石原慎太郎『天才』終盤シーンの異様さ

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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編に続いて、石原慎太郎の著書『天才』について語り合います。

ねじくれた父殺し



藤田 この本は角栄のいわゆる「金権政治」を肯定しているんですよね。日本を開発するためにやむを得なかったじゃないかと。偉大なる「原父殺し」の顛末を見るような話です。欲望のまま、狂気に駆られて新しい領域を開拓するのが「原父」。次世代は、その恩恵を受けながらも、父の狂気を抑制するために父を「殺害」し、罪悪感で連帯し、「原父」を神話化する――という、フロイトの図式ですが。

飯田 若かりし日の石原慎太郎は角栄の金権政治を批判し、打倒したんだけど、95年に衆議院議員を突如辞職し、その後90年代半ばから後半にかけて書いた『国家なる幻影』では、自分をひいきにしてくれた佐藤栄作だってカネをぽんとよこしてきたし、それが政治だみたいな話を書いているし、角栄については否定しつつも一部は肯定する、という両義的なものになっている。
 つまり、慎太郎は自民党の議員時代はともかく90年代にはすでに角栄のことを高く評価しはじめていたし、その後も、彼がもしいたら自分の都政ももっとできただろう、とか、もし自分が田中派に付いてたら自民党総裁になっていたかもしれない、みたいなことまで『わが人生の時の人々』では書いている。
「あんなバルザック的な人物は日本の政界にはいない」というのが角栄を誉めるときのテンプレになっているんだけれども(ちなみに竹下登・宮澤喜一・安倍晋太郎は「ジェフリー・アーチャーの小説くらいの登場人物の対比のパターン」らしいw)、ほかにバルザックを引き合いに出して語っている政治家はフィリピンのマルコス。彼に環境開発に際してのリベートを平然と要求されたことを「『優れた政治家』なるものの資質についての原理原則に触れたような気がする」と言い、「私はとてもああはなりきれないし、なれないが故に政治家として大成出来ないというなら、それを潔しとする」「私は世に優れたとされている政治家たちにはつくづく、バルザックの描いた人物たちに対すると同じような経緯と興味を抱いてきた」。
 つまり、自分は角栄に比べたら「優れた政治家」じゃないって認めているわけだ。

藤田 ちょうど、『宇宙戦艦ヤマトをつくった男 西崎義展の狂気』という評伝が刊行されまして、西崎さんという個人プロデューサーの禍々しい人生を語る伝記が出たのですが、その中で、西崎さんが田中角栄に会いに行くエピソードがあるんですよね。それで連想したのですが、角栄と西崎さんって、ちょっと似てるんですよ。その「伝説」を語る本が今出るのは、なかなか面白いことだなと思いました。今よりもルールがしっかりしていなかった、倫理がいい加減だったがゆえに好き勝手した人の、功罪を問う本ですよね、両方とも。今では成立しがたいスケールの人間を描こうとしている。『天才』は、功罪の両義性の問いかたが甘い気がするけど。

飯田 慎太郎的には、金権政治云々よりも角栄の先見性を見るべきだったという悔恨はあるんでしょう。

藤田 そうですね、角栄は先見的だった、金権政治を批判したのは「アメリカの策略に洗脳」されていたからだとあとがきに書いてあるんですけど、これはどうなんでしょうね

飯田 洗脳かどうかはわかりませんが、すでに「いやいや、角栄に対してそんな謀略はなかった」という批判はされている。
 ただ、陰謀論は抜きにしても、角栄も石原慎太郎もアメリカ依存のエネルギー政策はやめるべきで、ゆえに原子力に力を入れねばならない、という考えは一致していた。だから慎太郎は311のあとも「原発はやめるべきじゃない」と言い続けている。

藤田 そうですね、これは原発肯定本でもありますね(原発を日本に建てる際にも、アメリカが随分と関わってはいるので、何か矛盾は感じますが)

飯田 金権政治は間違っていたけど原子力政策は正しかった、というのが慎太郎の考えで、そのへんは『天才』の角栄観そのものだと思う。……あれ、じゃあ、自己批判じゃなくて自己肯定の書ってこと???

