糸井 嘉男選手(宮津−オリックス・バファローズ)「高校時代は実質4か月しかプレーしていなかった」
走攻守、全てを高いレベルで兼ね備えるオリックス・バファローズの糸井 嘉男。しかし高校は強豪私学ではなく京都府北部の普通の公立、宮津高校に在籍していた。軟式出身で中学時代は無名の選手。宮津高校進学後もケガとの戦いのため実質2年4ヶ月の高校野球の内2年間は満足なパフォーマンスを発揮出来なかった。それでも抜群の身体能力を誇る糸井のもとには12f球団のスカウトが訪れた。また、当時宮津で監督を務めていた西舞鶴の市田 匡史部長の話によればつかみどころのない天然ぶりを示すエピソード、ネットで話題になる“糸井伝説”も事実だった。
市田 匡史部長(西舞鶴高等学校)
中学時代から凄かったか?いや入学前の評判は何にもなかったです。確かに実際に見て、糸井の能力からすれば、もっと評判があればもっと別の私学に行ったりする可能性は当然あったと思います。
なぜ評判にならなかったかというと、中学校の時に、勝ち進めば府大会につながるという最後の試合に行ってないんです。その理由がまたすごくて、先生とケンカして帰っちゃって、糸井の家が中学校から球場にいく途中にあるんですが、そこで糸井がバスで球場に行くチームメイトを見て、窓から頑張って来いよ〜って手振ってたらしいです。すごい逸話ですよね(笑)。だから早く負けてしまい、当然試合も出ていないので噂も何にも無し。それで宮津高校に来たんです
でも糸井は野球はすごい好きなんですよ、ホンマに野球好き。それはアイツの良いところ。ただ高校入学からケガに苦しみましたね。右か左か忘れましたけど膝をケガして、それは中学校の頃から痛かったらしいんです。入学してからもずっと痛いと言って、病院行ったんかと聞いたら「行ってません」。それで病院に行かせたら「膝の皿が真っ二つに割れてました」と。それで手術せなあかんとなって高校1年生はもうそれで終わりですわ。
手術して、帰って来てリハビリ、歩く、ジョギング・・・ようやく走れるようになったのが2年生。だから1年間何にもしてない。ただ、走れるようになってからは自主的に朝走ったりしてましたね。だから基本的に練習好きなんですよ。そこもあいつの良いところですね。
性格で言うたら何とも言えない、つかみどころのない子(笑)。勉強の方は大変しんどかった記憶があります。だけど最低限のことは当然やっていましたね。まだ当時のノートがあるんですけど、僕は保健体育を担当していて新聞記事を貼ったりコメントつけたりの課題を出したんですが、糸井が提出したものの中にはおそらくお母さんがやったんやろうなというものがありました。
勉強は何とかやったけど、しんどいのはしんどい状況という感じやね。ただ補習や追試で練習休みますというようなことは無かったんで、もちろん配慮はしてもらってたんやけど、やらなければならないことはしっかりやっていた子だと思います
[page_break:高校野球のプレー期間は実質4ヶ月だけ]高校野球のプレー期間は実質4ヶ月だけ糸井 嘉男選手(オリックス・バファローズ)
1年の時もケガでまともにプレー出来ませんでしたし、学校の中でもそんな目立ってる存在ではなかったです。2年になっても春先に練習試合で「糸井、先発行くで」と言ったら試合開始直前のブルペンで「監督さん、肩痛いです」って、突然。それで1人だけ投げてすぐ代わって。その肩の痛みはしばらく投げなければ治るというものじゃなくて手術してるんですよ。2年夏の大会は1イニングだけ投げて、その後に手術となって、でも秋の大会は投げてないですし、2年生もそれで終わりです。
3年生の春になって病院行ったら大丈夫やと言われてからなんで、高校でまともにやったのは4、5、6、7の4ヶ月ですわ。3年春にようやく投げられるようになって1次戦突破して、2次戦の西城陽戦の時に、阪神のスカウトの人が西城陽のピッチャーを見に来てたんですけど、その時に糸井が良いと思ったんでしょうね。初めてスポーツ新聞に載せてもらって。それを機にいろんな人が学校に来るようになったんです。
当時の糸井のポジションはずっとピッチャーで、3番。高校の時はピッチャーとしての期待の方が大きかったですね。もちろんバッティングも良かったし、フェンスを越えて民家の瓦を割ったりと逸話になっていましたね。
