※この記事は2017年08月09日にBLOGOSで公開されたものです

福島県南相馬市の中学生(14)が自殺した。同級生からいじめをうけていたこととの関連が指摘されている。この問題を受けて、南相馬市立総合病院の小鷹昌明医師が「タブー視しない“イジメ”と“ジサツ”」と題するシンポジウムを7月16日、市内で開いた。筆者もシンポジストの一人として参加した。

小鷹「いじめや自殺について議論できる場をつくりたい」

2月11日、南相馬市の市立中学2年の女子生徒(14)が自宅で自殺した。学校が昨年実施したいじめに関するアンケートで、複数の同級生から「きたない」などと言われていた。学校側は、その後、担任の指導でいじめがおさまったと判断していた。しかし、2月のアンケートには、再びからかわれていることが書れていた。遺書は見つかってない。

小鷹医師は開催の趣旨について、「南相馬市でもいじめ自殺が起きたが、問題をオープンにして、議論ができる場を作りたい。なかったことにすることが一番よくない。いじめ自殺は、小さな町でも、普遍的に起きる問題だ。原発事故後に医療支援として南相馬市で住んでいるが、一住民として何かをしたい」と話していた。

柳「福島県から避難した子どもがいじめられたニュースを聞いて、人ごとではないと思った」

シンポジウムでは、まず、いじめを受けていた生徒が自殺をし、その後の家族や友人らの葛藤を描いた映画「十字架」(原作は重松清氏、監督・脚本は五十嵐匠氏)が上映された。その後、映画の内容を踏まえて、各シンポジストが自身の体験などに基づいて、問題提起を行った。

浅倉由香(大学生) いじめられると自分のエネルギーが吸い取られる。でも自分が認められる環境では、エネルギーを取り戻せる経験があった。(映画の中で自殺した少年は)いじめられていた長さはわからないが、両親が気づいた段階で環境を変えられれば、もしかしたら自殺は防げたのではないか。

清水康之(NPO法人自殺対策支援センター・ライフリンク代表) NHKの報道デレクターをしていた。親を自殺で亡くした子どもたち(自死遺児)の取材をして、番組を作った。自殺の問題が難しいのは、本人が亡くなっていること。次の当事者は家族。しかしなかなか言えない。語り手がいない。そのため、自らの体験を語り始めた自死遺児を取材して番組を作った。それが自殺の問題に取り組むきっかけだった。

また、自殺で亡くなった30~40人の遺書の取材もした。多く共通するのは謝罪の言葉だ。<仕事ができない部下で申し訳ありません><情けない父親でごめん><ダメな息子ですみません>...。責任感がある真面目な人ばかり。人生の最後に謝りながら亡くなっている。遺族はそれを背負う。

映画の感想は、舞台が1980年から90年代のはずなのに古く感じられない。今も、いじめが主な要因となって自殺で亡くなる子どもたちがいるし、いじめも起き続けている。いじめ問題は、加害者か被害者という属人的な問題になりすぎ。子どもたちに環境を変える力はない。いじめが起きにくい環境に、私たち大人が変えないといけない。

柳美里(小説家) 旧「警戒区域」(東京電力福島第一原発から20キロ圏内)の、南相馬市小高区に転居し、本屋を開く準備を進めている。

私は小学校入学と同時に激しいいじめにあった。遠足のグループ分けがあったが、私は誰からも声がかからず、教師たちのグループに入らざるを得なかった。無視と排除と暴力は小学校の6年間を通して執拗に続いた。休み時間が恐怖だった。昼休みは図書室に潜んでいたが、全員校庭に出て遊ばなければならない、とルールが変わった。校庭の隅にあるイチョウの幹の後ろに隠れていたが、見つかってしまった。「脱っがっせっ! 脱っがっせっ!」とコールされ、全裸にされた。どうやって服を着て、教室に戻ったのか、記憶がない。

福島県から避難した子どもがいじめられたというニュースで、彼が“バイ菌”というあだ名で呼ばれていたと知り、涙が止まらなかった。何故なら、私のあだ名も“バイ菌”だったから。ドッジボールで一番前にいるのに、ボールを当てられない。給食で配食係になったとき、クラス全員が給食をボイコットしたため、担任教師が給食当番から私を外した。フォークダンスのときも、みんな私の手から10センチくらい手を離して踊っていた。

