90歳のベンチプレス世界王者、狙うは金メダルのみ「“できない”とは言わない」
72歳、夫のリハビリのため付き添ったジムで重いバーベルを「エイ!」と持ち上げるベンチプレスの虜になった。一時は脳梗塞を患い、直後、夫にも先立たれた。そんな苦境も乗り越え、気づけば競技人生18年。やればやるだけ努力が実る競技は「人生のよき友」に。90歳を迎えた今年も、世界大会で狙うは金メダルのみ!
【写真】すごすぎる! 世界大会で40kgのバーベルを持ち上げる奥村さん
83歳での優勝を皮切りに5個の金メダルを獲得
水曜と土曜の週2回、茨城県鹿嶋市にある自宅からおよそ2kmの道のりを、季節の移ろいに目をやりながら40分かけ最寄り駅まで歩き、さらに電車に1時間乗り、水戸にあるトレーニングジムに通う。
ジムに着くなり、水曜は2時間かけて、腹筋、背筋、デットリフト(床に置いたバーベルを持ち上げて背筋を鍛えるトレーニング)とスクワット(バーベルを担いで屈伸。下半身を鍛えるトレーニング)。後者に至っては、計40kgの重さのバーベルを担ぎ、8回の屈伸を3セット行う。
土曜は、コーチのもと、自身が世界記録を持つベンチプレスに取り組む。ベンチプレスとは、ベンチの上に横たわってバーベルを挙げ、その重さを競う競技のこと。こちらの練習もやはり、本格的なものだ。
こんなハードなトレーニングをもう10年も続けているのが、奥村正子さん御年90歳。
土曜のベンチプレスを指導して15年近くになるという李コーチ(62)が、奥村さんを称してこう言う。
「奥村さんは競技者であるという前提で指導しています。いろんなメディアで紹介されているものを見ると、“90歳のおばあちゃんがあんな重いものを挙げてすごい!”という取り上げ方になりがちですが、私がよく言うのは、“(あなたは)競技者です”と。競技者とは競技をして自己記録を伸ばす者。奥村さんのモチベーションも、そこにあると思います」
そして、こう続ける。
「私自身も奥村さんを“90歳のおばあちゃんがすごい重さを挙げている”という、色ものとして見てほしくない」
競技者としての自負と誇りのもと、2013年、83歳で世界マスターズベンチプレス選手権(60歳以上・47kg級)で優勝したのを皮切りに、この階級で今までに5個の金メダルを獲得している。
来る11月には福岡で開催される『全日本ベンチプレス選手権大会2020』のマスターズにも出場。来年、ウズベキスタンで開催予定の、世界選手権出場権を狙う。もしも優勝できれば、6つ目の世界選手権金メダルになる。
競技者・奥村さんが意気込みを語る。
「出るなら勝たなきゃ。勝ちたいですよね、いくつになっても。私、ベンチ(プレス)を始めたときに自分自身に目標を持ちました。90歳までやろうって。それで90歳過ぎました。どうしようかなって考えたとき、周りの人が“人生100歳時代だ”って。じゃあ100歳までやりますよって」
ベンチプレスとの出会いは72歳
スポーツといえば、ひざのリハビリを兼ねたゴルフ程度しかしてこなかった奥村さんが、ひょんなきっかけで始めたベンチプレスのおもしろさにいつしかはまり、気がつけば82歳で世界チャンピオンになっていた。
そして今、90歳で世界記録更新と金メダルを狙う。
人生100年時代には、人は90歳で世界チャンピオンにだってなれるのだ──。
ベンチプレスとの出会いは、2002年、奥村さん72歳のときだったという。
「主人の奥村肇が板金塗装の工場をやっていたんですよ、神奈川県の相模原で。2人で車に乗っていたら、うちを出て10分ぐらいのところで、飲み屋のおばさんに後ろから車をぶつけられちゃったの」
幸い、奥村さんにたいしたケガはなかったが、夫の肇さんは頸椎(けいつい)を痛め、ズボンにベルトを通すのも難しいほどに。
病院で痛み止めの注射を打ってもらってどうにか仕事を続けていたが、それをアメリカの大学で生化学を教えている息子の由多加さんに伝えたところ、こう言われた。
「“お父さん、注射すると痛くなくなるのはいいけれど、骨がモロモロになってしまう。運動して治しなさい”と。
息子は生化学の教授なので、わかっていたんですね。それで相模原のスポーツジムで、リハビリ目的の筋トレを始めたんです」
