世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第4回:加地亮(後編)

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 1999年4月末、U−20日本代表はワールドユース準優勝という結果を引っ提げて凱旋帰国した。

 同代表メンバーとしてナイジェリアの地で奮闘した加地亮(かじ・あきら)は、その経験を踏まえて、さらなる成長を図るため、自身の担当エージェントに「海外へ移籍したい」と申し出た。


ワールドユースで「世界」を知った加地亮は海外への移籍を考えたが...。photo by Yanagawa Go

 エージェントは、加地の訴えにこう答えた。

「おまえ、アホか」

 それは、痛烈なひと言だった。

 1999年4月時点において欧州でプレーしていた日本人は、カズこと三浦知良と、中田英寿のふたりだけ。カズは日本人プロサッカー選手の第一人者でもあり、1994−1995シーズンにはイタリアのジェノアでプレーし、その当時はクロアチアのディナモ・ザグレブに在籍していた。

 中田は日本が初のW杯出場を果たした前年のフランス大会で、代表チームのエースとして君臨。その後、1998−1999シーズンにイタリアのペルージャに移籍して、開幕戦のユベントス戦で2ゴールを挙げる鮮烈デビューを飾った。

 当時、日本人が海外に挑むには、中田のレベルが求められ、日本を代表するトッププレーヤーに限られていた。そのレベルの選手にしかチャンスは与えられず、ワールドユースでベスト11に選出された小野伸二や本山雅志でも困難な状況にあった。

 そんななか、Jリーグの所属クラブ(当時セレッソ大阪)でレギュラーでもなく、ワールドユースでも控え組だった加地が、同世代の小野らはもちろん、日本代表で活躍する選手たちを差し置いて海外に行くのは、夢物語でしかなかった。

 そういう意味では、エージェントの回答は至極まっとうなものだった。

「エージェントに『何を考えてんねん』と言われて、その翌年(2000年)にはJ2の大分トリニータに移籍した。

 当時、若手育成に定評がある石崎(信弘)さんが、大分の監督だったんですよ。(石崎監督には)めっちゃしごかれたけど、それがよかった。自分は体がまだ弱くて、プロで戦える土台ができていなかったんでね。ここであかんかったら『(プロとして)終わりや』という気持ちでやっていた」

 ちょうどその頃、ワールドユースでともに戦った仲間たちは、そのままシドニー五輪出場を目指す代表チームに選出され、高原直泰や稲本潤一をはじめ、加地とポジションを争った酒井友之らは本番の2000年シドニー五輪にも出場し、日本サッカー界のメインストリートを突き進んでいた。

「俺は、五輪とかは考えてへんかったね、その頃は。だから、イナ(稲本)とか酒井ら同世代がシドニー五輪で活躍しても、別になんとも思わへんかった。だいたい俺は、U−20代表で一番ヘタくそやったし、大会に入っても試合に出られるとは思ってへんかった。

 そんな状態で五輪のメンバーに入っても、最後は『落ちるやろ』って思っていたからね。だから(当時は)、五輪に出たいとかそういう思いはなく、『自分がこうなりたい』というものを追い求めていた」

 加地は当時、どうなりたいと思っていたのか。

「(自らのポジションである)サイドで求められるもん、すべてを得たいと思っていた。得点やアシストに絡む攻撃、個で負けない守備、90分間落ちない体力……そのうえで、戦術理解度が高い選手になりたいと思っていた。だから(当時は)やることがいっぱいありすぎて、代表レベルには『まだまだ到達せえへん』って自覚してやっていた」

 加地は大分で2年間プレーしたあと、2002年にFC東京へ完全移籍した。

 FC東京でレギュラーの座を確保すると、2002年日韓共催W杯のあとに日本代表の指揮官となったジーコ監督に見出された。2006年ドイツW杯のメンバー入りを果たし、加地は日本代表の不動の右サイドバックへと成長していった。

「最初は『えッ代表?』って感じやったね。正直、なんで俺がW杯メンバーに選ばれたのかなって思っていたし、俺が代表に入るのはおかしいって、ずっと思っていた。

 だから、ドイツにもホンマは行きたくなかった。『W杯に出たい』とも思わへんかった。カズさんみたいなスター選手になりたいと思って、カズさんのポスターを自分の部屋に貼っていたけど、夢は日本代表になることでもなく、W杯に出ることでもなかった」

 では、加地は何を求めていたのだろうか。

「興味があるのは、自分の目標だけやった。毎年、自分の目標を立てて、今日の練習、今日の試合で何がやれて、何ができなかったのかを明確にし、身近な目標をクリアしていく。それが一番大事やったし、人間形成に重きを置いていた。

