※この記事は2014年01月08日にBLOGOSで公開されたものです

コラムニストの小田嶋隆氏(編集部撮影) 写真一覧
インターネットの普及やソーシャルメディアの隆盛により、多くの人が自ら文章を書き、ネット上に流通させることが可能になった。こうした傾向は、インターネットや社会にどのような影響を及ぼしたのだろうか。また、こうした状況下で、文章を書く際には、どのようなことに留意すべきだろうか。昨年末に著書「ポエムに万歳!」が発売されたばかりのコラムニストの小田嶋隆氏に、近年のネットを取り巻く言論状況や、自らのコラム観、文章観について語ってもらった。(取材・執筆:大谷 広太、永田 正行【BLOGOS編集部】)

ネットは知識と同時に人間の感情も増幅している

―小田嶋さんは、2008年から日経ビジネスオンラインで連載を続けていらっしゃいますし、Twitterなども積極的に利用されています。ネットの世界の現状について、どのように感じていますか。

小田嶋隆氏(以下、小田嶋):ツールが人間の行動を変えることってありますよね。毛皮の服を着ると歩き方が変わったり、車を買うと行動範囲が広がって性格もアクティブになったりするといったような。インターネットも同様で、ネットという技術のフィルタを通すと、それに関わる人間の様相が変わってしまうという部分があると思います。

一番端的にいうと、日本人は特にだと思うのですが、集まると下品になるんですよ。慰安旅行に行って50人ぐらいで同じ浴衣着ると、もう“ゴミ”みたいな奴になるでしょ(笑)。 祭りで同じ半被着たり、学園祭で同じスタジャン着たりすると、思考能力が2割ぐらい落ちるような気がするじゃないですか。ある制服を着て、ある集まりの中にいると、頭を使わなくなってしまう。これを昔の言葉で「群集」というのですが、現在のネットは「群集」を生成する装置になっていると思います。

1対1で普通に話せば、非常にまともで常識的な人間であっても、ネットの中で発言すると、わりとろくでもない奴になっているということがある。これが一番懸念しているところですね。

―ですが、やはりネットは、ツールとして便利ですよね。

小田嶋:Wikipediaなどが正にそうだと思うのですが、知識の到達範囲、5秒間で調べられるものの範囲が圧倒的に広がった。あるいは、何か発言した際の言葉の到達範囲が非常に広くなった。そういう意味では、人間の知的能力や情報把握の能力を増幅したと思うのですが、同時に怒りや妬みといった感情や残酷さも増幅していると思うんです。

例えば、先日の猪瀬さんの一連の会見。あの吊るし上げみたいな会見をやっている都議会の人間や中継しているテレビの人間が、どうしようもなく残酷で品性下劣だという話ではないでしょう。我々の社会全体が、あの会見を喜ぶようなマインドセッティングにこの20年ぐらいの間になったと思うんですよ。なぜかというと、誰かの欠点、失策、失言を見つけると、ハイエナみたいに寄っていく人間の数とスピードが圧倒的に大きくなったからなんです。

例えば、政治家の失言問題などがありますが、私が覚えている限り、昭和の時代でもバカなことを言っている政治家はたくさんいました。ありえないぐらいバカだったんですよ。しかし、そうした失言は翌日の新聞に載って、読者がお茶の間で「バカだなぁ」と騒いでいるだけで終わった。それが現在では、ネットで取り上げられて炎上して、ワイドショーが追っかけて、国会議員が予算委員で追求するといった流れになる。それで何人ものクビが飛んでいる。現在のインターネットはこうした負の影響を与える装置になっているという問題があります。

ネットメディアに覚える「素人が板場に立って料理しているような違和感」

―こうした傾向には、ネットメディアの影響もあると思いますが。

小田嶋:ネットは“素人”に大きな力を与えたと思います。つまり、ジャーナリズムの訓練を積んだり、既存のマスコミが培ってきた取材ノウハウをまったく持っていない人間が、ふらっと行って情報発信ができるようになった。この善悪を考えると、良い面も多いと思うのですが、やはり弊害も多い。