筋トレを続ける肇さんに付き添ってジム通いをしていた奥村さんだったが、本格的なベンチプレスへの挑戦は、現在の茨城県鹿嶋市に引っ越してきた後のことだったという。
「住友金属工業っていう都市対抗に出ているクラブがあって、あるとき新聞に後援会会員募集の広告が出ていたんです。細かく読むと、会員はトレーニング施設が使えるとあった。それで私たちも後援会に入って、夫の傍らでトレーニングを始めたんです」
住友金属工業のクラブ員がベンチプレスやデッドリフトなどを練習する様子を、奥村さんが興味津々の様子で見つめる。なかでも惹かれたのが、ベンチプレスだった。
「おもしろそうだな、って思って。だって見ていると、この間見たときより大きなプレートがついているんですよ。“そうか、やっているうちに強くなるんだ”と。それが魅力だったの」
プレートを装着するバーの重さは20kg。最初はバー単体でさえ挙がらなかった。それでも続けていると、バーが徐々に動くようなっていったという。
「あ、動いたぞ! 頑張れ、もう少し! よし、挙がった! すごいじゃないか!」
そう言って喜ぶ肇さんをベンチで見上げながら、奥村さんはこの競技の楽しさに目覚めていった。そして肇さんとともに週4回、4時間ものトレーニングに励むようになったという。
隣に住む友人の大谷秀子さん(77)が言う。
「出かけるときはご主人といつも一緒で、本当に仲がいい夫婦でしたね」
初めての世界選手権で優勝
競技会へ出場するようになったのは、トレーニングを始めて10か月後に出場した茨城県神栖市での市民ベンチプレス大会がきっかけだった。
「何にも知らなかったのに怖いもの見たさで行ったら、30kgが挙がっちゃったの。そうしたら審判をしていた人が、“あなた、一生懸命やれば40kg挙がるよ”って。私、(おだてられると)木に登る豚ですからね。それで一生懸命やりだしたんです」
住友金属工業内ジムで、トレーニングを続けること10年。もともと素養があったのだろう、2012年、奥村さんは82歳でマスターズベンチプレス全日本選手権47kg級に出場して優勝し、見事2013年の世界選手権への切符を手にすることができた。
この年、世界選手権の開催場所は中欧のチェコ。だが、日本代表といっても、チェコへの飛行機代も宿泊費も自己負担で、40万円近いお金が必要だった。
「主人に、“お金がかかるから”と言ったら、“行け行け!”って。そして“世界大会なんて誰でも出られるものじゃない。お金なんて生きているうちに使うもんだ!”って言ってくれた。“じゃあ、1回だけね”ということで出かけたんです」
当時の事情を前出・李コーチがこんなふうに証言する。
「奥村さんがガンガンやっているのを、ご主人が見守っているという感じでしたね。
(リハビリの終了後)ご主人もパワーリフティングをされていたんですが、ご病気をされてしまった。競技者としては不本意だったと思いますが、奥村さんは断トツで挙げていましたので、ご主人は楽しく応援しているという感じでした」
出場した世界選手権の試技は3回。自分が申告した重さを挙げるが、挙げられなくても軽くすることはできない。次回は同じ重さに再トライするか、2・5kg刻みで重くするかのどちらかしかない。
世界選手権特有の張り詰めた雰囲気のなか、奥村さんの1回目の試技が始まった。
ベンチの上にあお向けになり、審判の“スタート!”という声で総重量40kgのバーベルをラックからはずし胸の上で静止させる。審判の「プレス!」という合図とともに、奥村さんの「エイ!」という気合が響いた。
見事40kgをクリアした。82歳、体重47kgの人の40kgクリアである。
2回目の試技では42・5kgをクリア。3回目の45kgは失敗したが、2位のチェコ人女性に5kgもの大差をつけて世界選手権初優勝を飾った。
「試合が終わったあと、(チェコ人の)彼女がハグしてくれて“あなた(奥村さん)、強いね。来年もまた、会おうね”って言ってくれて。私も勝ってうれしくなっていたもんだから、“うん、会おうね!”と応えた。
