全日移籍で覚醒したスティーブ・ウイリアムス、流浪のプロレスラー人生「週刊プロレス アルバムシリーズ」
かつて、プロレスファンの間には「全日派」と「新日派」という住み分けがあり、思い返すと筆者は全日派だった。天龍同盟がジャンボ鶴田や輪島大士らを相手に過激でスケールの大きいファイトを仕掛ける“天龍革命”の虜となり、それを契機にプロレスというジャンルに惹かれていったことを覚えている。
その後の全日本プロレスは、天龍がSWS旗揚げのために離脱。ジャンボ鶴田もB型肝炎を発症して第一線から離脱。この危機を救うべく躍進したのは、一世代下にあたる三沢、川田、田上、小橋らであった。いわゆる「四天王プロレス」の確立だ。
あくまで嗜好の違いだが、筆者はこの頃から全日本プロレスと距離を置くようになってしまった。たしかに4人が作り上げたスタイルは究極の域にあり、クオリティとして前人未到。しかしあのガラパゴス化した風景と空気感が、不思議と肌に合わなかったのかもしれない。
そんなこの時期の全日マットの中にも、強烈に記憶に残るシングルマッチが一つだけある。1993年8月31日に行われた「スティーブ・ウイリアムスvs小橋健太」の一戦。この頃から、ウイリアムスは長らく封印していた“デンジャラスバックドロップ”を遂に解禁。「相手によってバックドロップの落とす角度を変える」とはジャンボ鶴田による発言だが、ウイリアムスにも同様の思いはあったのだろう。新日〜全日〜WJ〜IWAジャパンと日本マット界を渡り歩くなか、この時以上の急角度を見せたことはない。試合後に「コバシは一番のライバルだ」とコメントするウイリアムス、そして抱擁し合う二人の姿は24年後の今でも忘れられない。
現在発売中『週刊プロレス』(6月14日号)の「週刊プロレス アルバムシリーズ」で、スティーブ・ウイリアムスが特集されている。
どうしても全日時代の印象が強いウイリアムスだが、日本マット初登場は新日本プロレスだった。当時から、スティーブ・ウイリアムスが強いのは誰が見ても明らか。しかし、この時代のウイリアムスにはくすぶっていた印象がある。
新日時代、彼は汚点を残している。1986年10月13日のvsアントニオ猪木戦。序盤、猪木をロープに振ったウイリアムス。勢い良く戻ってきた猪木にスパインバスターを仕掛けた。レフェリーがマットを叩きカウントが進んでいくが、猪木は動けない。へばってしまったのだ。すると、カウント2.5くらいのタイミングでウイリアムスはフォールの体勢を解き、片手で猪木を抱き起こした。これがどうにもヘタクソだった。この日は全国ネットの放送がされていたのに、そんな状況下で敵に情をかけられる猪木の姿がモロに晒されてしまったのだ。
そして1990年、ウイリアムスは全日へ移籍する。馬場―坂口のトップ会談によって、円満トレードが実現したのだ。日本マット界では前例のないことだ。プロレスライターの流智美氏によるインタビュー(別冊宝島「プロレス世紀末読本」)で、ウイリアムスは全日を選んだ理由を明かしている。
「ギャラであるとか、シリーズとシリーズの間には(アメリカの)インディペンデントの試合でパートタイムをしていいかどうか……とか、それらはオール・ジャパンの場合、全てババに話すことになっている。実際、オール・ジャパンで一番イングリッシュがうまいのはババだし、システム的にはスッキリしている」
「ニュー・ジャパンは項目ごとに話す人間が全部違う。オレとしてはイノキ一人と話がつけられれば一番簡単なのだが、実際にギャラをイノキと交渉したことは一度もなく、マサ(斎藤)、タイガー(服部)、チョーシュー、サカグチの四人が交互に出てくる。とにかく使われる側としては非常に混乱するんだな」
「ニュー・ジャパンの仲間は人間的にもナイスガイが多いし、ギャラにしたって一流の扱いをしてくれたけど、オール・ジャパンを選んだ理由を挙げろと言われたら、このシステムの違いだけさ」
