福留孝介が語る野球人生の危機。その経験から「根尾はショートに固執すべき」
2月8日、フロリダ州タンパで行なわれたスーパーボウルで新たな伝説が生まれた直後、沖縄の読谷にいるNPBの現役最年長プレイヤー、福留孝介とビデオ電話をつないだ。
── トム・ブレイディと同い年なんだね。
「へーっ、そうなんですか。ブレイディってクオーターバックの? 僕と同い年なんですか。それは知らなかったなぁ」
NFL、タンパベイ・バッカニアーズのQB、トム・ブレイディ──前人未到、7度目のスーパーボウルを制したフットボール界の"G.O.A.T."(史上最高)と称されるスーパースターは今、43歳。3つのタッチダウンパスを決めた華麗な動きを思えば、同い年の福留もまだまだ十分に動けたとしても不思議ではない。
「僕ですか? まぁ、そこそこです。年齢なりに動くって感じ。現役最年長は去年からだけど、それも往生際の悪さゆえかな(笑)」
14年ぶりに中日へ復帰した福留孝介
福留も43歳になった。
彼と初めて会ったのは今から26年前、彼が17歳だった1995年のことだ。当時、春のセンバツへ出場することが決まっていたPL学園のキャプテン、福留は自信満々の口調でこんなふうに言っていた。
「西の福留、東の澤井? 正直、一緒にせんといてくれって感じです」
笑顔とともに口をついて出た言葉だったが、目は笑っていなかった。澤井(良輔)は千葉・銚子商の内野手で、センバツを前に注目を集めていたスラッガーのひとりだ。のちにマリーンズへドラフト1位で入団する同い年のライバルを、オレと一緒にするなと一蹴してしまうばかりか、負けん気を隠そうともしない。福留はそんな生意気な、それでいてどこか可愛げのある高校生だった。
そしてその言葉どおり、福留は同い年のなかの最後のひとりとして、今年もNPBのユニフォームを着ている。プロで1年でも長く、という価値観から考えれば、福留は最後まで勝ち残ったことになる。あらためて今の福留に「同い年の選手に負けたという気持ちを持ったことがないんだろうね」と問いかけてみた。すると彼はこう言った。
「持ったことがないというか、(負けたという気持ちを)持ちたくなかったんでしょうね」
この言葉には驚かされた。
つまり福留は、誰かに負けたと思いたくなくて、17歳の時からあえて強い言葉を発してきたというのである。自信満々にしか見えなかった福留も、歳を重ねることで己を晒せるようになったのか。そうだとしたら、それは積み重ねてきたものに対する圧倒的な自信があるからだろう。福留はこう続けた。
「だから今も、思うようにいかないことがあっても、何かができなくなったとは思わないようにしています。そりゃ、昔みたいなスピードがどうのこうのって言われたら、それはできていないかもしれないけど、だったらそれをどうやって補えばいいのかを考えればいい。たとえばその前の動作をちょっと工夫するとか、できなくなったとマイナスに考えるんじゃなくて、こうしたほうがいいのかな、こうすればもっとよくなると、常にプラスの方向へ考えられるようになりましたね」
昨年までの22年間で日米通算、2407本のヒットを積み重ねてきた福留は今シーズン、14年ぶりにドラゴンズへ復帰した。
思えば福留が在籍していた頃のドラゴンズは常に優勝を争うチームだった。1999年からの9シーズンでリーグ優勝3度、2位が4度(うち1度はCSを勝ち上がって日本シリーズへ出場)、3位が1度。ドラゴンズはAクラスが当たり前のチームだったのだ。しかし最近はずっとBクラスが続いていた。昨年、8年ぶりのAクラス(3位)に食い込んだ古巣を、福留はこんなふうに見ていたのだという。
「大島(洋平)であったり(高橋)周平であったり、ようやく軸になる選手が出てきたという感じですね。チームって、軸が決まると周りが落ち着いてくるんです。あとは、選手一人ひとりがゲームのなかで求められる自分の役割を、周りに言われて理解するんじゃなくて、自分で考えて理解できるようになったら、もっと楽に戦えるようになるんじゃないかなと思います」
就任2年目の与田剛監督のもと、投手陣には軸ができた。沢村賞に輝いたエースの大野雄大、ともにホールドポイント30で最優秀中継ぎ投手賞を獲得した祖父江大輔と福敬登。さらにリーグトップの.455という抜群の盗塁阻止率を誇った木下拓哉が正捕手のポジションをつかんだことも心強かった。
