「カルテット」9話「裏切ってないよ。人を好きになることって絶対裏切らないから」今夜遂に最終回!辛い!
ついに今夜、最終回を迎えるドラマ『カルテット』。愛すべきカルテットドーナッツホールの面々とも今日でお別れ。そんなのさみしいに決まってるが、まずは先週放送の第9話を振り返っておこう。
真紀(松たか子)は早乙女真紀ではなかった……! このとんでもないサスペンス要素は、第9話の冒頭であっという間に解決する。
真紀の本名は山本彰子。富山市出身。10歳のときに母(坂本美雨)を事故で亡くし、母の再婚相手だった義父から日常的に暴力をふるわれていたが、彰子が母親死亡の賠償金2億円の受取人だったため、義父は彰子を手離さなかった。
音大を卒業した22歳のとき、戸籍をヤミ金に売った本物の早乙女真紀(篠原ゆき子)から300万円で戸籍を買って上京。その後、幹生(宮藤官九郎)と知り合って結婚する。彰子が上京したタイミングで義父が不審な死を遂げていたため、警察は彰子を疑っていたというわけだ。これが最後まで嘘のなかった真紀の大きな「嘘」である。
6話のラストで有朱(吉岡里帆)が死んだと見せかけて7話であっさり生きていた展開や、4話のラストで真紀と別府(松田龍平)がいるマンションに誰か来た! と思ったら5話の冒頭であっさり鏡子(もたいまさこ)だったと明かされた展開とよく似ている。真紀の事件にこれ以上大きな謎はないだろう。真紀が義父を殺していた事実が最終回で明かされることもないと思う。実は家森(高橋一生)が2億円をむしられた加害者家族じゃないかと推測する記事も目にしたが、それもない。
『カルテット』は登場人物たちの謎(嘘)をうまくストーリーと結びつけて推進力にしているが、けっしてそれが本筋ではない。さまざまな解釈や深読みが楽しいドラマではあるが、細かな謎解きに目を奪われすぎていると大切な部分を見逃すことになる。
余談だが、坂本美雨のインスタグラムにはCD「上り坂下り坂ま坂」のジャケ写撮影風景などオフショットがいくつか掲載されている。ちなみにCDのカップリングは「風の盆とわたし」。「風の盆」とは富山の有名な祭り「おわら風の盆」のこと。やっぱり『カルテット』は芸が細かい!(←自分も細かい部分に目を奪われっぱなし)
軽井沢のアウトレットモールで(見るだけの)ショッピングを楽しむ真紀とすずめ(満島ひかり)。行ったことのある人なら知っていると思うが、このアウトレットモールは円環状になっており、ワカサギ釣りの穴やカーリングの的と同じく“穴の空いたドーナッツ”だ。結局買い物はせず、日用品だけを買い込んだ2人はブランコで戯れる。
真紀「十分、十分、もう十分」
ブランコで揺られながら真紀がつぶやく言葉は、偽らざる彼女の心境だ。新しい洋服がなくても仲間たちとの楽しい日常があればもう十分――。幼い頃の思い出をすずめに語っているときも「もう十分」と繰り返す。彼女の過去を考えれば、そう思うのも当然だろう。しかし、ほかでもない彼女の過去が楽しい日常を脅かす。
別荘にやってきた刑事の大菅(大倉孝二)は、すずめの前で真紀の真実を告げる。大きな「嘘」が露見した真紀は、それまでの飄々とした態度が嘘のように卑屈さをにじませる。感情を爆発させたりせず、淡々とこれまでの経緯を話しているだけなのに、表情と態度だけで別人のように変わる松たか子の表現力に唸る。「本当の私は……」と言いかけ、涙を流し、言葉に詰まる。
すずめ「真紀さん、もういい。もう、いいいいいい。もういいよ。何にも言わなくていいよ」
すずめが真紀をまっすぐ見つめてかけた言葉は、3話で真紀にかけてもらった言葉へのお返しだ。家族に関する辛い過去があるのに、まだ家族のもとへ帰らなければいけないと葛藤するすずめに、真紀がまっすぐな目でかけた言葉は「いいよいいよ、みんなのところへ帰ろう」だった。
真紀「みんなに嘘……」
すずめ「どうでもいい。すっごくどうでもいい」
真紀「みんなを裏切って……」
すずめ「裏切ってないよ。人を好きになることって絶対裏切らないから」
真紀「……」
すずめ「知ってるよ。真紀さんがみんなのこと好きなことぐらい。絶対それは嘘のはずないよ。だって零れてたもん。人を好きになるって勝手に零れるものでしょ? 零れたものが嘘なわけないよ」
何が嘘で何が真実かとか、どうでもいい。お互いのことが好きだったり、道端で音楽を奏でたことが楽しかったりしたことが嘘じゃなければ大丈夫。
