野球留学がもたらした八戸学院光星と青森山田の双頭対決で一気に実力県へ

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 高校野球の地域勢力構図を変えたのが、近年の青森県の躍進だ。いや、極論すれば青森県の躍進というよりも、光星学院時代の2011(平成23)年夏から3季連続して準優勝を果たした現八戸学院光星の活躍である。そして、その引き金というか起爆剤になったのが、ライバルともいえる青森山田の存在だった。この両校の対決構図は、90年代後半から現在に至るまで続いている。

青森県の高校野球を盛り上げる八戸学院光星と青森山田

光星学院・田村 龍弘選手

 この春、センバツでは青森山田と八戸学院光星が県内初の2校選出となった。まさに、今の青森県の勢力構図を象徴するかのような形になったのだが、今後もこの両校が他の青森県勢の的となりながら進んでいくのではないだろうか。

 両校に共通して言えることは、関西を始めとして、青森県以外の選手が比較的多いということである。したがって、試合前には東北弁というよりは、関西弁が耳に入ってくることも多い。地元ではもう一つ地場の匂いがしないということはあるのかもしれないが、確実に彼らによって県内のレベルそのものは引き上げられている。

 確かに関西で少年野球をやってきた選手は、野球の技術も高いレベルで取得しているが、それだけではなくマナーなどを含めて鍛えられている。県内の選手たちが、それに引っ張られるようになり、さらに意識も技術も向上していっていると言えよう。

 光星学院の台頭は03年の夏が象徴的だった。ダルビッシュ 有を擁する東北と準々決勝以上では初めての東北勢対決となった。青森勢にとっては赤いツバの帽子で胸に大きく「KOSEI」の文字のユニホームは頼もしい存在となっていた。00年夏にベスト4、01年夏もベスト8と光星学院はすっかり甲子園の上位の常連になっていた。かつて多くの人が抱いていた青森代表とはまったく違ったイメージを与える存在になっていたのだ。

 そして、11年からの快挙につながっていくのだが、青森山田も93年夏に初出場して以降コンスタントに出場を重ね、04年夏以降6年連続出場を果たすなど県内で君臨した。こうして、光星学院と競い合いながらお互いが力をつけていったのである。

[page_break:青森の高校野球の歴史]青森の高校野球の歴史

青森山田・堀岡 隼人投手

 97年の光星学院の春夏連続出場以降の、両校以外の甲子園出場としては、98年夏と10年夏の八戸工大一、13年夏の弘前学院聖愛に、15年夏の三沢商しかない。八戸工大一と弘前学院聖愛は、2強の壁を崩すのには最も近い存在と言っていいだろう。とはいえ、その壁の厚さに泣かされている。15年秋も準々決勝で八戸学院光星に敗れ、東北大会では青森山田に上をいかれた。

 この両校がしのぎを削り合う前までの青森県の高校野球といえば、1969(昭和44)年の太田 幸司(近鉄→読売→阪神)を擁した三沢の活躍が突出している。すべての面で松山商に比べると劣っている三沢だったが、白系ロシアの美青年投手太田が黙々と力投して、甲子園の判官贔屓のファンの共感を呼んだ。甲子園の高校野球ファンの間では今でも語り草になっているくらいだ。

 延長に入ってからは三沢が押し気味に進めていただけに、青森県と東北の高校野球にとって、最も優勝に近づいた瞬間かもしれない。しかし、結局1点が遠く引き分け再試合となってしまう。翌日の再試合では、選手層が厚く体力もある松山商がいきなり本塁打で先制し、連投の太田を攻略。太田投手は悲劇のヒーローとして甲子園を去った。

 三沢の活躍で、一瞬火がついた青森県だったが、その前後は苦悩の時代である。40〜60年代半ばころまでは青森と八戸の両旧制中学系列校と東奥義塾などが活躍していた。三沢以降では、男子バレーボールで全国優勝などを果たして一躍注目を浴びた弘前工や、スポーツ校として評価の高い弘前実などが目立っていた。五所川原農林やラグビーの強豪となっている青森北、三沢商なども甲子園に届いている。

 逆の目立ち方では、佐賀商・新谷投手があわや完全試合をやりかけて、27番目の打者が死球になった木造、鹿児島実・杉内投手にノーヒットノーランをやられた八戸工大一などがある。しかし、八戸工大一は、87年春にはベスト8へ進出した実績もある。木造は相撲部が強いことでも知られている。小兵力士で人気のあった舞の海の出身校でもある。また、98年夏には東奥義塾が青森大会1回戦で深浦相手に122対0というとんでもないスコアを記録したということで目立ってしまっていた。

 そんな青森県の歴史も忘れ去らせる、今日の八戸学院光星と青森山田の勢力である。

(文:手束 仁)