翌年の世界選手権はイギリスですよ。それで帰りの飛行機で冷静になって“さて困った。彼女に会おうと言っちゃったけど、どうしよう?”。
私、嘘つくのがいちばん嫌いなんですね。それでありのままを主人に言うと、“何回でも行け、行かれるうちは行け”と。それでやみつきになっちゃった!(笑)」
以来、翌2014年のイギリス大会、2015年のアメリカ世界大会と3大会連続で金メダルを獲得した。
2016年のデンマーク大会は、惜しくもメダルを逃す。現地に行く飛行機で、窓際に座ったのが敗因だった。
「水分をとるとトイレに行きたくなるでしょ? 飛行機で窓際に座ってしまうと、(通路側の人に)いちいち“エクスキューズ・ミー”と言って行かなくちゃならない。
どうしようもなくて1度だけ“私、レストルーム(トイレ)に行きたいんだけど”と言うと、通路側に座っていた外国人が“どうぞ、どうぞ”って立ち上がってくれて。
それでトイレに行って、出てから自分の席をひょいと見たら、座らないで立って私を待っている。日本人の私としてはそう何回もトイレに行けないでしょ? それで十分な水分がとれなくなって、試合のときに立てなくて、失格になってしまったの!」
そんな思いもよらない理由から4連覇を逃してしまったが、雪辱を果たそうと気合十分でいた2017年のアメリカ大会直前の3月、奥村さんの身に予想もしなかったことが襲いかかる。
「奥村さん、あなたまだ先があるでしょ」
「私は世界大会に出場する際、人に迷惑をかけたくないと1か月前に必ず全身の検査をするんです。これは毎年、必ずやっています。それで3月に検査をしたら脳梗塞が見つかった。28日に即、入院しました」
雪辱を期した世界大会を目の前にしての脳梗塞発見。
「そのショックはホント大変でね……。“私の人生はおしまい。死んだと同じだ”と思いましたよ」
だが、奥村さんに絶望をもたらした定期検診が救いともなった。早期発見早期治療で手術なし、4種類の点滴による12日間の治療だけで退院することができたからだ。
とはいえ、翌4月末に控えた世界大会は、医師から欠場を命じられてしまった。
「入院が3月でしたから、世界大会まではまだ20日間ぐらい時間があるわけです。それで医師に“行っていいですか?”と言ったら“ダメ!”と。“私、全部手続きしているんですけど”といっても、“今年はダメ!”。
でも、次の言葉に感銘を受けたの。“奥村さん、あなたまだ先があるでしょ”って。90歳近い私に“先があるでしょ”と言ってくださった。うれしかったですねえ……。
私、その言葉を聞いたときに、“よう〜し、私は不死鳥になろう!”と思った。それで退院してからまた1から始めたんですよ」
だが不死鳥になろうという意気込みでいた奥村さんを、さらなる大波が襲う。
点滴治療を終え、まだ様子見で入院中の4月3日のことだった。
「自宅に何回電話しても夫が出ないんです。2人でいつもしゃべっていたのが入院していなくなってショックだったんでしょうね。先生にそれを言うと、“なにかあったのかもしれない。看護師をつけるから行ってみろ”と。
それで看護師さんと家に帰ってみると、夫が寝室でうずくまっていたんです」
実は夫の肇さんには大腸がんがあり、5年ほど前から自宅で静養を続けていたのだ。
「主人も私も変わり者ですからね。抗がん剤を使うと、痛みや副作用がある。
主人は、“お前、考えてごらん。昔は人生50年といっただろう? それ以上はいいよ。俺は幸せだ、80歳まで生きたんだから”って。それで薬も飲んでない。
私も、好きなものを食べさせて、免疫力を上げればいいじゃないかと思ってた。
主人はうなぎが好きなんですよ。でも輸入品はダメなわけよ。実は私、うなぎは嫌いなんだけど(笑)。国産品は高いけどお金にはかえられないでしょ? 好きなものを食べていたからあれだけ元気だったんだろうって、みんなも言ってくれて。運動も一緒にしていたんですよ」
「主人は亡くなってよかったと思う」と言う理由
退院後、肇さんは近所のホームに入所したが、亡くなるちょうど1週間前、傍らに奥村さんを呼び、こう言ったという。
「“お前と一緒になって幸せだったよ、ありがとう”って。そのあとに“お前は(90歳までベンチプレスを続けるという)目標を持ってやってきたんだから、その目標をケガをしないで達成してくれ”と。