例えば、新聞においては、一定の権限と責任をもった人間が、どのニュースを一面に掲載するのかを決めます。こうした作業を担当するのは、新聞社の中でも、経験を積んで、記者として一流だった人間の場合が多い。取材能力や記事を読み解く力が高く、この記事が一面である理由を説明できる人間が担当する作業です。我々素人が新聞を読んだときに、重大なニュースとどうでもいいニュースが、そのデスクの目によって編集されているわけです。それが“編集”というもので、新聞には衰えたりといえどもいまだにそういう能力があるわけです。

ところが、ネットメディアというのは、こうした重要度の重み付けをそこらへんの“ニイちゃん”がやっている。Yahoo!ニュースのトップに上がっている記事が、非常にくだらないという事例を私は最近何度も目撃していますが、「あぁ、これはバカが作っているな」と思っています。バカというか何にも考えていないのかもしれない。

一方、新聞記者に会って話を聞くと、最近は記事を書く際にYahoo!ニュースのトップに掲載されることを目標にし始めているというんです。これは圧倒的にPVが多いからなのですが、PVを稼ぐために記事を作るという圧力が、記者の中にも働きつつある。これは非常に不健康なことだと思うんですね。

なぜなら、PVという数字には、いかにバカを引き寄せるかという要素が少なからずあるからです。例えば、中韓をdisるみたいな記事をのっけると、それだけで見に来る人たちがネットの中にはウヨウヨいるわけですよ。単純にPVを稼ごうと思えば、見出しに「キムチが嫌いな小田嶋」とでもつけておけばいいわけですし、実際そうなっている記事がネットメディアには多い。

本来、新聞の整理部のデスクがやっていたような仕事を、Yahoo!ニュースみたいなネットメディアでは、一昨日まで学生だったみたいな奴がやっているように感じます。あるいはネットメディアに就職しただけの、取材経験もなければ、記事をつくったこともなくて、文章を書いた経験もない、もしかしたら自分で新聞を読んでないかもしれない奴が「じゃあ、これトップにあげよう」と決めているかもしれない。そのくせ、その影響力はものすごく大きい。

―センセーショナルな見出しが目立つという傾向が、ネット上で増幅されている部分は確かにあります。

小田嶋:新聞社というのは、この10年disられ続けてきました。記者は、黒塗りの車に旗を立てて、「どけどけ、俺が◯◯新聞だ」という取材をしていると思われている。実際にそういう取材もしているんでしょうし、彼らが偉そうに高い給料をもらって、庶民を見下すように記事を作っていたという部分だってあったのかもしれません。記者クラブというサークルを作って、外部の人間を排除して、自分たちの既得権益の中で情報を回していたというのも半分ぐらい本当のことでしょう。

それでもなお、彼らは記者としての心得や、あるいは基本的な情報を取り扱う人間の最も基礎的なマナーを最低限もっている。だから、嫌な野郎であったり、思い上がっていたりという部分があるとしても、ジャーナリズムに関しての最低限の訓練を受けた上で取材をし、記事を書いている。これは非常に大切なことだと思うんです。

例えば、警官は拳銃を持っていますが、彼らは拳銃を持っている人間がどうふるまうべきか、という常識とふるまい方を知っている。だからこそ、警官が住民に向かって発砲するような事件は、基本的に起こりえないし、誰かを撃ち殺したという事件もめったには起きない。それは、それだけ拳銃に対しての彼らの意識が高いということですよ。

もちろん警官という人たちにはいろんな欠点があるだろうし、権力をもっていることによる思い上がりや腐敗があるのも間違いない。しかし、Yahoo!ポリスという自警団をつくって、「明日からおまわりさんはヤフーがやってくれよ」と、昨日まで学生だった奴がその辺の警備を始めたら、世の中はとんでもないことになると思うんですよ。