安定した守りに加えて、野手陣も大島洋平、平田良介ら30代、高橋周平、京田陽太ら20代半ばの軸ができつつあるなか、根尾昂、石川昂弥、岡林勇希といった高卒2、3年目の才能に溢れた若手がどこまで絡んでいけるのか──そんなドラゴンズの近未来予想図の中で、福留が気にするのは根尾の存在だ。
かねてからショートへのこだわりを口にしてきた根尾だが、そのポジションには昨年、全試合出場を果たした京田がいる。かつて、ショートとしてプロ入りを果たしながら外野へコンバートされた福留には、ルーキーイヤーの忘れられない記憶が焼きついている。
1999年4月28日。
この日のタイガース戦に2番、ショートとして先発した福留は、ホームラン、スリーベース、ツーベースと続けざまに長打を放って、あとはシングルヒットを打てば史上初のルーキーによるサイクルヒットを達成するところまでこぎつけた。福留も「よっしゃ、セーフティバントでもやったろか」と野心をたぎらせた矢先、星野仙一監督が突如、鬼と化す。
「ショート、福留に代えて、久慈(照嘉)」
当時、星野監督はこう話していた。
「福留の交代? それがどうした。福留は今のままじゃ、ショートでは使えない。これはハッキリ書いてもらって構わんぞ。サイクル? オレに信用される守りができないから、代えざるを得んのだ」
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その後、福留はサードを経て、プロ4年目には山田久志監督によって外野へコンバートされる。その時のことを彼は「あれは、野球人生におけるピンチだった」とまで言っていた。福留はこう話した。
「僕が内野から外野へ行ったのは、ピンチと言えばピンチでした。でも、いま思えば、チャンスでもあった気がするんです。それは自分で納得するまでやって、自分で腹を括ったから。根尾くんもショートに固執していいし、固執すべきだと思います。この世界でやっていくなかで、自分が自信を持ってやってきたことに対しては固執していい。
それでも『いや、オレはここじゃダメなんだ』と自分で気づけば、その時に次のことを考えればいいんです。誰かに言われて動くんじゃ、『コンバートされたからダメだった』と自分への逃げ道をつくってしまいますし、そんな言い訳、今までもたくさんの選手からいっぱい聞かされてきました。でも固執して、自分で逃げ道を断って、そこで失敗したとしても、彼はまだ20歳そこらなんでね。自分に自信があるうちは固執すればいいと思いますよ」
43歳の福留だって、今もなお固執し続けている。ドラゴンズでは、ここ一番の代打? 若手の手本? 冗談じゃない──当然、狙うのは開幕スタメンの座だ。
「もちろん、そのつもりでやってますよ。ユニフォームを着ている以上、プレイボールからグラウンドに立っていたいという思いはあるんでね。それぐらいの準備をしないと無理なんですよ。最初から代打で、なんて思っていたら戦えない。僕はドラゴンズでもう一回、生き返ってやろうと思っているんです。ここを死に場所だなんて思ってない。だって去年、クビになってますからね。野球選手としては一度、死んでますから、そういう意味で生き返ってやろうと思ってます。まぁ、そんな大袈裟なもんじゃなくて、『この野郎、見てろよ』って、そのくらいの気持ちなんですけど(笑)」
日本で17年、7723打席、メジャーで5年、2276打席──福留はこれまで9999打席、プロとして戦いの場に立ってきた。23年目、次の打席はちょうど10000回目のアットバットになる。
「へぇー、そうなんですか。知らなかった。最初の打席がドラゴンズで、10000回目もドラゴンズか......そういうのを聞くと、すげえなと思いますね。よくそれだけ打席に立ってきたよなぁ。思い出すのは、デッドボールで骨折したとか、そんなのばっかりだけど、僕は一回も野球に飽きたことがなかった。野球をやめたいとか、もうやりたくねえとか、オレには無理だとか、そんなふうに思ったことは小さい頃から一回もなかった。それも、こうやって今でもプレーできる身体の強さがあったことが大きかったと思います。練習をやっても壊れない。さらに練習ができるから、もっと壊れにくい身体が出てきてくれる。
去年、初めて、野球をやめなくちゃいけないかもしれないと思って......どこからも声がかからなければやめるしかないし、そうなったら、それもまた僕の野球人生なのかなと一瞬、思いました。でもドラゴンズに声をかけていただいて、またユニフォームを着て野球ができる。それがこんなにありがたいことだとは......今は、本当によかったなあという、そんな感謝の気持ちしかありません。僕もそれなりに歳、取ったでしょ(笑)」