まあ90歳は越えましたけど、それを守っているの、私」
2017年6月19日、夫・肇さん死去。奥村さんいわく、“文句も言わず仕事に励む職人気質の人”で、決して安くはない世界選手権への参加も快く許したばかりか、参加を後押しし、励まし続けた。
13年以上も前に交わした夫との約束を、今も守り続ける奥村さんは、最大の理解者の逝去を、この人らしいカラッとした口調で言う。
「ホームには3か月いました。私、主人は亡くなってよかったと思う。
それりゃ寂しいですよ。だけどね、今まで(ゴルフや筋トレに)動き回っていた人に寝ていろ、ジッとしていろというのは過酷でしょ? 自分のしたいことができないとしたら、かわいそうだと思うの。だから私は(3か月で亡くなってくれて)よかったと思っていますよ」
アンチ・ドーピングに関する専門知識を持つ薬剤師・スポーツファーマシストとして、4年ほど前から奥村さんの薬の服用と栄養指導を行っている鹿嶋市のさつき薬局本店の工藤仁一薬剤師(45)が言う。
「(ご主人を亡くして)元気がない時期は確かにありましたけど、はたから見ていてすごいなというぐらい、モチベーションの戻しが普通の人とは比べものにならないぐらい早かったですね。
これはダンナさんとの“俺のことはいいからやれ”という約束を守っているから。悲しさにかまけている場合じゃない、約束があるんだという思いから来るんだと、僕は理解しています」
前出の大谷さんは、もっとも身近に住む人の立場で、この友人の素顔を証言する。
「泣いた姿は見なかったけどしょんぼりとしていましたね。泣き顔は決して見せなかった。強い人なんです」
肇さんを失い、自身も脳梗塞を患うという逆風の中、2018年南アフリカの世界大会では見事、復活の金メダル。初の日本大会(成田市)だった2019年も優勝し、5個目の金メダルを獲得した。この間、50kgの日本記録と45kgの世界記録。そして非公認ながら、60kgを挙げることに成功している。
1万人近い死者を出した横浜大空襲を経験
奥村さんには、競技前にこぶしで胸を3回叩くというルーティンがある。
1回目は亡き両親、2回目は肇さんと息子の由多加さん、そして3回目には李コーチや工藤薬剤師など、自分を支えてくれている人への感謝が込められている。
何げない所作でありながらその後の競技の優劣を左右する、競技者にとり重要な仕草がルーティンだという。
そして、胸を叩くたびに、奥村さんは肇さんからの“俺のことはいいからやれ”という言葉を思い出す。
悲しい顔だけが、亡き人への思いを表すものではない。思いの表現は人それぞれ。こうした表し方もまた、あるのだ──。
90歳にしてこの元気、この気っ風のよさを誇る奥村さんは、1930年7月7日、七夕の日に生まれ、神奈川県横浜市の観光名所としても名高い外国人墓地のすぐ近くで、母方の祖父祖母と母親のもと育ったという。
「勉強なんてしたことない子でしたよ(笑)。男の子と一緒になって木登りしたりね。父は日本ビクターに勤めていてね、今で言うアフター5にピストン堀口(往年の名ボクサー)のジムに行ってました。
だから筋肉質の素晴らしい身体をしていて、真っ先に戦争に引っ張られた。ずうーっと戦争でしたから、父と一緒に暮らしていましたけど、父親の愛って私、知らないんですよ」
1万人近い死者を出したとされる1945年5月29日の横浜大空襲も経験した。
「山手の一段下に家を借りていたんですけど、すごいですよ、下は火事でボウボウ、上からは焼夷弾が降ってくる。そのときに空襲にあって、私の友達が3人ぐらい亡くなっています、機銃掃射で。
それにもあわずにこうやって元気に過ごせたというのは感謝ですよ。
私は思うんですね、あのときも、神さまが生かしてくれたんだから、命ある限りがんばらなくちゃいけないって。だから私は雨の日は表に出ない。滑って転べばおしまいだから」
戦後の1954年には、24歳で山手警察に勤めていた人と1度目の結婚。離婚後の1967年、37歳で神奈川県座間にあったアメリカ陸軍の座間キャンプに職を求めた。
