ラグビー日本代表の外国出身選手に向けられる違和感に反論「見慣れないだけ」
スポーツにおいて、ときに「純血主義」とも呼べるような考え方に出会うことがあります。いま話題のラグビー・ワールドカップにおける日本代表チームもそうです。
ラグビーでは、1.その国・地域で生まれた、2.両親または祖父母の一人がその国・地域で生まれた、3.36カ月以上その国・地域に居住している、という3条件のいずれかを満たせば代表入りの資格を得られます。それにより、必ずしも帰化を必要とせず代表入りできることから、日本代表チームにも10名を超える外国出身の選手が加わっています。
単純に、初めてラグビーの代表を見た人にとって、違和感があることは否めないでしょう。その違和感の正体を考えるうちに、いわゆる「純血主義」、すべての選手が日本出身の日本人であるべきだ――そういう考え方にいきつくこともあるのかもしれません。
しかし、その違和感の正体は「外国出身の選手であるから」ではありません。単に「見慣れないから」です。日常において、ヨーロッパ系・アフリカ系の人々と触れ合う機会が決して多くない日本で、日本代表でござるとサモア出身の選手などが出てくれば、少なからず驚きはするでしょう。見慣れないので。
ただそれはイカスミのスパゲティを初めて見たときに、見慣れないものを見てビックリしたような話で、その驚き・違和感を解消する方法として「純血主義」にいきつくのは、明らかに間違いであろうと思うのです。イカスミのスパゲティに対する違和感を払拭したのが、食べてみて「意外に美味いね」と感じた実体験であるように、彼ら外国出身の代表選手に対しても、同じように実体験を重ねることで違和感は払拭できるはず。
サッカーのラモス瑠偉さんが日本代表にいたことが今となっては何の違和感もないように、室伏広治さんがルーマニア人の母からソレっぽい容姿を受け継いでいても何も気にならないように、大相撲の横綱が全員モンゴル出身者であっても横綱土俵入りには大きな歓声がわくように、見た目や出身地の違いはいつか「慣れ」ていくものです。プロ野球でも日本出身の選手より愛される助っ人がいたりするじゃないですか。
要は実体験の積み重ね。彼らの試合を初めて見た段階で違和感を気にしても仕方ありません。「何となく言葉が通じなさそう」「何となく話が合わなそう」という先入観で、コチラ側が勝手に壁を作っても仕方ないのです。アスリートが見せるべきはプレー。それを見て、応援して、何かを感じるということの積み重ねで、見た目や出身地を超えた愛着というものがわいてきます。そのときに改めて「純血主義」をとるべきかと考えれば、そんな細かいことはどうでもよくなってしまうもの。
キャプテンのリーチマイケル選手のように日本人と結婚して「日本に帰化した」選手もいれば、南アフリカ出身ではあるものの幼少の折に母親の国・日本の国籍を選んだ松島幸太朗選手のような「名前だけでは気づかない」選手もいれば、マレ・サウ選手のようにニュージーランド・サモア・日本の3ヶ国で代表入りの資格がありながら「日本を選んだ」選手まで、道のりはさまざま。
しかし、彼らすべてに共通するのは、日本代表入りしたことによって、もうほかの国の代表になる資格はないということ。いくつもの選択肢の中で、日本を選び、日本代表として骨を埋める覚悟をした選手たちばかりだということです。彼らは日本代表として、日本ラグビーの誇りのために戦おうと腹を決めた選手たち。その点において、「日本」に対する想いは日本出身選手以上のものがあります。
彼らは「日本ラグビーの代表」です。
子どもから大人まで、多くの日本で暮らす人が、プレイヤーとして観衆として、こういうラグビーが見たい、こういうラグビーが好きだ、という想いをこめて育ててきた「日本ラグビー」の代表です。エディー・ジョーンズ監督は……監督自身も日系2世で日本人の妻を持つ日本と縁深い人ですが、「ジャパンウェイ」というテーマを掲げ、日本らしいラグビーを追求してきました。
日本人らしい忍耐力を活かした、過酷なトレーニング。日本人らしい俊敏性を活かした、素早く動きまわるラグビー。日本人らしい技術の高さを活かした、攻撃的ラグビー。日本らしいラグビー、即ち「日本ラグビー」を追求する中で、日本に骨を埋める覚悟の外国出身選手もそこに加わってきた……そのような順番で受け止めるべきもの。
今は思い出が足りないから、違和感が先に立つだけ。歴史を作った南アフリカ戦のような思い出を積み重ねていき、彼らが異邦人ではなく、ひとりひとりのリーチマイケルやカーン・ヘスケスやホラニ龍コリニアシに見えてきたときには、今の違和感などどこかにいっているはず。ラモスもそうだったのです。ラモスにさえ慣れたのです。気にするほどのことではありません。
