を残す。そして、解釈をめぐって神学論争が続くという非生産的な状況に終止符を打ち、解釈を確定させるために追加条項を入れるというのは一つの現実的な案だと思います。

追加条項を入れる目的の第一は、繰り返しになりますが、9条解釈を確定させることです、つまり、先程から私が説明してきた「国際法と調和する現行憲法の精神」に従った憲法解釈をしっかりと固める。そのためには、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない」と加えればいい。これによって、「自衛権は行使してもいい」「自衛隊は戦力ではないけれども軍隊である」という解釈を確定させることができれば、それで良いのではないでしょうか。

プロフィール

篠田英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授。 1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保」(風行社)、『ほんとうの憲法 ―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。



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