それと、同じように記者やジャーナリストにも専門性と覚悟みたいなものがあるわけです。ネットにいる有象無象が情報を右に左にやっているということには、素人が板場に立って料理しているようで、怖さを感じるんですよ。手も洗わないような奴が魚をさばいているんじゃないかという違和感が、ここ最近目立ってきているように思います。

ネット上の発言は、文脈と切り離されて“物騒な言葉”になっていく

―今ですと、Twitterでの発言なども、どこの誰が読むか分からないので、全方向に配慮して慎重になる必要があります。

小田嶋:二者間の会話であれば、おまえの言っていることはちょっと無茶だよとか、俺の言っていることが一貫してないとか、小田嶋ダブスタじゃん、なんてことはよくあるわけです。「おまえ、さっきの話と違うじゃん」と言われて「あ、そうだっけ」みたいなことはよく起こる。でもTwitterは、たとえば私の場合5万人ぐらいフォロワーがいるので、その論争を5万人が見ているわけです。

すると、論争相手のAさんに向けてではなく、5万人にむけて発言しているという状況が出てくる。一種のプロレスみたいなものなので、すごく振りかぶって叩くわけです。本当だったら、「それわかんねぇ」といって終わりなんだけど、見物客がたくさんいるから、意識的な、一種の芸になっていく。だからこそ「普通の会話じゃない」ということを思い知るべきなんです。

実際、私のところにも「キムチ好きですか?」という感じの質問がくるわけです。これは「好き」でも「嫌い」でも、どちらを答えても絶対ろくなことにはならない。質問自体が完全な罠で、「キムチ」という一種の炎上ワードが入っているので、好きだといえば、「あいつやっぱり在日じゃん」といったことを言いたがる奴が出てくる。一方「嫌いです」といえば、また別の炎上の仕方がある。現在のネット上、既に「キムチ」という単語がニュートラルに受け取られない言葉になっているという言論状況では、何かの質問に素直に答えてしまうということ自体が問題なんです。

実際、私は、食べ物としてはキムチが嫌いなんですが、「嫌いです」といったときの反響まで考えなきゃいけない。これがブロッコリーなら違います。「ブロッコリー好きですか?」と聞かれて「あんま好きじゃないです」と答えても“ブロッコリー事件”みたいなものにはならない。でも、きっとキムチだと違ってくる。例えば能年玲奈ちゃんあたりの影響力のデカいアイドルさんが、「キムチ好きですか」と聞かれて「私、大嫌い」といったとすると、これは、大事件になりますよ、きっと。

これは、ネットに集まっている人間のメンタリティーの問題ですね。炎上のネタを探している、ゲシュタポみたいな連中がいるんですよ。私と誰かが「キムチ好き?」みたいな会話していて、「嫌いだよ」と答えると、それをRTして「小田嶋キムチ嫌いだってよ」と2chに貼りに行く奴がいる。そうなると、「こんにちわ、キムチ嫌いな小田嶋さん」みたいに絡んでくる奴が間違いなく出てくる。

さらには、「キムチが嫌いと表明することが、いかに多くの人を傷つけるか。あなたにはその自覚がないのですか」みたいな奴も必ず出てくる。あるいは「あなたは影響力のある立場の人間なのだから、『キムチが嫌い』だということをまっすぐに言っていいお立場だとお考えですか」みたいな奴も…。

私は10年ぐらい前、こんな時代が荒れてなかったころに、「誰もすし屋でキムチを食いたいとは思わない」という比喩を原稿で使ったことがあります。これは、サッカー番組にお笑い芸人を呼ぶことに対して、サッカー番組に笑いを求めていない、ということを言いたかった。すしを食いたいならすし屋に行くし、キムチが食いたいなら焼肉屋に行く。そうした文脈で、サッカー番組にお笑い芸人が出てくるのは嫌だという意味で書きました。そしたら、半年ぐらい前に、誰かがこれを引用して拡散しているのを見つけたんですよ。でも「すし屋でキムチを食いたくない小田嶋」というのだけが拡散されると韓国人大嫌いの国粋主義者みたいじゃないですか。なので、今はもうそういう比喩は使いませんね。