 デカイ目標とか、叶うかどうかわからない目標を持ってやっていてもしゃ〜ない。だいたい一日を充実して過ごせんヤツが、大きな目標を達成できるわけがない。自分は着実に成長していくタイプやった」

 加地にとって「うまくなりたい」ということは、必ずしも”代表でプレーする”こととイコールではなかった。

 だが、そんな加地にも代表でプレーして、一度だけ「やれた」手応えを感じ、大きな収穫を得た試合があったという。2003年10月、日本代表のデビュー戦となったチュニジア戦である。

「この試合は1−0で勝ったんやけど、結構納得のいくプレーができた。周囲の選手との組み合わせとか、自分の役割をしっかりと果たせた。日本代表として戦うなかで、今の自分が他の国と戦ったときにどうなるんかっていう、その基準になった」

 それでも、自らの目標のために練習をこなし、プレーをしていた加地には、代表での活動を次第に負担に感じるようになった。そして、いろいろと考えた結果、加地は2008年5月に日本代表引退を表明した。

 当時、その理由をはっきりと説明することがなかったので、巷ではさまざまな噂話が流れた。なかでも主流となったのは、イビツァ・オシム監督から岡田武史監督に代わって、ポジションを左サイドに回されたことが不満だったのではないか、という説だった。

「その報道を聞いた時、『俺は(わがままな)子どもちゃうぞ!』って言いたかったね。ドイツW杯が終わって燃え尽きたわけじゃないけど、オシムさんが監督になって、代表と(当時所属の)ガンバ大阪と行き来するのが、ホンマにしんどくなった。こんな気持ちのまま代表でやっていくのは『どうなんやろう』って、ドイツW杯が終わってから2年間、ずっと考えていた。

 それで、2008年にはケガもあってホンマにしんどくて、このままW杯予選が始まってからやめるのはまずいし、代表に新しく入った内田(篤人)もやれていたから、岡田さんに監督も代わって、ここがちょうどいいタイミングちゃうかなって思って」

 代表引退を決めた加地は、ガンバでのプレーに集中した。2008年にはAFCチャンピオンズリーグを制するなど、数々のタイトル獲得に貢献した。

 その後、2014年のシーズン途中にアメリカのメジャーリーグサッカー、チーヴァスに移籍した。翌2015年には再び日本に戻って、J2のファジアーノ岡山に加入して奮闘するも、2017年11月、もう1年契約を残しながら、現役引退を決めた。

 その決断を下したのは、自分のすべてをサッカーに捧げるには相当なパワーが必要だが、それが体力的にも、メンタル的にも難しい、と感じたからである。何事も全力で取り組んできた加地にとって、中途半端にプレーすることは納得できなかったのだ。



「黄金世代」について語る加地

 今、加地は『CAZI CAFE』を経営しながら、テレビの解説を務めたり、サッカースクールで子どもたちを指導するなど、新たな道を歩み始めている。スクールでは子どもたちの親が加地のことをよく知っていて、「黄金世代ですよね」と声をかけてくれるという。

「黄金世代って、わかりやすいよね。子どもたちにも『伸二やイナがいたんやで』とか、『(自分も)黄金世代なんやで』っていうと、”おぉ〜そうなんだ”って(反応に)なるもん。『黄金世代』と呼ばれるのは今も恥ずかしいけど、悪い気はしない。普通に、その世代ですよって(自分では)受け止めている」

 その『黄金世代』は、加地の目にはどう見えていたのだろう。

「正直、よぉあんなにすごいヤツらが(同じ世代に)そろったな、という感じ。みんな、技術が高いし、才能があった。俺がそこにいたら、恥ずかしいというレベルやったもん。ナイジェリアの時も試合は楽しめへんかった。みんながうますぎて、『(自分が)ここにいてええの?』って思ったし、ピッチに入ったら余計なことせんと、自分の役割を果たすことに集中していたもんね。

 しかも、みんな自立していて、自分の考えをしっかり持っている選手ばかりやった。若いのに珍しいですよ。みんな、(精神的には)オッサンやったね」

 加地はそう言って笑った。

 引退前には「ようやく同世代のみんなと”一緒にやれるな”というレベルになれた」と言う加地。それは、自らが底辺だからという危機感と、地道に長くプレーすることを目標にして、努力を積み重ねてきたからこその境地だった。

(おわり)

加地 亮
かじ・あきら/1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。現役時代は日本代表でも活躍した右サイドバック。滝川第二高→セレッソ大阪→大分トリニータ→FC東京→ガンバ大阪→チーヴァス(アメリカ)→ファジアーノ岡山