すずめ「真紀さんは奏者でしょ。音楽は戻らないよ。前に進むだけだよ。一緒。心が動いたら、前に進む。好きになったとき、人は過去から前に進む。私は真紀さんが好き」
真紀が「信じてほしい」と声を絞り出し、すずめが嬉しそうに「それ」と呟いたとき、途切れかけていたWi-Fiがつながった。8話は片思いの話だったが、9話は両思いの話だ。「全員片思いが全員両思いになった」とツイッターでつぶやいている人がいたが、まさにその通りだと思う。別府と家森は黙ったままハーブティーと暖炉で2人を暖め続けているのが心憎い。
大菅「たいがいの犯罪者は、自分を被害者だと思うところから始まりますけどね」
ドラマ論などを専門とする早稲田大学教員の岡室美奈子氏はツイッターで「このドラマのテーマって『それでも、生きていく』なんだなぁ」とつぶやいている。『それでも、生きてゆく』は脚本家、坂本裕二の代表作の一つ。子を殺された犯罪被害者の家族と社会的に殺された加害者の家族の交流を描いた作品だ。
加害者は自分のことを被害者だと思っている。被害者が加害者になることもある。両者の間にはとてつもなく深い断絶があるが、『それでも、生きてゆく』は両者をかかわらせ、前を向かせるドラマだった。被害者も加害者も辛い過去を水に流しておしまいというわけにはいかない。それでも前を向いて生きていくしかない。
家森「2種類ね、いるんだよね。人生やり直すスイッチがあったら、押す人間と、押さない人間。僕はね、もう……押しませーん」
このセリフの「もう」という部分がポイントだ。6000万円の宝くじを引きかえ損ない、茶馬子(高橋メアリージュン)との結婚に失敗した家森は、ずっと人生やり直すスイッチを押す気満々の人生を歩んできた。でも、「もう」押さないと決めた。軽井沢の別荘で仲間たちと出会えたからだ。いや、仲間たちと「嘘」や「辛い過去」を乗り越えてきたからだ。その推進力は、すずめの言うとおり「好き」の力なのだろう。
辛い気持ちを抱えて夜空を眺めていた少女の真紀は星を渡る船に乗って、同じように辛い気持ちを抱えてチェロを背負った子どものすずめは地下鉄に乗って、軽井沢にたどりついた。別府も家森もバンに乗り合わせて別荘までやってきた。「嘘」だった偶然が、「好き」という感情を経て「嘘」じゃなくなった。それはもう奇跡と言っていい。
「それでも、生きていく」とき、もう一つ大切なことがある。有朱役を演じた吉岡里帆がイベントで「サスペンスの定義を家に帰って調べてみてください!」と言ったのは先週書いたとおり。サスペンス(suspense)にはドラマのジャンルの語源となった「不安」という意味とともに「あやふや、どっちつかず、宙ぶらりん」という意味がある。
真紀もすずめも別府も家森も、物事に白黒つけたりしない。正義とか悪とか上とか下とか右とか左とか極端なことを言い出さない。あやふやでいいじゃない。どっちつかずでいいじゃない。
別府「飢え死に上等、孤独死上等じゃないですか。僕たちの名前はカルテットドーナッツホールですよ。穴がなかったらドーナッツじゃありません。僕はみなさんのちゃんとしてないところが好きなんです。たとえ世界中から責められたとしても、僕は全力でみんなを甘やかしますから」
視聴者の気持ちも一緒。僕たちはカルテットドーナッツホールを甘やかしたい。それと同じように、まわりにいる人も甘やかしてみたらどうだろう。それぞれの穴を楽しんでみたらどうだろう。そうでなくても厳しい世の中なんだから、好きな人ぐらい甘やかしたっていいじゃない。『カルテット』はそんなことを言っているドラマのような気がする。
いよいよ今夜10時からは最終回。物語は1年後に飛ぶのだという。『ドラゴンクエスト』のパーティのように進んできたカルテットドーナッツホールがどんなエピローグを見せてくれるのだろうか。そうそう、音楽も人生も唐揚げレモンも不可逆なのだから、前に進むパーティの組み方が重要なんだなぁ。
9話で退場したかのように見えた「不思議の国のアリス」こと有朱が最終回にどんな姿を見せるのかも楽しみ(彼女のインスタグラムより)。アリスがトランプ兵たちを吹き飛ばしませんように。あと、「普通の人になりたかった」妻の願いに気づけず、9話でもっとも絶望的な思いをした幹生にも救いがあってほしい。
(大山くまお)
家森は加害者家族の生き残りなのか?
