83歳筆者が考える「VR」...人類に「革命的な変化」もたらす予感
PlayStation VR(Marco Verchさん撮影、Flickrより)
2016年は、いわゆる「VR(仮想現実)元年」の年となった。多くのメーカーが関連商品を投入、これまでは手が届かなかった一般ユーザーも、VR技術を実際に体験できるようになってきた。関連が深い「AR(拡張現実)」をフィーチャーした「ポケモンGO」の大ヒットも記憶に新しい。
現在はゲームや動画など、娯楽分野での利用が盛んだが、このVRはこれから私たちの世界をどう変えていくのだろうか。ぶらいおんさんに予想してもらった。
「異次元の世界」の発見
最近のニュースによれば、10月13日に発売されたソニー・インタラクティブエンタテインメントジャパンアジアのバーチャルリアリティシステム「プレイステーション VR」は、発売から4日間で国内4.6万台を販売した、という。
これに関する報道をテレビニュースでも観たが、それによれば、この器具は同種の製品に比べ、価格が安い割に機能は高いそうだ。
インターネット上の辞書によれば、バーチャルリアリティ(英: Virtual Reality)とは、実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザの五感を含む感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系。 略語としてVRとも表記、とある。
また、別なところで、バーチャルリアリティ(VR)は、"もうひとつの現実"を作り出す技術の総称です、とも言われている。
こんなところから、バーチャルリアリティ(VR)は、「仮想現実」とも言われる。
『現実』を揺るがす、バーチャルリアリティの恐るべき未来によれば、ヘッドマウントディスプレイが、今や主流のものとなり、現在の『VR』を体験するには、まずはこれを装着する必要がある、とのことだ。
このヘッドマウントディスプレイにはセンサーが内蔵されており、頭の向きや動きに応じて映像がリアルタイムで追従するようになっている。更にヘッドホンを装着すれば、VRの世界に完全に没入できる、らしい。
このようなデバイスは今では、個人でも簡単に入手できるようになり、またVRコンテンツもインターネットでダウンロードできるようになったようだ。
VRならではの特徴として、現実には絶対にありえない体験が可能となっており、たとえば『UnityCoaster2-Urbancoaster-』では、東京の街並みをジェットコースターで疾走することができる、とのことだ。
また、この種のエンターテインメント系のコンテンツの利用ばかりで無く、「VRジャーナリズム」と称するものがあるという。それらは、たとえばロサンゼルスのフードバンクやシリアの空爆を体験できる、"Project Syria"というフィクションのコンテンツだ、という。
これに対し、VRによって実際の光景の中に体験者を放り込むような"VICE News VR: Millions March"という作品は、2014年12月13日にニューヨークで起きたデモの様子を収録したもの、だそうだ。このVR技術は、体験者をして、安全な空間において、「共感」をもたらすことの出来る技術だとしているが、これは飽くまで受動的な「疑似体験」に過ぎず、当然、能動的にデモに参加できるわけでは無い。
ところが、『現実』にアクセスするVRもある、という。それは『テレイグジスタンス』と呼ばれる技術であって、この『テレイグジスタンス』とは、バーチャルリアリティの一分野であり、遠隔地にある物(あるいは人)があたかも近くにあるかのように感じながら、操作などをリアルタイムに行う環境を構築する技術およびその体系のこと(Wikipedia)だそうだ。
実は、筆者も可成り前から、こんなことを考えて居た。それは、VRの技術が進歩してくれば、従来のヘッドマウントディスプレイを装着して体験する、いわゆる五感の内、これまで専ら視覚と聴覚のみを利用するという限界を超えて、触覚、味覚、嗅覚にまで及ぶ、将に「テレイグジスタンス」のVR世界を体験することが可能なツールが、いずれ出現するであろう、という想像であり、そうなれば、遠距離恋愛中の二人や単身赴任で、海外勤務をしている夫やその家族達にも大きな貢献をすることになる、とイメージして来た。言うまでも無く、単に視覚と聴覚のみで相手を認識するだけでは無く、その限界を超えて、その人が、恰も直ぐ傍に座っているように、抱きしめることも、手を握ることも出来るし、キスだって、それどころか恋人同士や、夫婦間なら、それ以上のことだって(ね!? 違和感なく)出来るようになる筈なんだから...。
<肉体と存在>
東京大学の舘翮氏は、『世界中に配置されているロボットと合体すれば、自分がそこに行ける』ようになると述べている。センサーを介して五感を共有できさえすれば、自宅に居ながらにして、遠く離れた場所を旅することも夢ではない、とのことだ。
筆者の感覚では、ここまで述べて来た、既に存在する技術はSingularity(特異点)を境にして、更に急速に発展する、と考えられるが、これを筆者は別の角度から考えてみたい。
それは、高度なバーチャルリアリティ(VR)の世界がテクノロジーの発展によって、新たにもたらされた、と考えるよりは、むしろ、最初から既に生存している、この三次元世界の他に、今まではSFの世界でしか、取り上げられなかったような(本来、つまり、存在していたのに、我々が認識出来なかった)異次元の世界を新たに発見した、と考えた方がより適切ではないか?と解釈する次第だ。
そして、一定の条件さえ備えれば(VR認識用の高度なツールを獲得しさえすれば)、その四次元か、五次元か不明であるが、兎に角、その異次元の世界で、新しい生活をすることすら可能となりつつある、ということではないだろうか?