本人にとってはなんてことのない決断だったかもしれないが、この選択がウイリアムスに幸運をもたらした。全日に初参戦したのは2月21日で、その約2週間後にあたる3月6日にテリー・ゴディとのタッグで世界タッグ王者に就いたのだ。この時に下した王者チームは、天龍源一郎&スタン・ハンセン組である。
「殺人魚雷コンビ」なる異名をとったゴディとのタッグは、全日マットを文字通りに席巻。この年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では、いきなり初優勝に輝いた。そして、その後も殺人魚雷コンビの勢いは止まらず。91年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」でも優勝を果たし、同リーグ戦を連覇する史上初のコンビとなった。
今回のプロレスアルバムにて、当時の全日本プロレス担当記者であった市瀬英俊氏はコラムを寄稿。和田京平レフェリーによるこんな発言を紹介している。
「90年に超世代軍が動き出したころ、外国人レスラーはみんな、あんなのプロレスじゃねえっていうような見方をしていたんじゃないかな。誰も仲間に入りたいと思わなかっただろうし、やりたいとも思わなかっただろうし。こんなもんやったらケガするって。でも、最終的には認めざるを得なくなった。そうしたらゴディやウイリアムスは『オレたちを仲間に入れろ!』って」
この姿勢が実を結び、「スティーブ・ウイリアムス」の名前は全日本プロレス史に刻まれることとなった。
しかしウイリアムス、シングルプレイヤーとしてはなかなか一人立ちできなかった。90年にスタン・ハンセン、91年にはジャンボ鶴田が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するも、失敗に終わったのだ。
そして93年に入ると、「四天王時代」の扉が開く。
ウイリアムスにとって3度目の三冠ヘビー級王座挑戦時、王者として立ちはだかったのは三沢光晴であった。この時、当初の予定としては挑戦者としてゴディが選ばれていたのだが、内臓疾患で長期欠場に。前述の豊橋における小橋戦は「三冠挑戦者決定戦」と銘打たれており、その一戦で勝利したウイリアムスが盟友の無念を胸に挑んだタイトルマッチがこの試合なのだ。しかし、この時もウイリアムスは敗北。王座を手にすることができなかった。
だが、ようやく結果を出す。1994年7月28日、7連続防衛という偉業を継続中の三沢を破って遂に三冠初戴冠を果たした。
今回のプロレスアルバムでインタビューを受けた川田利明は、ウイリアムスについてこう語っている。
「最初はゴディと組んでたでしょ。でも、少ししたらゴディが体をおかしくしちゃった。たぶんゴディと組んでたら、ずっとゴディの下だったと思うよ。ゴディはあの体で器用だったからね。(あのまま二人で組んでいたら)こういうふうになってないと思うよ」
また、小橋はウイリアムスとの関係性について以下のように語っている。
「年も上だし新日本のトップ外国人だったけど、やり合ってるうちにそんな感じはしなくなってた。『外国人四天王』(ハンセン、ゴディ、ウイリアムス、スパイビー)と言われてたなかでも一番近い存在。同期という感じかな。(「ライバル」という表現が一番ふさわしい? という質問に)そうだろうね」
ここで今一度、流智美氏のインタビュー(「続おそろしいほどプロレスがわかる本」/白夜書房)を引用したい。91年のウイリアムスの発言だ。
「俺はアメリカに帰ればWCWやUWF(当時、エイ・ブラハムなる金持ちが主宰していた独立派)に出場しているが、ホーム・リングはオール・ジャパン一本だと思っているし、ゆくゆくはオール・ジャパン一本に絞りたいと思っている」
「俺がババに信頼を寄せているのは、ババのデストロイヤーに対する扱いを見ているからだ。ババに忠誠を誓えば、デストロイヤーのように60歳を超えても呼んでくれるじゃないか。こんなプロモーターはいないぜ! 俺もスタン(ハンセン)もテリー(ゴディ)も、いや誰だってババに使ってもらっているレスラーは同じことを考えていると思うよ」