血ではなく、魂で考えるべき。
「純“大和魂”主義」の代表であれば、見た目や出身地は問う必要すらないものです。
(文=フモフモ編集長 http://blog.livedoor.jp/vitaminw/)
ラグビーでは、1.その国・地域で生まれた、2.両親または祖父母の一人がその国・地域で生まれた、3.36カ月以上その国・地域に居住している、という3条件のいずれかを満たせば代表入りの資格を得られます。それにより、必ずしも帰化を必要とせず代表入りできることから、日本代表チームにも10名を超える外国出身の選手が加わっています。
しかし、その違和感の正体は「外国出身の選手であるから」ではありません。単に「見慣れないから」です。日常において、ヨーロッパ系・アフリカ系の人々と触れ合う機会が決して多くない日本で、日本代表でござるとサモア出身の選手などが出てくれば、少なからず驚きはするでしょう。見慣れないので。
ただそれはイカスミのスパゲティを初めて見たときに、見慣れないものを見てビックリしたような話で、その驚き・違和感を解消する方法として「純血主義」にいきつくのは、明らかに間違いであろうと思うのです。イカスミのスパゲティに対する違和感を払拭したのが、食べてみて「意外に美味いね」と感じた実体験であるように、彼ら外国出身の代表選手に対しても、同じように実体験を重ねることで違和感は払拭できるはず。
サッカーのラモス瑠偉さんが日本代表にいたことが今となっては何の違和感もないように、室伏広治さんがルーマニア人の母からソレっぽい容姿を受け継いでいても何も気にならないように、大相撲の横綱が全員モンゴル出身者であっても横綱土俵入りには大きな歓声がわくように、見た目や出身地の違いはいつか「慣れ」ていくものです。プロ野球でも日本出身の選手より愛される助っ人がいたりするじゃないですか。
要は実体験の積み重ね。彼らの試合を初めて見た段階で違和感を気にしても仕方ありません。「何となく言葉が通じなさそう」「何となく話が合わなそう」という先入観で、コチラ側が勝手に壁を作っても仕方ないのです。アスリートが見せるべきはプレー。それを見て、応援して、何かを感じるということの積み重ねで、見た目や出身地を超えた愛着というものがわいてきます。そのときに改めて「純血主義」をとるべきかと考えれば、そんな細かいことはどうでもよくなってしまうもの。
キャプテンのリーチマイケル選手のように日本人と結婚して「日本に帰化した」選手もいれば、南アフリカ出身ではあるものの幼少の折に母親の国・日本の国籍を選んだ松島幸太朗選手のような「名前だけでは気づかない」選手もいれば、マレ・サウ選手のようにニュージーランド・サモア・日本の3ヶ国で代表入りの資格がありながら「日本を選んだ」選手まで、道のりはさまざま。
しかし、彼らすべてに共通するのは、日本代表入りしたことによって、もうほかの国の代表になる資格はないということ。いくつもの選択肢の中で、日本を選び、日本代表として骨を埋める覚悟をした選手たちばかりだということです。彼らは日本代表として、日本ラグビーの誇りのために戦おうと腹を決めた選手たち。その点において、「日本」に対する想いは日本出身選手以上のものがあります。
彼らは「日本ラグビーの代表」です。
子どもから大人まで、多くの日本で暮らす人が、プレイヤーとして観衆として、こういうラグビーが見たい、こういうラグビーが好きだ、という想いをこめて育ててきた「日本ラグビー」の代表です。エディー・ジョーンズ監督は……監督自身も日系2世で日本人の妻を持つ日本と縁深い人ですが、「ジャパンウェイ」というテーマを掲げ、日本らしいラグビーを追求してきました。
日本人らしい忍耐力を活かした、過酷なトレーニング。日本人らしい俊敏性を活かした、素早く動きまわるラグビー。日本人らしい技術の高さを活かした、攻撃的ラグビー。日本らしいラグビー、即ち「日本ラグビー」を追求する中で、日本に骨を埋める覚悟の外国出身選手もそこに加わってきた……そのような順番で受け止めるべきもの。
今は思い出が足りないから、違和感が先に立つだけ。歴史を作った南アフリカ戦のような思い出を積み重ねていき、彼らが異邦人ではなく、ひとりひとりのリーチマイケルやカーン・ヘスケスやホラニ龍コリニアシに見えてきたときには、今の違和感などどこかにいっているはず。ラモスもそうだったのです。ラモスにさえ慣れたのです。気にするほどのことではありません。
血ではなく、魂で考えるべき。
「純“大和魂”主義」の代表であれば、見た目や出身地は問う必要すらないものです。
(文=フモフモ編集長 http://blog.livedoor.jp/vitaminw/)