球速は当時で最速141キロだったでしょうか。ただ糸井がいたからピッチャーは良かったけど、それを捕れるキャッチャーがいない。仕方がないから急遽セカンドの子をキャッチャーにしたんやけど、その子も練習試合で糸井のボールを1試合受けたら手をパンパンに腫らして。変化球はカーブぐらいだけかな?フォークやスライダーを投げたりはしてなかったですね。
真っすぐでも相手から打てへんかったからね。3年夏は運が悪いというか良いというか初戦で春の優勝校の須知と当たって、雨と雷があって1時間半ぐらい中断したんですけど結局4対2ぐらいで勝って、次が立命館宇治やったんですよ。この試合は1点差で負けてしまうんですけど、同点の状態で一死二塁のピンチでセカンドへゴロが行って三塁に投げたんですけどそれがフィルダースチョイスでセーフ。一、三塁になってセンターへ犠牲フライを打たれてそれが決勝点。
だから戦績としてはそんなに上の方までは行ってないです。春に2次戦に行った時も糸井は打たれてないけどエラーで負けてる。須知も立命館宇治ももちろん糸井が完投してるんですけど、惜しい試合が続きましたね。
[page_break:高校での一番の笑い話は電車居眠り事件 / 不振の一因はキャプテン就任の重責か]高校での一番の笑い話は電車居眠り事件プレーできたのは実質4か月で、春季大会のパフォーマンスだけでプロのスカウトから注目されるということは、当時から糸井選手にポテンシャルは際立っていたということだろう。市田元監督から面白いエピソードを教えていただいた。
糸井 嘉男選手(オリックス・バファローズ)
高校時代の糸井の笑い話ですか?そりゃ電車居眠り事件ですわ。夏の大会、須知に勝って立命館宇治戦まで2日か3日空いたんで当然練習しますよね。糸井は普段から通っていた県外のジムに、立命館宇治戦前にも行ったんです。
ただ帰りの電車は福知山で降りて親に迎えに来てもらって練習に来る予定やったのが、練習日の朝、糸井のお母さんから電話かかってきて「監督さん、嘉男が(電車で2時間かかる)京都まで行ってしまった」って言うんですよ。どういうことですかって聞いたら「帰って来る時に寝てしまって福知山で降りられずに京都まで行ってしまったんで今から迎えに行ってきます。今日は練習休ませます」と。そんなことがありましたわ。まぁしゃないやろうと、あいつのやることやから(笑)。
なんとも糸井選手らしいエピソードである。
不振の一因はキャプテン就任の重責か実戦デビューは高校3年春ながら一躍ドラフト候補となった糸井選手。二度の大手術がありながらも、復帰して戻ってこれたのは、糸井選手の強い意志があったからかもしれない。
だがその時点ではまだ指名確実という評価ではなく、4年後を見据えて近畿大学に進学し、2003年のドラフトにおいて自由獲得枠という最高評価で北海道日本ハムファイターズに入団。その後、投手から野手へ転向した。そして野手として大ブレイクを果たし、トレードでオリックス・バファローズへと移り、2014年には首位打者を獲得しチームをけん引。2位に押し上げる活躍を見せた。
そんな糸井選手にチームは期待をし、2015年、キャプテンを任せたのであった。しかし昨年は期待されたほどの成績を残せなかった。市田元監督はキャプテンという重責が不振につながったのではと見る。
糸井にそんなもんさせたらあかんわ。あの子にはそんな荷物を取ったらんと。天然ボケな行動をしますけど、ああ見えて繊細やからね。高校の時も糸井にキャプテンをやらせようなんて誰も考えなかったですよ。なぜならば高校3年生の時なんですけど、短大を出たばかりで、実習を手伝う二十歳の実習助手の人に「嘉男!」と言われるだけで直立不動やからね。意外でしょ?だから全然いかついとかじゃなくて、気はホンマ小さいんです。
それとケガに気を付けてほしいですね。肉離れしたりケガの多い子やったから。応援の言葉は、頑張れ、それしかない。毎年楽しみやし、また嘉男の姿、観に行きたいな。
2016年は、糸井選手らしい走攻守でハツラツとしたプレーを恩師に見せられるか、注目したい。
(取材・構成=小中 翔太)
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