―特にTwitterなどの場合、前後の文脈と切り離されてしまうので、誤解される場合が多いですよね。

小田嶋:これはネット上でなければ、起こらないことです。実際に対面している人間との会話であれば、その発言のおかれている場所がわかるわけです。だから、食べ物の話の中で、キムチがでてきたということがわかる。

「キムチ」という言葉に民族的偏見がこもっているかどうかはその文脈によるわけですが、ネットで発言された言葉というのは、引用されたり、RT拡散されたりする中で、文脈と切り離されて物騒な言葉になっていく。

―猪瀬元都知事も、現在のような状況になって、あらためて昔のTweetを引用されたりしています。

小田嶋:言葉ってある種揮発性があると思うんですよ。自民党の議員さんが、講演会でウケを狙ってちょっと無茶なことを言うみたいなことは昔からありました。それは落語家さんがテレビではできない話を寄席でするのと同じです。

落語家さんは、自分の落語会などでは、差別ネタであったり、放送禁止用語を含んでいるようなやばい話を、下ネタを含めてやるわけですよ。それが、テレビの客とあなたたちは違うんですよ、というサービスの一つだった。それに対して客が「今日はいい話を聞いた」といって喜ぶのは、差別が好きだからというわけではありません。今のテレビは凄く不自由でいろんな言葉が排除されているので、廓話の演目なんてできない。そういう状況の中で、今日はせっかく来てくれたんだからと、落語家さんが「今日は吉原の面白い話をしましょう」という。テレビじゃできないし、ラジオでも掛けられない。だからこそ、客はそれをありがたがるわけです。

同じように、自民党の政治家が自分の講演会に集まっている観衆に対し、「またうるさい左翼がね」みたいなことを言ったりするわけです。左側の政治家であれば、「うるさい、クソ右翼がきましてね」みたいな話をしているかもしれない。講演会の中の話ですから、そうした多少不適切な発言があったとしても、発言をした人間がとんでもない奴だというわけではない。にもかかわらず、こうした発言を全部拾って、「なんとかなう」みたいに拡散されていくのが今の時代ですね。

「私」が文章から溢れ出てしまっているのが、「ポエム」

―今回の著書のタイトルにも入っている「ポエム」の定義について改めて教えていただけますか。

小田嶋:本の中でも矛盾した定義が3つぐらい並んでいたりするんですが(笑)。散文であれ、記事であれ、広告のコピーであれ、ものを書く人間がそれを書いていながら、きちんとつくられていないもの、中途半端なものが、「ポエム」という形で着地するんじゃないかと。

最近流行りの「思い」という嫌な言葉がありますが、うまくいえなくて、“自分”が漏れ出してしまっているものが「ポエム」といえるでしょうね。特に書き手の「私の」とか「私が」などが文章からあふれ出してしまっているものは、おおむねポエムになってしまいがちです。

―ポエムの例として、サッカーの中田英寿選手が引退する際にブログに掲載した文章を挙げています。

小田嶋:文章というのは、誰に向けて書いているのかで変わります。手紙として、特定の誰かに向けて書いてある文章と、読者に向けて書いている文章と、日本語を読める全員に向けて書いてある文章があれば、それぞれ書き方は違うはずです。

中田選手の文章も、彼が自分の個人的ブログにただアップしただけのものであれば、まったく問題ない。でも、実はあれを発表する段階で事務所の人間が絡んでいて、ニュース番組で古館伊知郎が2回も読み上げた。こうした計算された独白としての運用のされ方が、非常に不愉快な「ポエム」だったと感じる要因になるんですよ。