「座間キャンプの憲兵隊にいた野口さんという人がいて、“奥村さん、うちで欠員が出たんだけど来ないか?”と言われたんです。
私、即座に言いましたよ。“ダメだ”って。だって私の時代は英語を話すと国賊と言われていて、英語の“え”の字もわからなかったんだから」
だが野口さんは諦めない。数週間後、またやってきては、こう言って口説いてきたという。
「“やってみもしないでできないとはなんだ!?”と。“やってみて、努力してできなかったらできないと言え!”と。
私も負けず嫌いだから、その言葉が頭にきた。“よーし、そんなこと言うんならやってやろうじゃないか!”って」
「私に言わせると最高の人」夫との出会い
配属されたのは米軍兵たちとじかに接するカウンター。兵士たちから名前や階級、所属などを聞き出し乗っていた車や銃などを登録するのだ。
「それを聞きながらタイプを打っていくんです。英語できない、タイプ打てない状態でやるんですから3年、苦労しましたよ。毎晩見る夢は英語でしたね(笑)」
奥村さんの何事にも積極的に取り組んでいく姿勢はこのころから変わらない。
米兵に話しかけ、嫌でも会話をしなければならない状況に持ち込む。そのときの返答を覚えておき、後日応用することで英語を覚えていった。
当時、座間のキャンプは語学の昇給制度があり、合格すると基本給が10〜30%も加算された。座間に来て3年後、試験を受けたら見事、合格、基地内事務が英語でこなせるという『グレード3』を取得することができた。
「“人間、努力すればできるじゃないか”と思いましたね。このときの経験から私はやってもいないのに“できない”とは言わないようになったんです。とにかく、なんでも積極的にチャレンジしてみることにしました。
だから野口さんの“やってみなきゃわからないだろう”という言葉は、その後の私の人生に大きな影響を与えたひと言だったと言えますね」
街に『およげ!たいやきくん』が流れ、オリンピック女子体操でコマネチ選手が10点満点の演技を次々と繰り出していた1976年、奥村さん46歳の年、座間キャンプで働いていた奥村さんに、思いがけないことが起こった。
「人員整理があったの。もっと(座間での仕事を)やりたかったんですけどねえ……」
だが、これが「私に言わせると最高の人。ケンカもしたことない」と言わしめた、夫・肇さんとの出会いを生む。
知人が中古自動車の販売工場を始め、人員整理でヒマを持てあましていた奥村さんに“遊んでいるなら、働かないか?”と持ちかけたのだ。
中古車の販売には修理は欠かせない。知人の販売工場のすぐ前にあったのが、肇さんが経営していた板金塗装工場だったのだ。
「それで向こう(肇さん)が声をかけてきた。1年ぐらいは仕事の話ばかりでしたけど、でもまさか結婚までするとは考えていませんでしたね」
以来、前述したとおり、夫唱婦随ならぬ婦唱夫随(?)で、ケンカひとつしたこともないほど仲のよい夫婦としてやってきた。肇さんのリタイア後には、ゴルフ目的で伊豆の宇佐美に転居、仲間を交えてプレーしては、夫婦で楽しんだという。
だが、そんな相思相愛のスポーツ好き夫婦にも、人生の荒波は情け容赦なく襲ってくる。
母の認知症と遺骨になった娘
1988年、奥村さん58歳のときだった。
アメリカ企業『ハワードヒューズ社』に勤務、ドイツに転勤していたもう1人のわが子・由加理さんが急性白血病を発症したのだ。
「ドイツから電話があったの。“会いたい”って。それで軍用機で息子が学生として滞在していたアメリカのワシントンの陸軍病院だかに運ばれてきたんだけど、ちょうどそのときに、母が倒れちゃったのよ。
“どっちが大事か?”といえば、私としては子どものほうが大事だけど、母だって、私が見なきゃ誰が見るの? 今みたいに介護保険とかがなかったし。それでアメリカには行かなかった」
そんな事情で娘との最後の対面よりも母親を選ばざるをえなかった奥村さんに、認知症になったキノさんからの言葉が突き刺さる。
「相模原の病院に行くでしょ? 付き添っている人が“キノさん、娘さんが来たよ”と言うと、母は“私に娘はいない”って。それを聞いてみなさいよ、ショックですよ〜。そんな経験をしてるから、私は認知症にならないようにしている。3か月に1回の検査もしていて昨日も行ってきた」