この時、ウイリアムスがプロモーター・馬場に対して抱いていた感情は、かつての日本のサラリーマンが会社に抱いていた“終身雇用”のイメージと寸分違わない。
しかし、その後の全日本プロレスは流転した。馬場はこの世を去り、替わって社長を務めた三沢は全日と決別して新団体「NOAH」を旗揚げ。続いて全日を仕切ったのは新日から移籍してきた武藤敬司であったが、結果的に武藤体制はウイリアムスをリリースした。
WJを経て2003年からはIWAジャパンが主戦場となったウイリアムスであったが、2004年に喉頭ガンが発覚。この時の状況を語るウイリアムス本人のインタビュー(『週刊プロレス』2007年4月4日号)が、今回のプロレスアルバムに再録されている。
「ちょうど日本にいる時に、父から電話で(喉頭ガンであると)聞かされた。とてもショックだったよ。その日(2004年3月14日)はK-1でのファイトがあったんだけど、ガンのことを言い出せないままリングに向かう時間になってしまった。とても試合に臨める気持ちじゃなかった」
この日、MMAルールでアレクセイ・イグナショフと対戦したウイリアムスは、何もできずにイグナショフに完敗。期待とは裏腹にリング上で為す術もなかったウイリアムスの姿にはショックを受けたが、実情としてはとてもリングに立てる精神状態ではなかったのだ。
その後のウイリアムスは声帯の全摘出手術を受け、病魔と戦いながら2005年8月に米国でリング復帰。2009年10月25日にはIWAジャパンで引退試合が予定されていたが、ガン再発で引退試合は延期となった。
「あのとき花束持って行こうと思ってたんだよ。ウイリアムスも全日本とNOAHに別れていろいろあったけど、同じガンで苦しんで、ライバルとしてとことんやり合った人間が引退するんだから、やっぱり花束を渡したかった」(小橋)
そして2009年12月29日、復帰の願いが叶わぬままスティーブ・ウイリアムスはコロラド州デンバーのセントアンソニー・セントラル病院で死去する。49歳の若さだった。
(寺西ジャジューカ)
その後の全日本プロレスは、天龍がSWS旗揚げのために離脱。ジャンボ鶴田もB型肝炎を発症して第一線から離脱。この危機を救うべく躍進したのは、一世代下にあたる三沢、川田、田上、小橋らであった。いわゆる「四天王プロレス」の確立だ。
そんなこの時期の全日マットの中にも、強烈に記憶に残るシングルマッチが一つだけある。1993年8月31日に行われた「スティーブ・ウイリアムスvs小橋健太」の一戦。この頃から、ウイリアムスは長らく封印していた“デンジャラスバックドロップ”を遂に解禁。「相手によってバックドロップの落とす角度を変える」とはジャンボ鶴田による発言だが、ウイリアムスにも同様の思いはあったのだろう。新日〜全日〜WJ〜IWAジャパンと日本マット界を渡り歩くなか、この時以上の急角度を見せたことはない。試合後に「コバシは一番のライバルだ」とコメントするウイリアムス、そして抱擁し合う二人の姿は24年後の今でも忘れられない。
スティーブ・ウイリアムスが全日マットを選んだ理由
現在発売中『週刊プロレス』(6月14日号)の「週刊プロレス アルバムシリーズ」で、スティーブ・ウイリアムスが特集されている。
どうしても全日時代の印象が強いウイリアムスだが、日本マット初登場は新日本プロレスだった。当時から、スティーブ・ウイリアムスが強いのは誰が見ても明らか。しかし、この時代のウイリアムスにはくすぶっていた印象がある。
新日時代、彼は汚点を残している。1986年10月13日のvsアントニオ猪木戦。序盤、猪木をロープに振ったウイリアムス。勢い良く戻ってきた猪木にスパインバスターを仕掛けた。レフェリーがマットを叩きカウントが進んでいくが、猪木は動けない。へばってしまったのだ。すると、カウント2.5くらいのタイミングでウイリアムスはフォールの体勢を解き、片手で猪木を抱き起こした。これがどうにもヘタクソだった。この日は全国ネットの放送がされていたのに、そんな状況下で敵に情をかけられる猪木の姿がモロに晒されてしまったのだ。
