日本人は居酒屋甲子園を批難できるのか? - 赤木智弘
※この記事は2014年01月19日にBLOGOSで公開されたものです
1月14日に放送されたNHKのクローズアップ現代「あふれる“ポエム”?! ~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~」(*1)はあまりに衝撃的な内容だった。居酒屋業界で行われている「居酒屋甲子園」というイベントを題材の軸として、低賃金長時間労働を覆い隠すために、夢や希望という詩的な言葉が利用されているという内容であった。
居酒屋で勤務する人が長時間低賃金労働に甘んじながら、居酒屋甲子園では感情を露わにし、いかにこの仕事に就いて自分が変われたかなどを絶叫するのである。僕もこの放送を見ていたが、単純に「気持ち悪い」という嫌悪感ばかり抱かされた。
これが放送されている最中から、Twitterにはこのイベントへの嫌悪感がつぶやかれた。なかでも宗教との類似性を指摘するつぶやきが多かった。
その報道内容に対して、居酒屋甲子園側は、思いが伝わらず沢山の方々に不快と感じられる報道があったとする文章(*2)を出している。
僕は、この報道はクローズアップ現代の面目躍如だと考えている。
大手飲食店情報ウェブサイトや、国内4大ビールメーカーなど多くの有力スポンサーが名を連ねるイベントを、このように「公平かつ客観的に」扱うことができるのは、やはり特定のスポンサーを持たないNHKならではだろう。民放だったら、絶対に「夢や希望を語る素晴らしい居酒屋店員たち」のイベントとしてしか報じられなかったはずだ。
居酒屋甲子園は遺憾の意を示すが、低賃金長時間労働を強いられる労働者に対して、夢や希望を語ることによって、実際に報われることのない苦労から目を逸らさせるという、居酒屋甲子園の「想い」は確実に視聴者に届いていた。仮に居酒屋甲子園や、このイベントに従業員を参加させる経営側が、心からこの行為を福利厚生だと信じているとしても、その行為の本質は視聴者に届いている。だからこそ、これだけ反発を受けるのだし、僕もこの反発は当たり前のことだと思う。むしろ、こうした反発を予想もしていなかったかのような居酒屋甲子園側の対応にこそ、驚きを隠せない。
だが幾度か番組の内容を反芻して考えていくうちに、この問題を「強欲な居酒屋経営側が、労働者を騙している」と憤ったり、「労働側の現実逃避」としてあざ笑うだけでは問題は何ら解決しないことに気付かされる。
だって、もしこの居酒屋甲子園が無く、居酒屋従業員が夢や希望を声高に叫ばなくなったとして、そこに残るのは「夢や希望を声高に叫べない、長時間低賃金労働の居酒屋従業員」である。どちらにせよ長時間労働低賃金であることに変わりがないのであれば「夢や希望を声高に叫ぶ、長時間低賃金労働の居酒屋従業員」のほうがまだマシであろう。
ましてや、今回の報道ではそれを居酒屋従業員自身が受け止め、自身の自尊心を守るために積極的にポエムを利用しているだ。夢や希望を叫ぶという、彼らのささやかな幸福を奪い取ってまで、居酒屋甲子園は日本人から悪と裁かれるべきなのだろうか?
そもそも、居酒屋従業員を低賃金長時間労働に甘んじながら、表層的な夢や希望を語るそのことに希望を見いださなければならないような立場に追い込んだのは誰か。
それは自らの既得権を手放そうとせず、若い人たちをブラック労働に押し込めたり、「働かざる者食うべからず」と若者を労働に追い込み、「不正受給だナマポだ」と社会保障を受ける人を蔑んできた人たち。すなわち僕たち日本人である。
居酒屋甲子園のグロテスクさは、私たち日本人の労働観や他者に対する寛容性の無さという実体のグロテスクさに他ならない。
居酒屋従業員たちも言っていたではないか。「私たちがお客様を幸せにするのだ」と。本来保護されるべき待遇の若者たちが自分の幸せを望むのではなく、他人の幸せを望む。そう叫ばなければ仕事の中で認めてもらえない。そのような社会を作り出したのは、我々日本人に他ならない。
かつて「お国のために」と自らの命を投げ売った若者たちと、居酒屋甲子園に自分の幸福を投げ売って挑む若者たち。そこに差があるとは僕には思えない。
居酒屋甲子園は、若者を見殺しにする国の表層でしかない。
その表層をバカにして叩きながら、一方ではそれを生み出した日本の労働観を信奉するのでは、何の解決にもならない。居酒屋甲子園を居酒屋労働者に必要とさせてしまったのは、僕たち日本人だ。居酒屋甲子園を開催するNPO団体は、そうした日本人の浅ましさに便乗しているに過ぎないのだと、僕は考える。
*1:あふれる“ポエム”?!(クローズアップ現代)http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3451.html
*2:報道に関するお詫び(居酒屋甲子園)http://izako.org/releases/view/00124