96年のナショナルトレセンU-17ではMVPを受賞。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせた。(C)SOCCER DIGEST

写真拡大 (全3枚)

[週刊サッカーダイジェスト・2001年8月8日号にて掲載。以下、加筆・修正]
 
 16歳の稲本潤一を襲った、身体の異変。クラムジィ、またはオズクットと称される。骨と筋肉の成長バランスが取れなくなり、彼は本来のパフォーマンスを維持できない時期に差しかかっていたのだ。
 
 上野山信行はこの事実に気づいていた。ボランチをやらせていては自信を喪失させるだけであると。そこで、一時的な右サイドバックへのコンバートが、エクアドルでU-17世界選手権を戦う潤一にも適応された。潤一は「納得のいくポジションやなかった」と振り返るが、上野山はあえてその症状に説明は加えなかったという。むしろ不慣れなポジションでどれだけの内容を披露できるのか、そして世界大会でなにを掴みとってくるかに、大きな期待を寄せていたのだ。
 
 効果はてきめんだった。精神的に磨かれた潤一は、帰国後、より積極的な姿勢でトレーニングに励む。高1の秋にはボランチに復帰し、迎えたナショナルトレセンU-17で、全国の精鋭たちを圧倒する総合力を見せつけたのだった。
 
 ボランチでの継続的な育成に、まだ若干の迷いがあった上野山は、当時の日本協会のユース部門の強化担当であった田嶋幸三から、「日本を代表するボランチになれる」と太鼓判を押されたという。
 
 高2になろうとしていた潤一が、肉体的にも技術的にも大きな飛躍を遂げたのはこの頃だった。仔細に渡るスキルアップ、潤一は上野山の猛特訓に死に物狂いで食らいついていった。
 
 とはいえ上野山にしてみれば、潤一だけを特別扱いするわけにはいかない。よってチーム練習とは別の時間、居残りという形で個人レッスンは続けられた。
 
 主に重点が置かれたのはボールをもらう角度と、逆サイドへ展開するロングキックの精度だった。とくに潤一のキックは長い距離は蹴れるが、まだまだ内側に曲がる傾向が強かった。上野山はまっすぐな弾道を要求し、一日に百本近くを蹴らせたこともあったという。
 
 ボールを受けてからの素早い振りと展開力。「つねに世界を目ざせ。これからのボランチは攻撃面での仕事もできんと話にならんぞ」とハッパをかけられ、潤一は単調ながらも目に見える成果を体感し、トライすることの重要性を学んでいくこととなった。
 
 夏には短期的にトップチームのトレーニングにも参加し始め、プレシーズン・マッチのニューカッスル・ユナイテッド戦ではわずかな時間ながらプロのレベルを初体験した。出場してのファーストタッチがオーバーヘッドキックで、その後すぐさまタッチラインで水を飲んだ。なんともふてぶてしい。
 
「アイツならこのままやっていける」
 
 上野山は思わず、涙をこぼしたという。
 
 だが潤一にとっての本当の転機は、秒読み段階となっていたJリーグ・デビューの直前に起こった。トップ合流を告げられた潤一は、吹田からさらに北の京都府田辺市まで通わなければならなくなったのだ。うまく電車がつながっても2時間半の距離だ。
 
 母の幸子はまだ、息子がプロになるなど考えてもいなかったし、地元の公立高校を卒業してほしいと願っていた。が、上野山は茨木にある通信制の高校への転校を薦めたのである。上野山は幸子を説得し、あとは潤一の判断を待つばかりとなった。
 
 そして彼は、決意を固める。
 
「それは、寂しかったですよ。サッカーをする環境は別で、昔から仲のいい地元の友達との時間も大事にしながら、一緒に卒業したいと思ってましたから。でも結果的に、もっと巧くなりたいという気持ちのほうが強かった。犠牲にしなきゃいけないことやし、プロを目ざす以上、ふたつをいっぺんにできるわけはないんですから」