※この記事は2017年08月21日にBLOGOSで公開されたものです

東日本大震災から7年目の夏。第99回目の全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園大会が阪神甲子園球場で開催された。今年は、天候のため、開会式が延期されたが、その開会式を、震災で子どもを失った遺族が見守っていた。

宮城県石巻市の大川小学校の3年生、佐藤健太君(享年9)の両親、美広(みつひろ)さん(56)と、とも子さん(54)の二人だ。少年野球をしていた健太君は甲子園を夢見ていた。生きていれば高校生になっていた今年、初めて甲子園を訪れただろう。

「幼い頃から真っ白なユニホームが真っ黒になるまで練習し...」という選手宣誓で涙を流す

8月8日に行われた夏の甲子園大会の開会式。そのスタンドから開会式を見ていた人の中に、佐藤さん夫妻がいた。宮城県石巻市の大川小学校の3年生だった息子の健太君は、2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波にのまれ、死亡した。

健太君は地域の少年野球チームに入っていた。宮城球場(koboパーク宮城、仙台市宮城野区)に東北楽天イーグルスの試合を見に行ったこともある。田中将大投手(現在はメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキース所属)のファンだった。また、石巻市内には、震災の翌年・2012年の春に行われた第84回選抜高等学校野球大会の21世紀枠で選出された石巻工業高校がある。グランド近くを通るたびに、「この学校は強いの?」「甲子園に行ったことはあるの?」と聞いていたくらい甲子園にも関心があった。

「もし健太が生きていれば今年で高校一年生。好きなことに夢中になっていたのではないか」

開会式では滝川西(北北海道代表)の堀田将人主将が「幼い頃から真っ白なユニホームが真っ黒になるまで練習し、真っ白なボールを真っ暗になるまで追い掛けてきた全国の高校球児の思いを胸に、最後まで諦めず、正々堂々と全力でプレーすることを誓います」と選手宣誓をした。これを聞いて、美広さんは言う。

「ああいう宣誓を聞くと泣きたくなりますね。というか、泣いていました。だって、もし健太が高校生になって、野球をしていたとしたら、その言葉と同じことをしていたんだろうと思って。ジーンとしたね」

また、選手の退場シーンで大会歌「栄冠は君に輝く」が流れたときにも涙が溢れた。

生まれるとき、ユニフォーム姿で産婦人科に駆けつけた

美広さんは朝起きると、健太君の仏壇に水やご飯を供え、線香をあげるのが日課だ。仏壇にある写真は少年野球をしているときのものだ。その写真に「おはよう」「今から出かけていくよ」「ただいま」などの声かけをする。その意味では、美広さんは毎日のように健太君の野球する姿を見ている。しかし、その姿は「あの日」で止まったままだ。

2001年8月11日、健太君が生まれた。3回目の妊娠でようやく出産できた子どもだった。その日、美広さんは草野球をしていた。生まれるとの連絡があり、草野球チームのユニフォーム姿で産婦人科に駆けつけた。生まれたときから、健太君は「野球」とつながっていたのかもしれない。地域の少年野球にも入っていた。

「セカンドと外野はしていたけれど、特にどこの守備が好きというところまではなかったんじゃないかな」(美広さん)

「山さ、逃げっぺ」という子どもがいたが...

2011年3月11日午後2時46分、美広さんは石巻市内の会社で働いていた。地震があり、津波警報が出た後、一旦は事務所で待機していたが、自宅に戻ることになった。橋が通行止めになっていたが、なんとか通ることができた。

新北上川沿いの道を自宅や大川小がある下流方向に進む。やはり途中で通行止めになっていた。対岸からは行けるのではないかと考えたが、そこも途中から通行止めになっていた。途中で出会った消防団員に「大川小まで行く」と伝えると「堤防が決壊していて、水かさがあるので行けない」と言われたという。

大川小では地震後、子どもたちや教職員が校庭に集まっていた。地域の人も来ていた。これまで経験したことない規模の地震だったためか、「山さ、逃げっぺ」と言っていた子どもがいたと言われている。その「山」は、大川小の裏にある山のことだ。しかし、山への避難は行われなかった。

避難しようとした場所は、小学校の校庭よりはやや標高が高い、新北上川にかかる橋付近にある交差点周辺、いわゆる三角地帯と呼ばれる場所だった。しかし、小学校よりは川に近い。しかも、津波が来た場合には、さらなる避難ができない場所だった。子どもたちの多くは、三角地帯への避難途中で、新北上川を遡上して来た津波にのまれた。

「学校にいるから大丈夫」と思っていたが...