よく文章を書くときに、「自己表現」という言葉が使われますよね。でも本来、文章は何かを伝えるために書くわけですよ。その結果として、文章の中に自分というものが現れるんです。対象について書いているのに、その書き方や切り取り方、表現の仕方にその人ならではの言葉の特徴や文体が現れていて、それが自己表現になる。

例えば、ピアノであれば同じ曲を弾いても、弾く人によってタッチが違う。弾き方の強さやテンポのとり方などに、それぞれの特徴が出ます。ピアニストは、ピアノを弾くことで音楽を表現しているわけで、自己表現をしているわけではない。音楽を伝えていても、弾いている人の個性が現れているから、結果的に自己表現になる。あの演奏は彼ならではだよねと。

でも、文章の場合は音楽と違って言葉があるので、「俺ってこうなんだよね」「俺の生き方ってさ」みたいな文章が、自己表現だと勘違いされがちなんですよ。そういうのは正に自分が主題の文章なわけです。これをやっちゃう人たちが凄く増えている感じがしていて、それにはネットの影響も非常に大きいと思います。

ブログは、そもそも日記だから構いません。ブログの中で、「○○食ってうまかった」「こないだから一日2時間しか寝てない」みたいなことを書くのは、まったく問題ないし、その到達範囲がお友だち、あるいはブログ読者に対してであればいい。でも、これが新聞みたいなメディアの社説とか、もう少し公に開かれたものの中で、「俺ってさ」みたいな話をされると「お前の話きいてないんだけどなぁ」という違和感があるんですよね。

―最近、「結いの党」という政党ができましたが、こういう党名も「ポエム的」だと論評されていましたね。

小田嶋:「結い」とか「みんな」という単語は大和言葉ですよね。漢語で作った「認識」とか「行動」といった言葉ではない。例えば、「心情」や「エモーション」などと言うと、元が漢字や英語なので、言葉のニュアンスが凝縮しているように感じます。一方、大和言葉というのはもう少し曖昧として、もやっとしたものになる。

古くからある言葉だから、それだけニュアンスが豊富なわけですが、意味が限定された、論文のような知的な文章に耐えうる言葉なのかというと違って、「こころ」という言葉を使った瞬間に、もう既にそれはポエムのにおいを発しているわけです。「思い」や「きずな」もそうですが、大和言葉で発せられる言葉というのは、それだけポエミーな、私的な言葉なんですよ。

「涙」や平仮名の「おんな」とか、演歌に出てくるような言葉です。J-POPでも、例えば「私の認識する~」なんていう歌詞はありえないわけですよ。「僕のマインドセッティングは~」みたいな歌はない。まぁ、まったくあり得ないことはないんでしょうが「俺の思いが~」の方がしっくりくる。こうしたポエムの言葉は、その領域で使われるのはいいですが、「みんな」とか「結い」みたいに政党名の中で使われると、ちょっと変なんですよ。

昔はお役人も硬い言葉を使っていましたが、最近は何かと「ふれあい広場」とか言いたがる。アナウンサーが使う言葉でも「○○に寄り添う政策」式の言い方をする。昭和の頃であれば、そういう言い方はしないで、「障害者のためになる」とか「児童福祉に寄与する」という言葉遣いをしたと思うのですが、それが「子どもたちに寄り添う」といった言い方になっている。そういう柔らかい言い方でやんわりと伝えていこう、というのをお役人にやられると猛烈に胡散臭く感じるんですよね。

―小田嶋さんがコラムニストとして文章を書くときに特に注意されてる点はありますか?