真紀(松たか子)は早乙女真紀ではなかった……! このとんでもないサスペンス要素は、第9話の冒頭であっという間に解決する。
真紀の本名は山本彰子。富山市出身。10歳のときに母(坂本美雨)を事故で亡くし、母の再婚相手だった義父から日常的に暴力をふるわれていたが、彰子が母親死亡の賠償金2億円の受取人だったため、義父は彰子を手離さなかった。
6話のラストで有朱(吉岡里帆)が死んだと見せかけて7話であっさり生きていた展開や、4話のラストで真紀と別府(松田龍平)がいるマンションに誰か来た! と思ったら5話の冒頭であっさり鏡子(もたいまさこ)だったと明かされた展開とよく似ている。真紀の事件にこれ以上大きな謎はないだろう。真紀が義父を殺していた事実が最終回で明かされることもないと思う。実は家森(高橋一生)が2億円をむしられた加害者家族じゃないかと推測する記事も目にしたが、それもない。
『カルテット』は登場人物たちの謎(嘘)をうまくストーリーと結びつけて推進力にしているが、けっしてそれが本筋ではない。さまざまな解釈や深読みが楽しいドラマではあるが、細かな謎解きに目を奪われすぎていると大切な部分を見逃すことになる。
余談だが、坂本美雨のインスタグラムにはCD「上り坂下り坂ま坂」のジャケ写撮影風景などオフショットがいくつか掲載されている。ちなみにCDのカップリングは「風の盆とわたし」。「風の盆」とは富山の有名な祭り「おわら風の盆」のこと。やっぱり『カルテット』は芸が細かい!(←自分も細かい部分に目を奪われっぱなし)
全員両思い、完結
軽井沢のアウトレットモールで(見るだけの)ショッピングを楽しむ真紀とすずめ(満島ひかり)。行ったことのある人なら知っていると思うが、このアウトレットモールは円環状になっており、ワカサギ釣りの穴やカーリングの的と同じく“穴の空いたドーナッツ”だ。結局買い物はせず、日用品だけを買い込んだ2人はブランコで戯れる。
真紀「十分、十分、もう十分」
ブランコで揺られながら真紀がつぶやく言葉は、偽らざる彼女の心境だ。新しい洋服がなくても仲間たちとの楽しい日常があればもう十分――。幼い頃の思い出をすずめに語っているときも「もう十分」と繰り返す。彼女の過去を考えれば、そう思うのも当然だろう。しかし、ほかでもない彼女の過去が楽しい日常を脅かす。
別荘にやってきた刑事の大菅(大倉孝二)は、すずめの前で真紀の真実を告げる。大きな「嘘」が露見した真紀は、それまでの飄々とした態度が嘘のように卑屈さをにじませる。感情を爆発させたりせず、淡々とこれまでの経緯を話しているだけなのに、表情と態度だけで別人のように変わる松たか子の表現力に唸る。「本当の私は……」と言いかけ、涙を流し、言葉に詰まる。
すずめ「真紀さん、もういい。もう、いいいいいい。もういいよ。何にも言わなくていいよ」
すずめが真紀をまっすぐ見つめてかけた言葉は、3話で真紀にかけてもらった言葉へのお返しだ。家族に関する辛い過去があるのに、まだ家族のもとへ帰らなければいけないと葛藤するすずめに、真紀がまっすぐな目でかけた言葉は「いいよいいよ、みんなのところへ帰ろう」だった。
真紀「みんなに嘘……」
すずめ「どうでもいい。すっごくどうでもいい」
真紀「みんなを裏切って……」
すずめ「裏切ってないよ。人を好きになることって絶対裏切らないから」
真紀「……」
すずめ「知ってるよ。真紀さんがみんなのこと好きなことぐらい。絶対それは嘘のはずないよ。だって零れてたもん。人を好きになるって勝手に零れるものでしょ? 零れたものが嘘なわけないよ」
何が嘘で何が真実かとか、どうでもいい。お互いのことが好きだったり、道端で音楽を奏でたことが楽しかったりしたことが嘘じゃなければ大丈夫。
すずめ「真紀さんは奏者でしょ。音楽は戻らないよ。前に進むだけだよ。一緒。心が動いたら、前に進む。好きになったとき、人は過去から前に進む。私は真紀さんが好き」