やりあった相手から手を差し伸べられると喜ぶ石原慎太郎


藤田 あとがきで、角栄と石原さんが会ったときや、石原さんについて角栄が言ったことについて述べているエピソードがありますよね。金権政治で批判を石原はしたけれど、元々、自分は金を回してなかったからあいつは許す的なことを角栄が言った的なエピソード。あれは象徴的だと思うんですが(あそこに石原さんの願望も混ざっていると考えれば)、反抗する息子を、寛容に許す父、なんですよね。

飯田 実は慎太郎は、自分が叩いた相手がむしろ自分を認めて懐を開いたときのエピソードをほかにも嬉々として書いています。たとえば若かりし日に、水上勉を前に小林秀雄が公然とディスりまくっていたところに出くわして「あなたも批評の神様か何か知りませんが、こんな席で人にからむこともないでしょうに」と食ってかかったが、あとで小林秀雄が「あいつ、おもしろいやつだなあ」と漏らしていたのを伝えきいた、とかね(『わが人生の時の人々』)。これは角栄が自分を批判した慎太郎に対して「政治家同士だ、気にするなっ!」って声をかけたエピソードとあきらかに同型です。

藤田 「公然と批判し」「裏で評価される」のパターンですよね。でも、それって、結構都合よく抽出している可能性があるんですよ、エピソードを。
 日本の文化って、どういうわけか、反抗するやんちゃな男の子を、許すところがありますよね。石原慎太郎は、いつでも反抗する男の子なんだけど、いつでも「父」的存在にそれを許されることを暗黙に期待している。その「父」がアメリカになったりもするのですが。そういう文化英雄(?)の類型を演じている=生きている人、という感じがしますね。

飯田 そういうやりとりが本質的に好きなのであって、したがって自分に面と向かって食ってかかってくるやつが少ないことを嘆いているのだろうと推察されます。ネットでは叩かれまくってるけども、そうじゃなくて、肉体と肉体のぶつかり合いを求めている人だから。

藤田 2ちゃんねるのスレッドにでも降臨すればいくらでもできるのにw

飯田 慎太郎にとってアメリカは戦中・戦後に手ひどい目に遭った仇であり(幼き日にアメリカ兵に殴られ、また、従兄弟や親戚を太平洋戦争で殺された)、尻尾を振る対象ではない。しかもややこしいのは、アメリカとははっきりものを言いあう対等な関係になるべきだということであって(『NOと言える日本』)、アメリカ嫌い死ね消えろという単純なる「反米」ではない。「激しくやり合えばやり合うほど日本では滅多に味わえぬカタルシスさえある」「いろいろの分野で新規に素晴らしい友人がたくさん出来た」と書いている(『亡国の徒に問う』)。つまり、彼にとっては角栄もアメリカもある意味では似たような存在なわけです。

藤田 戦い合った相手やライバルに「友情」が生じるという、スポーツマンガ的な構図が暗黙にあるんですよね。でもそこは、甘えの部分でもあると思う。本気で怒らないと暗黙に甘えているからこその反抗なんです。

飯田 そうだね。少なくとも慎太郎の方は、大江健三郎ともそういう関係だと思っているふしがある。大江作品に出てくる慎太郎がモデルのキャラクターは、ひどい扱いだけど……。

『天才』終盤の和解シーンに込められた意味


藤田 『天才』で象徴的だと思ったのは、角栄が臨終するシーン。そこで、息子や孫や家族に「愛」を伝えて終わる。しかも、反抗的だった妾の子と和解しますよね。それに対して、田中真紀子さんの方については、そういう和解的な感動的なシーンは書かない。
 これは勝手な推測ですが、「反抗的な息子」と「石原慎太郎」は重なっているかもしれません。そう考えると、これは、妄想の中で、自身が盾突いた「父」的な存在に「許される」という、非常に痛い話なんですよ。

飯田 あれは、僕は政治家・石原慎太郎がなかば放置してきた子どもである文学と和解するシーンとして読んだ。

藤田 そっちとも読めますよね。その辺りが重なっているのが、本作の「文学的」な面白さというか、奇妙さというか、読みどころかもしれません。

飯田 普通に田中角栄の物語として書くのであれば、あの着地点は異様。

藤田 全体的に異様な本ですよ、これはw

飯田 政治家としての『天才』を描くはずの小説が、妾の子どもと和解し、泣き、死にゆくところで終わる。どうなってるんだ!

藤田 ただ、晩年の石原慎太郎さんが、このような形式で「フィクション」を書くことで、何を伝えようとしているのか――政治家ですから、表に出せないこともいっぱいあるでしょうからね――「政治と文学」の両方を身を持って経験した一人の人物の内面を知るためには、なかなか味わい深い作品です。