小田嶋:私は以前、テクニカルライターと名乗っていましたが、これは当時の流行に乗っかっただけなので、長く使う肩書きじゃないと思っていました。

あるインタビューに応えた際に、「エッセイスト」と書かれたのですが、「エッセイスト」と言われると、嫌な気持ちがしたんです。その時に、「『エッセイスト』じゃなくて『コラムニスト』にしてください」といったのをきっかけに肩書きを聞かれると「コラムニスト」と答えるようになりました。

大まかに定義すると、コラムというのは対象寄りのものなんですよ。例えばコーヒーについて書きます、といった主題を与えられて書くのがコラムです。「コーヒーから見る世界の貿易」「コーヒーがつくる人間関係」みたいなものがコラム。一方、エッセイというと「コーヒーと私」みたいなものなんです。「私のコーヒー遍歴」とか「私の恋を彩ったコーヒーたち」みたいな「私」「私」な文章で、とにかく誰が書いたか、というのが非常に重要なのがエッセイです。

でも例えば、綺麗な女優さんが「京都に行きました」なんて書くと、それだけ絵になるような感じがする。「京都にいって嵯峨野の辺りを歩いてきたんですよ」なんていうのは「だから、何が言いたいんだよ」と言いたくなるようなくだらない文章だけど、紅葉の京都を綺麗な女優さんが歩いているという映像を喚起してくれただけで、ファンは嬉しい。これがエッセイですね。なんかすごくバカにしていますけど(笑)。

でも、「京都いったよ。嵯峨野が紅葉だったよ。きれいだったよ。じゃあね」というのでは、コラムになっていない。京都のこの30年の変化なり、京都で出される和菓子がいかに人をバカにしてるか、みたいな“何か”を書かなきゃいけない。そこがコラムとエッセイの最大の違いでしょう。

文章は牛が反すうするように“いじくりまわせ”

―最後に、今回の本は特にどんな方に読んでほしいですか?

小田嶋:連載されていた「新潮45」は比較的年配の方が呼んでいる雑誌なので、若い人に読んでほしいと思います。

若くて文章が上手な人たちを見ていると、もっとネタをいじくり回して欲しいと思うんですよ。「そのまますっと書くなよ」「もっとやれるのに」という気がするんです。パソコンで書いたものをすっと流していることの残念さを感じてしまう。

今は、すごく文章の量が増えています。作家人口が増えたという部分もあって、文章力の平均値のレベルは絶対に上がっていると思います。素人でそこそこ文章上手だよ、という人の数は20年前に比べれば、凄い勢いで増えているでしょう。20~30年前の若者というのは、そもそも文章を書く習慣がなかったので、話せばすごく面白い奴なのに、文書を書かせてみるとちゃんとした「てにをは」ができないっていう人間が山ほどいました。

でも、最近は基礎的な素養がある人がほとんどですし、頭の中にあることを順序だてて伝える文章力というか文法力は広く共有されている。ちょっとメール書いたり、Twitter使ったりといった短い文章でのコミュニケーションが発達したこととあいまって、かいつまんでものを言うことがみんな上手になったんですよ。一方で、その副作用みたいなものもあるわけです。

本職の文章家だけがやっていた、文章を最後の最後まで推敲して、時間かけてクオリティを高めるといった部分が減っているように思うんです。文章力も観察力もある人間は、一回書いたものを、もう一回牛が反芻するみたいにいじくりまわして欲しいと思います。ちょっといじりすぎて困ったな、というものができる場合も多いんですが、そこまでいじくり回す習慣が失われているのではないでしょうか。

私も手で書いていた時代は原稿を書き始めて最初の3年間ぐらいしかありませんが、手で書いている人たちは書いたものに赤を入れて、また書き直してというように、物理的に言葉をいじくり回すときの手間の掛け方が違うわけです。事実確認やウラ取りについても、ググッて見れば終わりで非常に助かっている部分もありますが、昔は調べ物するときに結構苦労したわけです。そういうことを調べる過程で何か別のネタを拾ってくるといったこともあったので、「くだらん手間をかけてくれ」というのはちょっと思いますね。

プロフィール

小田嶋 隆(おだじま・たかし):コラムニスト。1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在ではコラムニストとして活躍中。
Twitter:@tako_ashi







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