お金を払ったか払わないかではなく - 赤木智弘
※この記事は2014年01月14日にBLOGOSで公開されたものです
赤木智弘の眼光紙背:第305回1月3日。正月休みを終えた帰省ラッシュで交通が混雑する中で、有楽町駅近くで火災が発生し、新幹線や在来線など、多くの電車の運行に支障をきたした。
混雑する新幹線の中で、女性が老人や子供を空いているグリーン車に座らせるように車掌に要請したとツイートしたところ、それをみたネットの住民たちが「金も払わずグリーン車に乗せろとゴネるな!」などと批判した。(*1)
さて、混雑している新幹線で、体の弱いお年寄りや子供をグリーン車に移すか否か。僕の意見としては「ちょっと難しいかなぁ」と思います。
車掌が本当に疲れていたり、具合の悪そうな人をピックアップして、グリーン車に移動させることはできそうですが、そもそも新幹線の通路は狭く、通路に立っている人がいるような状態では、移動するだけでも、余計に疲れてしまいそうです。また、車掌の判断に対して「私だって疲れているんだ!!グリーン車に乗せろ!!」と突っかかるほどに元気な高齢者の姿は想像が付きます。
ワガママな日本人が、車掌の判断を尊重する姿勢を持つとは思えませんので、ならば最初から「グリーン券を買った」という前提を貫いたほうが、ギスギスしないで済みます。
僕はギスギスした雰囲気が大嫌いですし、そうした怒号が飛ぶことによって気分を害する人もいますので、そうした空気を作らない判断もあるのだとおもいます。
ただ、一方で自分がグリーン車の乗客で、周囲が十分に空いており、自由席が通路に人が立つほどの乗客がいることを知っていれば、その時は「少し座らせて上げたほうがいいんじゃないかなぁ」というヤキモキした気分になると思います。まぁグリーン車に乗る金なんてありませんけどね。
さて、この問題において、ネット上では「グリーン車に乗りたければ金を払え!」という感情的な反発が多かったようです。中でも僕が気になったのは「疲れてなけなしのお金をはたいて、座ったサラリーマンが地獄を見る」という、架空の被害者を持ちだした意見でした。。というか「地獄を見る」って、いったい何が地獄なのかがよくわからないので、少し考えてみることにしましょう。
この件について、イケダハヤトさんは、「グリーン車乗ったら、北斗の拳の雑魚キャラのような若者たちが席を独占していた」「指定席の座席に座ろうとしたら、ウンコまみれだった」などという、あまりに現実離れした例(*2)をあげますが、緊急時に老人や子どもをグリーン車に座らせるという元々の文脈から考えれば、グリーン車で起こることはせいぜい「席が全部埋まる」ということくらいでしょう。
そもそも、通常においてもグリーン車が満席であることはあり得る事態です。グリーン車に乗ったからと言って、決してグリーン車が空いていることを約束されているわけではありません。満席程度のことを地獄と感じてしまう人は、そもそも電車という乗り合いの公共交通機関を利用するべきではないのです。
更に、自分の周囲に乗ったのがおばちゃんの集団で、香水の匂いをプンプンさせながら、騒いでいるわけではないが、ずーっと歓談していて眠れない。なんていうのもありうる光景です。たしかにその疲れたサラリーマンにとっては快適ではなく、地獄ということなのかもしれませんが、一方でおばちゃん軍団にとっては、グリーン車で友人たちと語らうことが快適の意味なのです。
いくらグリーン券を買ったとしても、それはあくまでも「グリーン車の席を確保した」というだけのことであり、その他の正統な利用者の権利を侵害することができるものではありません。
重要なのは「誰かがグリーン券を買ったこと、グリーン券に金を払ったこと」ではなく、「グリーン車に乗っている人が正統な権利を持っているか否か」であると僕は考えます。そして正統な権利とは、JRや乗務員が「これは正統なグリーン車への乗車です」と認めることです。
もし正規の料金を払ってグリーン車に乗った客が、酒盛りをはじめて周囲に迷惑をかけまくっていたとして、それを車掌がとがめてグリーン車から追い出したら「金を払って正統な権利を買った乗客を追い出すなんてとんでもない!」と、今回「乗りたければ金を払え!」と憤っている人たちは主張するのでしょうか?
もちろん、その主張は通りません。グリーン車に乗車できるできないの根拠は金を払ったことにあるのではなく、JR側が正統な乗客として認めるか認めないか、その一点に尽きるからです。
そもそも、そのお金にしても、正規の料金を払っている人もいれば、チケットショップで回数券のバラ売りを買っている人もいて、そのどちらも正統な乗客と認められています。ネットで憤る人たちは「タダでグリーン車に乗るなんて!」と主張しますが、そもそも支払う金額の多少は問題になどならないのです。
そうした意味で、車掌に対して老人や子供を空いているグリーン車の席に座らせるように請求した女性と、それを受け入れなかった車掌のやりとりというのは、「老人や子供にグリーン車乗車の正統な権利を与えて欲しい」「それはできない」という、非常に真っ当なものであったと、僕は考えます。
もし、この訴えによって、車掌がグリーン車の席に老人や子供を座らせる必要性を認めたならば、グリーン車に座る老人や子供は正統な乗客になるのです。そしてそれはお金を払ってグリーン車に乗った乗客の誰の権利をも侵害するものではありません。
一方で、今回はグリーン車への立ち入りをさせなかった車掌側の判断は、当然尊重されるべきことです。その判断の結果にグチグチ文句をいうことは正しいことではありませんが、判断を要求することは真っ当な要求です。
ネットで憤る人たちは、この2つを切り分けせず、一方的に女性の側を非難しているようですが、車掌の判断を十分に尊重していないという点においては、ネットで憤る人たちも批判されている女性と差はないと僕は考えます。彼らはもし車掌が例外を認める判断をしたのであれば、「貧乏人がゴネ得!」などと叩き、車掌の判断を蔑ろにしたでしょうから。
今の日本人は杓子定規というか、あまりに「僕の考えた正義」にこだわりすぎて、その場その場での判断を尊重しないという性格を持っているように思います。そしてそれは今回の騒ぎにおいても「車掌の判断」という文脈で問題を考えている人はほとんどいませんでした。
権限を適切に分配し、その判断を尊重するというのは、仕事においても一般生活においても重要なことだと、僕は思うのですが、それがまともにできないから「強い規制」とか「マナーの押し付け」で、必死になって他者をコントロールしようとする日本の現状があるのだと、僕は考えます。
*1:新幹線グリーン車「お年寄り座らせて」ツイートめぐり激論/JR有楽町駅前火災の影響で大混雑(THE PAGE) *2:「グリーン車」ツイート炎上に思う:途上国化する日本と、生きにくい人たち(イケダハヤト)