今ではネット記事で見かけない日はないほど社会に根づいた言葉、『イケメン』。世に出回り始めたのは1990年代後半で、当時は一部の雑誌でひっそり使われる造語だった。

 ジー・サーチ社が提供する新聞・雑誌記事横断検索で、タイトルや文中に「イケメン」を含む記事数を比べると、1998年は0件、1999年は4件、2000年は23件、2001年は12件。それが2002年には一気に97件まで急増する。


大ブームを巻き起こした元祖イケメン助っ人

 その大きなキッカケとなったのが、この年に日本と韓国で共催されたサッカーW杯。新聞はもとより、女性誌からファッション誌、サッカー専門誌に至るさまざまな各媒体が、それまで使っていた「カッコいい」「いい男」「ハンサム」などを封印し、新語に飛びついたことで「イケメン」は市民権を得ることになった。

 そのイケメンとして2002年W杯の開幕前に大きく取り上げられたのが、イングランド代表のデイビッド・ベッカム。甘いルックス、(当時は)斬新なソフトモヒカンの髪型、そして妻はスパイス・ガールズのポッシュことヴィクトリアという話題性もあって、「イケメン世界No.1プレイヤー」の玉座についた。

 しかし、W杯が始まると少しずつ潮流が変わっていく。W杯の試合を実際にその目でチェックした人たちによって、ベッカム以外の選手もクローズアップされていったからだ。

 次々と各国代表のイケメンにフォーカスが当たるなか、長髪を頭頂部でチョンマゲのように結ったヘアスタイルの選手が、ベッカムをしのぐ大フィーバーを巻き起こすことになる。

 それが、当時27歳だったトルコ代表FWのイルハン・マンスズ。W杯は全7試合に出場し、ほとんどが試合途中に投入されながらもチーム最多の3得点。トルコ代表の3位躍進の立役者になった。

 だが、その活躍以上に女性の心を鷲づかみにしたのが、クシャッとした笑顔。試合中の精悍な眼差しとのギャップ萌えもあって、空前の「イルハンブーム」が起きた。

 W杯が終わっても人気は衰えず、女性週刊誌は毎号のようにグラビアを掲載。写真集やDVDも発売され、トルコへの応援ツアーも企画された。中田英寿の所属する事務所とのマネジメント契約によって、W杯翌年の2003年には森永乳業のプリンやトヨタ自動車のCMにも出演した。

 そんなイルハンブームも落ち着きを見せていた頃、再びイルハンの名前がメディアで踊る。2004年から新たな運営会社に経営を譲渡したヴィッセル神戸が、移籍金5億円・年俸3億5000万円の2年契約でベジクタシュから獲得した。

 2002年W杯以来となるサッカー界屈指のイケメンの来日となった2004年2月10日には、成田空港でファン約50人がお出迎え。都内で行なわれた来日会見にはサッカー関連のメディアのみならず、テレビ各局のワイドショーや女性ファッション誌など65媒体、約200人の報道陣が詰めかけた。

 前年まで1試合平均の観客動員1万人超がやっとだった神戸にとって、イルハン加入は集客の起爆剤になった。

 当初の予定より2週間前倒し売り出されたホームスタジアムでの開幕戦のチケットは早々に売り切れ。当時Jリーグを中継していたスカパーはイルハン効果の視聴者増加を期待し、開幕戦では試合そっちのけでイルハンの姿や表情だけを追う「イルハン・チャンネル」を用意した。

 迎えた3月13日、ジェフユナイテッド市原との開幕戦。カズ(三浦知良)と2トップで先発したイルハンは無得点に終わったものの、神戸は先制を許しながら後半にDF北本久仁衛、MF和多田充寿の2発で逆転勝利。3万人の観衆が見つめたなか、イルハンは両チーム最多のシュートを放ち、次戦以降のJ初ゴールに期待が膨らんだ。

