ゴン格休刊号「『1984年のUWF』を読むつもりはない。あの時代を知らない人間に馬鹿にされたくない」

写真拡大 (全2枚)

「ゴング格闘技」(以下、ゴン格)が、2017年6月号を最後に休刊してしまった。青天の霹靂だ。


ライバル誌の「格闘技通信」が2010年4月号を最後に休刊してからというもの、ゴン格の果たす役割は大きかった。単純に、雑誌として読み応えのある内容を維持していたと思う。(DJ.taikiへ“疲れが取れる入浴法”を取材した記事からは、編集者の試行錯誤が強烈に窺えた)
RIZINや巌流島、KNOCK OUTといった格闘技イベントが盛り上がりを見せ始めている今、ゴン格が存在するとしないではまるで違う。だからこそ、余計に青天の霹靂なのだ。

雑誌界において、「休刊」は即ち「廃刊」と捉えられがちだ。しかしゴン格は、2007年に休刊する(発行元の事業停止が理由)も2ヶ月後に復刊するという不死鳥ぶりを見せたことがある。
果たして、今回はどうか? 同誌で書評を連載している吉田豪氏は、「これまでにも何度か休刊しては復刊してきたので、また復刊したときはよろしくお願いします」と編集サイドから言われたとツイッターで明かしている。ならばその言葉を信じ、我々は気長に復刊を待つしかない。

「前田日明に話を聞きに行く格闘技雑誌は罪が深い」(柳澤氏)


ゴン格の歴史は長い。「別冊ゴング」が「ゴング格闘技」に改題し、大幅リニューアルして再出発を図ったのは1986年12月号。この時に表紙を務めたのは、当時人気絶頂であったUWFの前田日明である。

今、『1984年のUWF』が物議をかもしている、業界内外、選手、関係者、ファンを巻き込んで喧々諤々。
同書の作者である柳澤健氏は、ゴン格(2017年4月号)のロングインタビューに応えている。この時の特集のタイトルは「格闘技から見たUWF」だ。


『1984年のUWF』には
「あろうことか『格闘技通信』『ゴング格闘技』などの格闘技雑誌までもが、UWFを真剣勝負の格闘技と報じた」
という記述がある。

ゴン格のインタビューにて柳澤氏は、松山編集長とともに非常にスイングした内容のキャッチボールを見せている。
「そこには、『格闘技をやりたい』というのと『でもUWFをやらないと売れないよ』の両方の気持ちがあったはず。作ったからには売れなきゃならないから、僕も雑誌編集者として分かります」
「今のゴン格だって、松山体制(休刊時の同誌編集長は松山郷氏)になってからも前田日明に話を聞いてたでしょ」
「前田からすれば、格通やゴン格は、最初、新生UWFを扱うために作られたんだから“お前ら格闘技雑誌は俺のおかげで食ってきたのになに言うとんねん!”という憤りは絶対あると思いますよ。(中略)『でもごめんなさい、もううちは(フェイクを扱うことは)やらないです』って言うしかない」
「専門誌は、私みたいな周辺にいる人間(柳澤氏は、かつてNumberに在籍していた)よりも罪が深いと思うんですよ。格闘技雑誌なんだから」

「選手のために格闘技雑誌を無くしてはいけないと思っていた」(熊久保氏)


ゴン格休刊号に、「ゴング格闘技」3代目編集長の熊久保英幸氏が登場した。

熊久保氏はゴン格編集部に入った当時の格闘技界の状況を振り返っている。
「後になって、格通の朝岡君(5代目編集長の朝岡秀樹氏)がよく『真剣勝負だけで雑誌を作りたい』と言ってて、僕もそれは思ってました」
「92年に、ゴン格の表紙がジャンボ鶴田だったんです。それまでも、ゴン格の表紙といえば『猪木か前田か』だったんで、さすがに『もう格闘技だけで勝負しましょう』と言ったんですけど、『赤字になったら、お前、責任取れるのか?』と。世間では、格闘技といえばプロレスの時代ですから。それで考え方を変えたんです」
「当時の選手たちは格闘技雑誌に載ることがある種のステイタスであり、励みになっていたわけです。格闘技のため、選手のために格闘技雑誌を無くしてはいけないと思っていました」
「UWFに興味を持って、ゴン格を手にしたけど『ここにもっと面白い格闘家がいるよ』というのを同じ雑誌でやれば、こっちにも興味を持って貰えるかもしれない。だから、プロレスラーと格闘家の対談を組んだり。そうすることで『格闘家に興味を持って貰えたらいいな』と」

熊久保氏による吐露によって、当時の格闘技界の状況と、氏の心境の変遷が見事に浮かび上がってきた。

朝岡時代よりも前に存在した「NO FAKE」


格闘技側から「NO FAKE」を突きつけられたことは、熊久保氏も実際に経験済みだ。

熊久保氏は、元は熱心なプロレスファン。UWFを通過して格闘技にハマるという、当時の典型的なファンの一道筋を辿っている。今度は熊久保氏、一ファンだった時代を鮮明に振り返ってくれた。
「佐山(聡)さんは最初UWFに参加していなくて『無限大記念日』(84年7月)にザ・タイガーとして加わるんです。そこから急に格闘技路線が始まるんですけど、当時はテレビ東京で中継されていて、佐山さんが出てきて『UWFを見る時は、今までのプロレスは一切忘れてください。UWFは真剣勝負をお見せします』って言ったんですよ」
「佐山さんがUWFと分かれて、本格的にシューティング(修斗)を始めてから今度は『UWFはショーだ』と言い始めるんです(苦笑)。そこから本格的な論争が始まった。『プロレスか、格闘技か』で」

シューティングは「プロレスと一緒に載せるな」と、ついには格闘技専門誌に取材拒否を通告する。熊久保氏に「NO FAKE」を突き付けたのは、実は佐山聡だった。
「USA修斗との対抗戦があった時(93年)『面白そうだな』と思って行ってみたら、あっさり通されたんです。佐山さんに『取材拒否、どうなったんですか?』と聞いたら『僕、そんなこと言いましたっけ? すいませ〜ん!』って笑顔で言われました(苦笑)」

「格闘技人気を上げるため戦っていた時代を知らない人に馬鹿にされたくない」(熊久保氏)


格闘技界の黎明期に、マスコミとして関わってきた熊久保氏。悩み、苦しみ、試行錯誤を積み重ねる毎日を送っていたはずだ。そして、自らの道筋に後悔はない。
「僕もそうですけど、谷川さんも(フルコンの)山田さんも、格闘技がプロレスのように会場が満員になって、大会場で興行が出来て、テレビ中継されればいいな、と夢を見ながら頑張って格闘技雑誌を作っていたわけですよ」
「プロレスと全く関わらずに格闘技だけで雑誌を作るなんて無理だった。それが当時の状況です。今の人たちにはそれがどれだけ意外なことか分からないかもしれませんけど」
「僕らが格闘技雑誌存続のため、格闘技人気や知名度を上げるために戦っていたそういう時代を知らない人間に、馬鹿にされたくないですね」

それにしても「罪」とはまた、随分と浅はかな言いようである。
『1984年のUWF』に関して、熊久保氏は「読んでいないし、これからも読むつもりはない」と明言している。
(寺西ジャジューカ)