※この記事は2014年02月27日にBLOGOSで公開されたものです

未曾有の被害をもたらした東日本大震災からまもなく3年が経過しようとしている。震災発生後、政府は初めて陸・海・空3自衛隊による「災統合任務部隊」を編成、日米共同作戦を行いながら被災地の救援、復興に当たらしめた。このほど、当時横須賀地方総監として統合任務部隊のうち「海災部隊」の指揮を執った元海上自衛隊の高嶋博視氏が、当時のメモを下敷きに、海上自衛隊の活動や隊員たちの知られざるエピソードをまとめた著書「武人の本懐 FROM THE SEA 東日本大震災における海上自衛隊の活動記録(講談社)」を出版した。26日、高嶋氏が外国特派員協会で会見を行い、当時を振り返った。【編集部:大谷広太】

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記録を世に出すことを決意した理由

一つには、震災後も、世界のいたるところで大小様々な災害が起きておりますが、おそらく将来も、これらの災害から我々は逃れることはできないと思います。従いまして、素人が書いた本当に拙い記録ではありますが、今後災害に直面する人々のお役に立てればと考えたからです。

もう一つの理由は、震災において、海で何が起きていたのか、あるいは海上自衛隊が何をやったのか、ほとんど知られていないからです。なぜ海の上での活動が人々に知られないかといいますと、それらをメディアに発信するためには、メディア用の艦船を用意しなければならないからです。例えば洋上においてヘリコプターが救助している様子をカメラにおさめるためには、少なくとももう一機のヘリコプターを用意する必要があります。そんなことをする余裕があるのであれば、それもレスキューに投入すべきではないかということになるのです。

この本のサブタイトルは"FROM THE SEA"にしていますが、40年間、海の守りについてきた者としての思いが込められています。 「海」という漢字に「母」という文字が含まれておりますとおり、海は地球の命であり、母であると私は思っています。しかし一方で、今回の震災が示しましたように、人類にとっては大変な脅威ともなるわけです。
そして我々は、その海から、被災した方々に対して救援の手を差し伸べました。このサブタイトルにはそのような意味も込めております。

また、この本の全編を通じて、私は指揮官のあり方について模索し、提示しているつもりです。日本語では「指揮・統率」といいますが、翻訳は非常に難しいと思います。いわゆる「リーダシップ」や「コマンド・アンド・コントロール」とも少し違うと思います。

緊急時あるいは非常事態であればあるほど、指揮官は自ら速やかに決心し、そして自分の決心したこと、全ての結果について責任を負うことが必要であると私は考えます。スタッフや部下の指揮官は自分が信念とするところは躊躇なく上申すべきですけれども、トップにいる人はそれらを踏まえて決心し、自らの判断に責任を持つということです。

震災発生時、私は司令部のある横須賀におりました。一ヶ月間、そこで指揮を執りました。これについては、二つの考え方があります。

一つは、自ら現場を確認し、加えて隊員を激励、鼓舞するというやり方です。もう一つは、私のようにできるだけ外側から状況を眺め、できるだけ現地には行かないというやり方です。

なぜ私が現場に早くかけつけて 確認しなかったかと言いますと、派遣した現地の指揮官を信頼したということと、私が現場に行くことによって、部隊が私に対して色々なケアする必要が出てきて、結果として部隊に迷惑をかけることになるからです。どちらの方法を取るかはそのときの状況次第だと思っていますが、私は後者を選んだわけです。従いまして、現地に行ったのは発生から40日後です。

私は自分の指揮統率が上手く行った、と言いたいわけではありません。私自身が毎日試行錯誤しながら情勢に応じて決断し、多くの部下に助けられて任務を遂行しました。この本の行間から、指揮官の喜びや苦悩のようなものを読み取っていただければありがたいと思います。

海上自衛隊の活動

私たちは震災が発生した3月11日14時46分から数分後には、全国の海上自衛隊の部隊に出動を命じております。全国の海上自衛隊の基地、洋上、あるいは外国に出ていた船も、三陸沖に向けフルスピードで駆けつけたわけです。我々が投入した最大時の兵力は、浮かんでいる艦艇が60隻、航空機が100機、人員が16000人でした。このような大規模な作戦は、訓練、演習でもやったことがありません。これらを私のスタッフ、現地に赴いた各指揮官が本当に寝食を忘れ実施し、救援にあたりました。

私たちの任務は、基本的に海からの支援ですので、警察や消防と緊密に連携してなにかをやったということはありませんが、海上保安庁に対しては、海上自衛隊にできることがあれば何でも言って欲しいということを何回か申し上げました。海上保安庁も少ない人員で本当に努力されておりまして、大々的に協力する場面はありませんでしたが、例えばロープや網などが大量に海中を流れていたので、我々の船も含めて、多くの船がそれらスクリューに巻き込むということがありました。そうなるとダイバーが潜ってナイフで切るしか無いのですが、何度かそういうシーンはありました。 あるいは海上保安庁の大きな任務のひとつに、港をオープンにするというミッションがありました。その際に我々の持っている装備で推進を図るといった協力を行いました。

また、福島第一原発の建屋に対する陸上自衛隊のヘリコプターによる水の散布や、消防などによる燃料棒のプールへの放水の場面はみなさまがご存知だと思います。これはほとんどメディアに出ていませんが、我々がやりましたのは、原子炉に入れる冷却水を海側から持っていて、そこから入れるという作業を実施しました。我々が真水を岸壁まで運び、東電が原子炉に入れる作業を行いました。