そのときに思い出すのは、いじめの加害者である同級生たちではなく、教師の顔。いじめられている最中、いつも教師の顔を見ていた。どう対応するのか、と。困っていた教師の顔、笑っていた教師の顔、見て見ぬ振りをしていた教師の顔、「協調性がない」と私を叱り飛ばした教師の顔。いじめによる自殺の問題が明らかになると、学校側は「配慮が足りなかった」「指導不足」などと言うが、教師がいじめに加担しているケースは多いと思う。

堀有伸(精神科医) 南相馬市には2012年4月にやってきた。もともとうつ病と社会の問題を精神科医の立場で考えてきた。その中で、精神分析家の北川修氏が指摘する「自虐的世話役」の人に注目している。良心的で身を粉にして働いてくれる人のことです。また、周りから押し付けられる罪悪感について敏感に受け止める人です。こういう人がいると組織的はまとまりやすい。こういう人が「社会にとって望ましい」とされすぎるとの指摘がある。罪悪感に敏感な人を理想的にしすぎた。

いじめが恐ろしいのは、苦しい思いをしたことに加えて、否定的な意味しか与えられないこと。大変な思いをした場合にも、耐えたことが立派なことだというポジティブな意味が与えられれば違ってくる。

浅倉「排除されようとしていた人を私がフォローしていたら、風当たりが強くなった」

渋井哲也(フリーライター) 取材対象は子どもや若者で、家出や自殺、自傷をテーマにしている。取材した人が実際に亡くなったのは、認識できる範囲では20人ぐらい。今は、いじめと自殺との関連が疑われると調査委員会が作られる。映画では、自殺した少年はいじめを受けていたが、直前のエピソードは失恋だった。こういうストーリーだと、調査委で、いじめと自殺の因果関係が認められないことがある。

また映画で考えたことは、遺書に「親友」と書かれたものの、主人公は、いじめのときを含め、ずっと傍観者。少年の死後、遺書に名前を書かれた女の子は向き合っていると見えるが、主人公はなるべく考えないようにしてきた。あえて“傍観者の自分”として描いているのか。

小鷹 ほとんどの人が傍観者なのかもしれない。いじめはなぜ起きるのか。いじめがなくならない前提で見ている。誰もが何らかの形でいじめに加担した、いじめられたということがあるだろう。大人になっても同じ。会社に入れば、何からの形で部下をいじめた経験があるのでは。一人をターゲットにすることで、それ以外の人たちがまとまる。スケープゴートだ。

浅倉 (自分自身の体験を語りつつ....)排除されようとしていた人を私がフォローしていたら、風当たりが強くなった。また、別のことをきかっけに無視された。きっかけがあって、スケープゴートが移動した。

清水 日本の高校は一年間通ったが、合わなくてアメリカの高校に転校した。アメリカでは、コミュニケーション系のいじめは、私の知る限り少ない。空間的に起きにくいから。アメリカでは授業は選択制。ある授業が嫌であれば変えればいい。先生は教室に固定するが、生徒は流動的。朝から晩まで固定的ではないから、逃げやすい。日本では学校のクラスが逃げられない場所だから、いじめが成立しやすい。

清水「SOSの出し方をしっかり教えること。いざとなったら、自分のところへ」

 いじめは、人間関係が固定化されている閉鎖的な空間で起きやすいのではないか。学校、警察、消防、軍隊、相撲部屋、ママ友など。私は小学校から自殺を考え、何度も未遂をした。中学に入学して精神のバランスを崩し、保健室登校と精神科通院を経て、不登校になった。高校を1年で退学処分になって以来、学校には行っていない。

 集団というのは暴力的になりうる。個人を犠牲にするところがある。それを全否定すると集団がもたないが、抵抗するために必要なのは、個人の価値を認めること。そうした文化があると、集団の持つ暴力性が薄まるのではないか。特定の集団内で個人の価値を否定されたとしても、別の仲間集団から肯定的な意味を与えられれば違ってくる。

渋井 流動的な学校でもいじめは起きる。福島県から原発事故で避難した中学生がいじめにあった話を取材したが、その学校ではクラスがない。どこかで、いじめを学んでいる。それは地域で、小学校の頃から学んでいた。また、別の中学校のいじめの背景には、やはり地域間の対立があった。子どもがいじめをどこかで学んでいる。

小鷹 いじめを減らすことも必要だが、乗り越えることも大切だ。いじめられたときに、これは一時的なものと思って耐える力を養ったり、無関心を装ったりできるようになれればいいのではないか。いじめられたらどうするのか?