そして1990年、ウイリアムスは全日へ移籍する。馬場―坂口のトップ会談によって、円満トレードが実現したのだ。日本マット界では前例のないことだ。プロレスライターの流智美氏によるインタビュー(別冊宝島「プロレス世紀末読本」)で、ウイリアムスは全日を選んだ理由を明かしている。
「ギャラであるとか、シリーズとシリーズの間には(アメリカの)インディペンデントの試合でパートタイムをしていいかどうか……とか、それらはオール・ジャパンの場合、全てババに話すことになっている。実際、オール・ジャパンで一番イングリッシュがうまいのはババだし、システム的にはスッキリしている」
「ニュー・ジャパンは項目ごとに話す人間が全部違う。オレとしてはイノキ一人と話がつけられれば一番簡単なのだが、実際にギャラをイノキと交渉したことは一度もなく、マサ(斎藤)、タイガー(服部)、チョーシュー、サカグチの四人が交互に出てくる。とにかく使われる側としては非常に混乱するんだな」
「ニュー・ジャパンの仲間は人間的にもナイスガイが多いし、ギャラにしたって一流の扱いをしてくれたけど、オール・ジャパンを選んだ理由を挙げろと言われたら、このシステムの違いだけさ」
テリー・ゴディとの「殺人魚雷コンビ」が全日マットを席巻
本人にとってはなんてことのない決断だったかもしれないが、この選択がウイリアムスに幸運をもたらした。全日に初参戦したのは2月21日で、その約2週間後にあたる3月6日にテリー・ゴディとのタッグで世界タッグ王者に就いたのだ。この時に下した王者チームは、天龍源一郎&スタン・ハンセン組である。
「殺人魚雷コンビ」なる異名をとったゴディとのタッグは、全日マットを文字通りに席巻。この年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では、いきなり初優勝に輝いた。そして、その後も殺人魚雷コンビの勢いは止まらず。91年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」でも優勝を果たし、同リーグ戦を連覇する史上初のコンビとなった。
今回のプロレスアルバムにて、当時の全日本プロレス担当記者であった市瀬英俊氏はコラムを寄稿。和田京平レフェリーによるこんな発言を紹介している。
「90年に超世代軍が動き出したころ、外国人レスラーはみんな、あんなのプロレスじゃねえっていうような見方をしていたんじゃないかな。誰も仲間に入りたいと思わなかっただろうし、やりたいとも思わなかっただろうし。こんなもんやったらケガするって。でも、最終的には認めざるを得なくなった。そうしたらゴディやウイリアムスは『オレたちを仲間に入れろ!』って」
この姿勢が実を結び、「スティーブ・ウイリアムス」の名前は全日本プロレス史に刻まれることとなった。
ゴディと組んだままだったら、ずっとゴディの下だった
しかしウイリアムス、シングルプレイヤーとしてはなかなか一人立ちできなかった。90年にスタン・ハンセン、91年にはジャンボ鶴田が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するも、失敗に終わったのだ。
そして93年に入ると、「四天王時代」の扉が開く。
ウイリアムスにとって3度目の三冠ヘビー級王座挑戦時、王者として立ちはだかったのは三沢光晴であった。この時、当初の予定としては挑戦者としてゴディが選ばれていたのだが、内臓疾患で長期欠場に。前述の豊橋における小橋戦は「三冠挑戦者決定戦」と銘打たれており、その一戦で勝利したウイリアムスが盟友の無念を胸に挑んだタイトルマッチがこの試合なのだ。しかし、この時もウイリアムスは敗北。王座を手にすることができなかった。