真紀が「信じてほしい」と声を絞り出し、すずめが嬉しそうに「それ」と呟いたとき、途切れかけていたWi-Fiがつながった。8話は片思いの話だったが、9話は両思いの話だ。「全員片思いが全員両思いになった」とツイッターでつぶやいている人がいたが、まさにその通りだと思う。別府と家森は黙ったままハーブティーと暖炉で2人を暖め続けているのが心憎い。
カルテットの4人は『それでも、生きてゆく』
大菅「たいがいの犯罪者は、自分を被害者だと思うところから始まりますけどね」
ドラマ論などを専門とする早稲田大学教員の岡室美奈子氏はツイッターで「このドラマのテーマって『それでも、生きていく』なんだなぁ」とつぶやいている。『それでも、生きてゆく』は脚本家、坂本裕二の代表作の一つ。子を殺された犯罪被害者の家族と社会的に殺された加害者の家族の交流を描いた作品だ。
加害者は自分のことを被害者だと思っている。被害者が加害者になることもある。両者の間にはとてつもなく深い断絶があるが、『それでも、生きてゆく』は両者をかかわらせ、前を向かせるドラマだった。被害者も加害者も辛い過去を水に流しておしまいというわけにはいかない。それでも前を向いて生きていくしかない。
家森「2種類ね、いるんだよね。人生やり直すスイッチがあったら、押す人間と、押さない人間。僕はね、もう……押しませーん」
このセリフの「もう」という部分がポイントだ。6000万円の宝くじを引きかえ損ない、茶馬子(高橋メアリージュン)との結婚に失敗した家森は、ずっと人生やり直すスイッチを押す気満々の人生を歩んできた。でも、「もう」押さないと決めた。軽井沢の別荘で仲間たちと出会えたからだ。いや、仲間たちと「嘘」や「辛い過去」を乗り越えてきたからだ。その推進力は、すずめの言うとおり「好き」の力なのだろう。
辛い気持ちを抱えて夜空を眺めていた少女の真紀は星を渡る船に乗って、同じように辛い気持ちを抱えてチェロを背負った子どものすずめは地下鉄に乗って、軽井沢にたどりついた。別府も家森もバンに乗り合わせて別荘までやってきた。「嘘」だった偶然が、「好き」という感情を経て「嘘」じゃなくなった。それはもう奇跡と言っていい。
みんなで誰かを甘やかそう
「それでも、生きていく」とき、もう一つ大切なことがある。有朱役を演じた吉岡里帆がイベントで「サスペンスの定義を家に帰って調べてみてください!」と言ったのは先週書いたとおり。サスペンス(suspense)にはドラマのジャンルの語源となった「不安」という意味とともに「あやふや、どっちつかず、宙ぶらりん」という意味がある。
真紀もすずめも別府も家森も、物事に白黒つけたりしない。正義とか悪とか上とか下とか右とか左とか極端なことを言い出さない。あやふやでいいじゃない。どっちつかずでいいじゃない。
別府「飢え死に上等、孤独死上等じゃないですか。僕たちの名前はカルテットドーナッツホールですよ。穴がなかったらドーナッツじゃありません。僕はみなさんのちゃんとしてないところが好きなんです。たとえ世界中から責められたとしても、僕は全力でみんなを甘やかしますから」
視聴者の気持ちも一緒。僕たちはカルテットドーナッツホールを甘やかしたい。それと同じように、まわりにいる人も甘やかしてみたらどうだろう。それぞれの穴を楽しんでみたらどうだろう。そうでなくても厳しい世の中なんだから、好きな人ぐらい甘やかしたっていいじゃない。『カルテット』はそんなことを言っているドラマのような気がする。
いよいよ今夜10時からは最終回。物語は1年後に飛ぶのだという。『ドラゴンクエスト』のパーティのように進んできたカルテットドーナッツホールがどんなエピローグを見せてくれるのだろうか。そうそう、音楽も人生も唐揚げレモンも不可逆なのだから、前に進むパーティの組み方が重要なんだなぁ。
9話で退場したかのように見えた「不思議の国のアリス」こと有朱が最終回にどんな姿を見せるのかも楽しみ(彼女のインスタグラムより)。アリスがトランプ兵たちを吹き飛ばしませんように。あと、「普通の人になりたかった」妻の願いに気づけず、9話でもっとも絶望的な思いをした幹生にも救いがあってほしい。
(大山くまお)