海上自衛隊の隊員で、それらの任務の結果、体調を壊したといった話は一度も聞いていません。計測器を常に身体に付けておりまして、福島原発の近くに行く者については常にその累積量を記録させておりました。

誠に恥ずかしながら、指揮官として、東電が撤退する、という事態は考えておりませんでした。しかし、幸いなことに具体化する事態にはなりませんでしたが、サーチ&レスキューを実施しながら、大量の国民をあの地域から避難させることになった場合、その時にどのように部隊を動かすのか、というのは私の中にはありました。

当時の私はもう99%現場に目が向いておりまして、一人でも多くの被災者を助けること、乾パンをひとつでも多く、1秒でも早く現場に届けることを考えていましたので、特段政府の対応がどうだったかという感想は持ちあわせておりません。

ただ、私は横須賀地方総監の前には、統合幕僚副長をやっておりましたので、防衛省の大臣室で、大臣、政務官、事務次官、統合幕僚長、陸海空の幕僚長が毎日どういう形で、どんな雰囲気で、どんなことを決めていったのか、だいたいの想像はつきました。また、私の上司で海上自衛隊トップである海上幕僚長とは毎日、多い時には一日に何回も、電話で情報共有をしました。彼からは防衛省の中でどのような議論がなされているのか、官邸ではどのような動きがあるのかということを教えてもらって、私からは現地の状況を報告する、という形を取りました。したがって東京と横須賀との間で意思の違いがあるとか、考え方の違いがあるということはなかったと思っています。

もちろん災害への対応は防衛省・自衛隊の極めて重要な任務ですが、それに備えて人員や装備を整備する、建設する、組織を作るべきだという考えには私は与しません。我々は計画の中に、首都直下地震を想定して訓練をしてきました。我々が本来の任務のために装備し、日々厳しい訓練をしておればこそ、震災時にも非常に迅速に対応できたのだと考えております。もちろん災害発生時のための細々とした準備をする必要はありますが、大きな目で見れば、持っている装備、ノウハウ、人の力で十分対応できると思いますし、今回も、そのようにできたと思っております。

また、今回の震災が起きる以前から、政府、防衛省、部隊含め、首都直下地震発生時にフォーカスして、計画を作り、また、訓練をしてきました。結果としては首都直下ではなく三陸沖で発生してしまったわけですが、震災に対処している途中の早い段階で、これを踏まえて速やかに計画を作りなおせという指示を行いました。

私が考える首都直下地震の最悪のシナリオですが、東京湾の周辺、海岸線のほとんどは江戸時代以降の埋め立てでできていると思われます。震災発生時、この湾岸の埋め立て地域は液状化する可能性があります。その上にある多くの石油タンクやコンビナートが壊れ、東京湾に油が流出、そこに電気のショート等で火がつく可能性があります。そうなった場合、我々の海からの支援が大変な困難を伴うことになります。したがって、そうした想定も含めて、計画の見直しをスタッフに支持したわけです。その結果については退官しましたので見てはおりませんが、防衛省・海上自衛隊の中では見直しがなされて成果物が出ているものと思います。

米海軍との連携

自衛隊が昭和27年に創設されたときから、"日米共同"を視野に入れ、今日までやってきました。したがってアメリカ海軍とは、60年にわたる共同の歴史、先輩方の大変な尽力があり、現在では本当に緊密な関係を構築しております。

震災時も、アメリカ海軍とはあくまでも共同ですので、基本的にアメリカ海軍はアメリカ海軍の指揮系列で、海上自衛隊は海上自衛隊の指揮系列で動きました。我々がアメリカ海軍に命令されることはありませんし、我々が命令することもありません。韓国軍とアメリカ軍との関係では、有事の際、指揮権は米軍となりますが、我々とアメリカ軍との関係は違います。あくまでも共同して作戦をやる場面があるとしても、それぞれのナショナル・オーソリティの指揮下で行うということです。

私たちは第1護衛隊群司令だった糟井海将補を日米共同の指揮官にしましたが、現場で本当にうまく調整し、「トモダチ作戦」は大変うまくいったと思っています。

震災が起きた時、ロナルド・レーガンという空母がたまたま西太平洋上を西に向かっておりまして、彼らは三陸沖に駆けつけてくれました。
トモダチ作戦を通じて、我々はアメリカ海軍から様々なことを学んだわけですけれど、彼らの持っている情報収集能力、集めた情報を分析する能力、そして的確に救援する能力には大変驚かされました。たとえば村や島など、細かい日本の地理には明るくなかったと思いますが、ピンポイントで必要な支援をしてくれました。

今後は、日米共同を核にしまして、米軍以外のアジア諸国の連携も必要に求められてくると思います。逆に世界中のどんなところで災害が起きても、防衛省全体でフォローしていく態勢を常に整えております。私はすでに退官した人間ですけれども、防衛省・自衛隊はいつでも対応できる準備ができていると思います。

■プロフィール
(たかしま・ひろみ)1952年生まれ。1975年、防衛大学校卒業(19期)・海上自衛隊入隊。2007年、護衛艦隊司令官(海将)。2008年に第4代統合幕僚副長、2010年に横須賀地方総監。2011年3月~海災部隊指揮官として従事、同年8月に退官。

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