 しかし、イルハンがピッチで存在感を発揮したのは、実質的にこの試合が最後だった。開幕戦の10日後には古傷の右ひざの違和感から自宅のあるドイツに帰国し、4月1日にはイタリアでW杯後4度目となる右ひざ手術を受けた。

 リハビリを経て約2カ月後の5月下旬に日本に戻ったイルハンは、6月中旬の試合復帰を目指して調整を続け、6月12日の横浜F・マリノス戦で17分間プレー。だが、この試合で右ひざを再度悪化させてチームから離脱すると、6月20日には家庭の事情を理由にクラブの許可を得ることなくドイツへ無断帰国。それっきり、Jリーグに戻ることはなかった。

「イルハンには、せめて10試合くらいやってほしかったが......」

 これは2007年2月25日付の神戸新聞に掲載されたインタビュー記事で、ヴィッセル神戸会長の三木谷浩史氏が当時を振り返った言葉。その言外からは、W杯後に右ひざを3度出術していたのを承知で客寄せパンダ的に獲得したイルハンが、Jリーグ3試合に出場してプレー時間196分で無得点に終わったのは想定外という思いがにじんでいるように感じられた。

 家庭の事情で無断帰国してヴィッセル神戸から契約解除されたイルハンの動向を、2004年8月27日付の各スポーツ紙が伝えている。それらによれば、日本からの国際電話代が月十数万円に達する努力は報われず、約2年間連れ添ったニーナさんとの離婚が決定。長女アイミー(当時1歳)の親権も母親に譲渡されたという。

 26歳でトルコ代表にデビューした遅咲きは、27歳だった2002年W杯で一躍スターダムに上り詰めたものの、わずか2年で人生のどん底に転落。イルハンのその後はというと......。

 右ひざの状態はあいかわらず悪いままだったが、「W杯日韓大会のプレーがすごかった」とファルコ・ゲッツ監督(当時)が高く評価したドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンと2005年1月に2006年夏まで契約。しかし、「2004-05シーズン中に復帰できなかったら解雇」の条項をクリアできず、2005年6月でヘルタを退団となる。

 さらに翌月、トルコのMKEアンカラギュジュに入団するも、2006年1月に退団。リハビリを続けながら移籍先を探したが結局見つからず、2006年8月に現役引退を表明した。

 そして現役引退後、イルハンが久しぶりに日本のファンにその姿を見せたのは、2008年6月のこと。中田英寿の呼びかけで実現したエキシビションマッチに、ジョゼ・モウリーニョ監督が率いるワールドスターズの一員として参加して2得点を決めた。

 キャリアを終えたサッカー選手は、指導者の道を歩むケースが少なくない。イルハンは引退表明時、「将来はイタリアかドイツでファッションを勉強して、ランジェリー関係の仕事をしたい」と希望していた。だが、イケメンが選択していた道は、きらびやかな装飾のつくり手ではなく、それを身にまとった演者側だった。

 2008年、テレビ番組の企画でフィギュアスケートのショーに出演。それが契機となってペア種目に取り組み、2013年、ソチ五輪の最終予選大会でフィギュアスケートのペア種目に公式戦デビュー。残念ながらソチ五輪出場は叶わなかったものの、2015年まではイケメンだからこその"映え"を銀盤でも見せた。

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 その後はサッカー界に戻り、古巣ベシクタシュでコーチを務めていたが、昨年2月に腰痛が原因でクラブを退団。現在のイルハンについては、彼のインスタをチェックするとお目にかかれるが、年齢を重ねたことで加わったシブみで磨きのかかったイケメン画像にあふれている。

 2002年以降、数多くのイケメンJリーガーがメディアに登場した。だが、いまだイケメン選手としてイルハンに並ぶほどの圧倒的な人気を集める選手はいない。大ブームを巻き起こして以降、選手としては不完全燃焼に終わったイルハンだが、もし故障がなくてもっと試合に出られていたら、Jリーグは違う方向へと発展していたかもしれない。