もしかすると、その世界では、我々三次元の世界で、生命活動を停止し、一般的な仕来りによって火葬された人体が、骨として残る部分の他、酸化されて、空気中に放出されたガスとして雲散霧消してしまった、としても、その異次元世界では、失われてしまった筈の、それらの成分がそのまま存在していて、別な形の有形物として、我々が識っている昔のままの姿で、懐かしい人達が現れてくる、という可能性だって充分ありうる、と考えても良いような気がする。
宗教的には、「魂の不滅」と考えるのかも知れないが、それと特に矛盾すること無く、消滅してしまったはずの肉体、より具体的に言えば、脳が、この三次元世界で存在していた際に、蓄積していた、全ての情報(つまり、その人の有していた記憶や感情や思念など)を、その異次元世界の有形物、(すなわち、一つの考え方として)限りなく人体に近い或る物体が、当然その物体内に具有していたとしても、ちっともおかしくない。
そうなると、たとえ(この三次元世界で)ヒトは死んでも、実際は、単にその異次元世界へ転移しただけなのかも知れない。そうした考え方は、別に筆者が初めてというわけではなく、従来から存在し、死んだ人はあの世か、別の世で生き続けて居る、とも考えられて来た。
ただ、筆者が仮想する(無論、筆者のみならず、そのように考えて居る人達も多分、少なく無いだろうが)世界は、単に、従来の考え方をそのまま踏襲するものでは無く、VRのレベルが高度となり、必然的に高機能を有するツールもまた開発され、それを更に、うまく活用するパターンが開発されるようになると、この三次元の世界に身を置いたまま、別の異次元の世界にも違和感なく、恰もそこに自分が存在しているかのように感じながら暮らすことも出来る。もう、そんなところまで、VRの技術は、今や到達可能となっているか、もしくはそう、なりつつあるのでは無いか?と想像したりする。
筆者が中学、高校生の頃から、ラジオの部品などを求めて良く通った秋葉原も今や、少なくとも外見上は別の街に変わってしまったように見える。特に、東京から離れてしまってからはご無沙汰続きだが、本コラムの編集者から、最近の秋葉原は更にVRに満ち溢れて来た、と聞いた。
それはきっと、単なるブームというものではあるまい。VRのテクノロジー変遷を改めて辿ってみると、それはもう、ゲームや仮想現実の空間だけを求めるという段階では無いのだろう。
むしろ、人類進化の過程として、必然的に辿るべき道の一つのプロセスと考えた方が適切かも知れない。
ヒトの生命現象も、宗教的関心も、哲学も、延いては、あらゆるテクノロジーもAIに学習(ディープ・ラーニング)させて、得られた結果(データ、情報)をVRで活用させることにより、我々の、現在の世界も、それこそ無限に近く拡がる可能性を秘めているような気がしてならない。
別な言い方をすれば、我々はこれから数多くの異次元世界を発見し、それらの世界で、今、この三次元世界で体験しているのと、全く異なる生命活動や社会活動を行うことが可能となるようになったとしても、ちっとも不思議では無いのではあるまいか。
一例を挙げれば、或る異次元世界では、この三次元世界で体験する、いわゆる「死」という生理現象は存在しないかも知れない。つまり、「不死」ということになる。当然、また「老化」という生理現象をも超越しているかも知れない。
それが、「よいか、どうか?」あるいは「望ましいか、否か?」は、一概には言えぬだろう。
ただ、今言えることはVRのテクノロジーも、従来の、主としてエンターテインメント系に、到底、狭く限定されるもので無く、むしろヒトの生命活動を含む、あらゆる活動や分野に関わるものとなって行き、その結果、人類に対し「革命的な変化」をもたらすものであろうことは、最早疑うことは出来ない、と筆者は考えて居る。
だからこそ、その種のテクノロジーの進歩に対し、人類は今後如何に対処して行くべきか?それを慎重に検討し、正しい判断と方向を採択することが、今や求められているに違いない。