最愛の娘・由加理さんは、学生として現地にいた息子・由多加さんのもと、アメリカで荼毘(だび)に付され、遺骨となって奥村さんと肇さんのもとに帰ってきた。享年33。
「泣いたかって? 私、泣かなかったですよ。亡くなったものを引き戻せるわけじゃないし。これが命、神さまが運命をそう書いたんだからしょうがないじゃないですか。
人生ってそんなもんじゃないですか? なるようにしかならない。だから泣かないですよ、私」
気丈にそう語る奥村さん。だが最後に、小声でこうつけ加えたのを確かに聞いた。
「まあ、陰では泣いているかもしれないけれど……」
さて、11月21〜22日に行われる全日本ベンチプレス選手権大会まであと1か月ほど。世界選手権に出場し、6つ目の金メダルを獲得するには、この大会で優勝することが条件だ。パワーリフティングでは100gの体重の増減が記録を左右してしまう。それだけに、奥村さんも健康管理には余念がない。
朝は4時半に起床。愛飲のマカダミアナッツコーヒーを淹れて肇さんの遺影に供えたら、ゆっくりと新聞に目を通し、6時半に朝食。昼食は14時にとり、夜は牛乳にお取り寄せで手に入れるハチミツを入れて飲む。内臓を休ませるためだ。工藤薬剤師が言う。
「ご飯もグラム単位で量って食べています。年とともに胃も小さくなっていますから、入る量が決まってしまっている。入る量を変えずに効率よく栄養をとらなければいけないからです」
「人生100年時代、私はやる!」
節制はするものの、好きなものを楽しむときは楽しむのもまた、奥村流。
「お酒、飲みますよ〜(笑)。ワインだと1人で1本飲んじゃうの。1人で飲みながら、“あの人、どうしているかなあ。楽しかったなあ”って。走馬燈のようにストーリーが浮かんでくるの(笑)」
トレーニング方法も前述どおり、“やるときはやる”週に2日の集中型。前出・李コーチによれば、奥村さんの最近のトレーニングは、こんな具合だ。
「試合の直前なので、試合の練習に切り替わっています。
試合が近づくとテクニック的なことも忘れずにやってほしいので、今は主にベンチプレス中心です。それだとすぐにほかの部位が衰えますので、補助的にマシントレーニングをしている感じです」
ケガをしないことを第一に、練習は試合前もそうでないときも週2回と李コーチ。世界記録は魅力だが、年齢を考えれば、無理な練習で身体をこわしてはなにもならないからだ。工藤薬剤師がこんなふうに言う。
「私は奥村さんは世界記録を伸ばしていける人だと思っています。45kgの世界記録を持っていて、1〜2年前までは60kgが挙がっていたんですから。でも、周りの方々からは(奥村さんは)ウエイトリフターとして生きた世界記録ですから、“あんたは1日でも長くやることが大事だ”と言われる。そうすると無理しないわけです。でも世界記録を出すには、無理をしないわけにはいかない。
だから奥村さんが“よし、やってやる!”と思えば世界記録が挙がると思いますし、モチベーションのシフトを“1日でも長くやり続ける”にすれば、そちらになると思います。(世界記録実現は)その兼ね合いですね」
当の奥村さんはといえば、「昨日も私の応援団長が“今度はどれくらいを狙うの?”って聞くから、私が“(コロナで練習していないから)40kgがやっとですね”と言うと、“そんなことでどうする! 42・5kgを狙え”って。だから私、“はいっ!”って(笑)」と力みがない。
本来、こうした取材を受けるのは本意ではなく、当初は嫌がっていたと工藤薬剤師。だが今は、自分がメディアに出ることで高齢者の励みになりたいと願っている。
「私より10も20も年下の人が、杖をついて病院通いをして……。私、思うのよ、年をとるのは避けられないけど、“気持ちまで年をとる必要はない!”って」
アスリート・奥村正子90歳。気持ちはおそらく、われわれの誰より若い。
その気持ちで、今年の世界選手権も、世界の頂点・金メダルを狙う──!
取材・文/千羽ひとみ
せんば・ひとみ ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(ともに共著)