だが、ようやく結果を出す。1994年7月28日、7連続防衛という偉業を継続中の三沢を破って遂に三冠初戴冠を果たした。
今回のプロレスアルバムでインタビューを受けた川田利明は、ウイリアムスについてこう語っている。
「最初はゴディと組んでたでしょ。でも、少ししたらゴディが体をおかしくしちゃった。たぶんゴディと組んでたら、ずっとゴディの下だったと思うよ。ゴディはあの体で器用だったからね。(あのまま二人で組んでいたら)こういうふうになってないと思うよ」
また、小橋はウイリアムスとの関係性について以下のように語っている。
「年も上だし新日本のトップ外国人だったけど、やり合ってるうちにそんな感じはしなくなってた。『外国人四天王』(ハンセン、ゴディ、ウイリアムス、スパイビー)と言われてたなかでも一番近い存在。同期という感じかな。(「ライバル」という表現が一番ふさわしい? という質問に)そうだろうね」
ジャイアント馬場に忠誠を誓うも、流浪を余儀なくされる
ここで今一度、流智美氏のインタビュー(「続おそろしいほどプロレスがわかる本」/白夜書房)を引用したい。91年のウイリアムスの発言だ。
「俺はアメリカに帰ればWCWやUWF(当時、エイ・ブラハムなる金持ちが主宰していた独立派)に出場しているが、ホーム・リングはオール・ジャパン一本だと思っているし、ゆくゆくはオール・ジャパン一本に絞りたいと思っている」
「俺がババに信頼を寄せているのは、ババのデストロイヤーに対する扱いを見ているからだ。ババに忠誠を誓えば、デストロイヤーのように60歳を超えても呼んでくれるじゃないか。こんなプロモーターはいないぜ! 俺もスタン(ハンセン)もテリー(ゴディ)も、いや誰だってババに使ってもらっているレスラーは同じことを考えていると思うよ」
この時、ウイリアムスがプロモーター・馬場に対して抱いていた感情は、かつての日本のサラリーマンが会社に抱いていた“終身雇用”のイメージと寸分違わない。
しかし、その後の全日本プロレスは流転した。馬場はこの世を去り、替わって社長を務めた三沢は全日と決別して新団体「NOAH」を旗揚げ。続いて全日を仕切ったのは新日から移籍してきた武藤敬司であったが、結果的に武藤体制はウイリアムスをリリースした。
WJを経て2003年からはIWAジャパンが主戦場となったウイリアムスであったが、2004年に喉頭ガンが発覚。この時の状況を語るウイリアムス本人のインタビュー(『週刊プロレス』2007年4月4日号)が、今回のプロレスアルバムに再録されている。
「ちょうど日本にいる時に、父から電話で(喉頭ガンであると)聞かされた。とてもショックだったよ。その日(2004年3月14日)はK-1でのファイトがあったんだけど、ガンのことを言い出せないままリングに向かう時間になってしまった。とても試合に臨める気持ちじゃなかった」
この日、MMAルールでアレクセイ・イグナショフと対戦したウイリアムスは、何もできずにイグナショフに完敗。期待とは裏腹にリング上で為す術もなかったウイリアムスの姿にはショックを受けたが、実情としてはとてもリングに立てる精神状態ではなかったのだ。
その後のウイリアムスは声帯の全摘出手術を受け、病魔と戦いながら2005年8月に米国でリング復帰。2009年10月25日にはIWAジャパンで引退試合が予定されていたが、ガン再発で引退試合は延期となった。
「あのとき花束持って行こうと思ってたんだよ。ウイリアムスも全日本とNOAHに別れていろいろあったけど、同じガンで苦しんで、ライバルとしてとことんやり合った人間が引退するんだから、やっぱり花束を渡したかった」(小橋)
そして2009年12月29日、復帰の願いが叶わぬままスティーブ・ウイリアムスはコロラド州デンバーのセントアンソニー・セントラル病院で死去する。49歳の若さだった。
(寺西ジャジューカ)