翌12日。美広さんは、大川小よりもやや上流の大川中学校まで行くことができた。夫婦ではお互い、助かってないと思っていたものの、美広さんは「健太君は学校にいるから大丈夫だ」と思っていた。大川小の近くには山がある。授業でも子どもたちは登っていたこともある。

「子どもたちは山に避難していると思っていた。その山で子どもの頃、そり滑りもしたことがある。山に避難していなかったら、スクールバスでどこかに移動しているはずだと思った」

健太君が見つかったのは4月2日。亡くなった子どもたちが次々と発見される中で、なかなか健太君を見つけることができないでいた。そのため、美広さんは「見つかるのは、半分以上、諦めていた」という時期もあった。「引き波で外洋にもっていかれたら見つからない」とも思っていた。実際、大川地区の人が遠くで見つかったということがあった。

そんな中、岡山県警の機動隊が健太君を発見した。三角地帯からやや内陸で見つかっている。津波によって水没したあたりを国交省がポンプで水を組み上げるまでは捜索できなかった付近だった。

 「先生方がついていて、なんで子どもたちを助けられなかったんだ?」

早くから裁判を考えたが「子どもは帰ってこない」

大川小の避難をめぐっては、14年2月26日、第三者委員会「大川小学校事故検証委員会」が「報告書」をまとめた。しかし、遺族が調査した以上の事実は明らかにならなかった。検証委員会の最後の会合後、遺族の一部が記者会見を開いたが、最初に「裁判」を口にしたのが美広さんだった。 

 「いつごろからかな。震災から2~3ヶ月はそういう考えは持てなかった。余裕がなかったからね。やっぱり、裁判を考えたのは10月、11月くらいかな。自分の中では。誰かが『訴訟起こすべ』と言っていたが、相談は誰にもしていない。みんな、そうだったんじゃないかな。震災当時は、やっぱり、きちんと説明や補償をしてもらえる、と思っていた」

また、美広さんは「子どもが亡くなった原因がなんであれ、犠牲者が出たのだから、市にはまず謝って欲しかった。教員がいながら、子どもを救えなかった。最初に謝罪があれば、その後はもっといい話し合いができたはずだ」と話していた。

遺族の中には、今後の教訓のためにも、真相や責任を明らかにしたいという思いがある場合もある。ただ、美広さんには「今後」はない。

「私が求めているのは『今後』ではない。『これを真摯に受け止めて、今後の防災教育を...』という声もあるが、現実に大川小で起きたことをきちんと整理してほしい。私に今後はない。裁判をしても、子どもは返ってこない」

ガン告知。裁判が終わるまでは「死ねない」

14年6月、佐藤さんは、職場の健康診断でガン告知をされ、入院したことがある。

「これで健太に会える」

震災で子どもを失った人の中には、その後、新しく子どもを作った若い世代の夫婦もいる。しかし、美広さんととも子さん夫妻は、年齢の問題もあり、子どもをつくることはできない。震災前は子どものために生きてきたとも言えたが、、その“目標”を失った。ガン告知によって健太君に会えるかもしれないと思ってしまう心情は理解できる。

14年3月10日。大川小の遺族のうち、23人の児童の遺族23人19家族が、宮城県と石巻市を相手取り、国家賠償を求め、裁判を起こした。一審は全面勝訴だったが、県も市も控訴。仙台高裁で審理中になっている。裁判が終わらないために、「まだ死ねない」と美広さんはいう。

妻のとも子さんは仙台地裁での一審で、陳述書を書いた。そこには、健太くんが国語の授業で書いた「家ぞくのみんなへ」という手紙も添えた。母親が書いた内容への返事だ。

手紙には、おもいやりのある子とかいてあったけど、ほんとうにおもいやりのある子になれたのかどうかわかりません。やさしい子になれたのかわかりません

夫婦で口喧嘩をしたときは健太くんからの手紙を読み返したりする。

震災後、里子や養子縁組も考えたことがあったというが、美広さんは「また同じようになったら申し訳ない」と述べる。また「自分も父親が6歳のときになくなり、叔父に育てられた。“俺が育ててやった”みたいなことを言われたこともある。そんな思いをしてしまったら嫌だ」というのも理由だという。

来年の100回大会も観戦したい

甲子園の開会式を見た美広さん。交通機関の関係で、第一試合の彦根東(滋賀県)と波佐見(長崎県)の試合途中に帰宅の途につかざるを得なかった。予定した飛行機が飛ばず、新幹線で帰らなければならなかったからだ。

「大阪桐蔭の選手の体つきはすごいな、とスタンドから見てもわかった。ひとまわり違う感じがした。健太はあんなにはなっていなかっただろう。途中までですが、純粋に試合を楽しめました。来年は100回の記念大会。お金を貯めて見に行こうと思います。健太のこともあるけど、野球が好きな自分のためにも、好きな試合のときにもう一度、甲子園に来たい」

甲子園の舞台はそこに立てた人だけでなく、予選で負けた高校球児たちの願いも込められている。さらには、震災で亡くなった野球少年を思い起こすシーンの一つにもなっている。仏壇には、健太君と最後にキャッチボールをした軟式ボール(C級)と、健太君と一緒に楽天の試合を見に行ったときにもらったサインボール、そして、今回甲子園で買って来た記念ボールが飾られている。