浅倉 いじめがあってからだと、進言するのは難しい。予防という意味では、経験としては、コミュニケーションをしっかりとればよいのではないか。

清水 まずはクラスを段階的に解体する。いじめが起きるリスクを減らせるし、授業を選ぶことで子どもたちに主体性も生まれる。また、若者を一年間、海外に行かせる。そうすることで「ここではない、どこか」で生きられると実感してもらうこと。さらには、一人ひとりがでできるのは、SOSの出し方をしっかり教えること。家族や先生に言えないこともある。いざとなったら、自分のところへ、と具体的に言えるかどうか。

堀「ポストベンション(自殺が起きたときの事後対応)の考え方がまだ広まってない」

 南相馬市内の高校でいじめに遭って不登校になった男子生徒とその母親の相談に乗った。子どもは、いじめの事実を親に打ち明けることはない。親にがっかりされ、悲しまれるのは嫌だから。私自身、いじめられたことは親には言っていない。何らかのサインで、我が子がいじめられていると気づいたら、それは最終的な段階。そのときは、どうか、「学校へ行きなさい」「我慢しなさい」と言わないでほしい。

学校・教育委員会に要望したいのは、入学式の後に、生徒たち全員に、外部のいじめ相談員のメールアドレスと電話番号を書いた紙を渡してほしい。ラインIDでもいい。いじめ相談員は、学校といじめ被害者、いじめ加害者といじめ被害者の間に立つのではなく、徹底的にいじめ被害者の立場に立つ人でなければならない。

 いじめに切羽詰まったら、具体的な力が欲しいというのは、その通り。戦って勝てそうなら味方を増やすのもいいが、そうでなければ、全力で逃げ出すのも個人としては大切だ。  集団では、不安や緊張が高まるとスケープゴートを作って発散しようとする動きが起きやすくなる。地域間対立があるのなら、コミュニティ内で大人がそれを緩和する努力をすべきで、子どもたちのいじめの問題だけにしないことも重要だ。

映画で一つ言いたいことがある。自殺が起きたときには、周囲も自殺のリスクが高まる。それが身近であればなおさらだ。自分の周囲が信用できなくなる。自分も患者さんに自殺されたが、精神科医としての自分の能力を信用できなくなる。日本では、ポストベンション(自殺が起きたときの事後対応)の考え方がまだ広まってない。身の回りの人が自殺したとき、ケアをきちんとしていくことが大切だ。

清水 ポストベンションについて。自殺対策基本法ができる前は少ししかなかった。いまではすべての都道府県に「わかちあいの会」がある。家族を自殺で亡くすと自分自身を責めがち。まだとても十分とは言えないが、自死遺族支援はここ10年で進んできたことは間違いない。

渋井 子どもが誰かに頼る場合、学校では担任教師ではない。養護教諭だったりするが、学校内で地位が低かったり、発言権が弱い。スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの他職種の発言権を高めるべき。学校以外の学びの場、フリースクールやホームスクールという考え方もある。最近では、子ども食堂がある。

以前から私はインターネットで電子掲示板を使って、悩みを書き込める。ツイッターでも相談や情報がくる。学校以外とつながる方法はネットにもある。最後に、道徳教育が義務化されるが、「みんななかよくしよう」ではなく、「なかよくできない人とどう過ごすのか」ということも考えるようにしてほしい。

文科省の調査では、東京電力福島第一原発の事故で県内外に避難した児童生徒へのいじめは3月までに199件。ほかに、被害を特定できないいじめが3件、調査時点で中学・高校を卒業している人へのいじめが5件あった。

被災地ではいじめがきっかけとする自殺が起きている。仙台市では14年9月には泉区の中学1年の男子生徒が、16年2月には同じ泉区の中学2年の男子生徒が、17年4月に青葉区の中学2年の男子生徒が亡くなった。また、福島県内でも、2015年9月、会津地方の高校2年の女子生徒が、17年1月、須賀川市の中学1年の男子生徒が自殺で亡くなった。