「ミレニアル世代が提案する〈ポスト福祉国家〉に向けた第一歩──『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』池田純一書評連載」の写真・リンク付きの記事はこちら
『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』クリス・ヒューズ・著、櫻井祐子・訳〈プレジデント社〉
20代の若さで億万長者となった著者クリス・ヒューズ。運の善し悪しで何世代かかっても解消できないほどの格差が生まれる「勝者総取り社会」に疑問を感じ、新たな社会保障システムの実装に情熱を注ぐ。「上位1%の富裕層への増税」で賄った財源で取り組む、現金給付プログラム「保証所得」というものだ。それは、果たしてタガの外れたアメリカ社会を変える解決策となるのだろうか。

クリス・ヒューズ|CHIRIS HUGHES
投資家。ハーバード大学でルームメイトだったらマーク・ザッカーバーグらとともにFacebookを創業。広報やカスタマーサーヴィスを担当した後、2008年のアメリカ大統領選挙ではバラク・オバマ陣営のソーシャルメディア戦略チームを率いる。12年に創刊100年以上の歴史を誇るリベラル雑誌『The New Republic』を買収。16年に同社を売却後、Guaranteed Income(GI:保証所得)を推進するため、ナタリー・フォスターとともに、Economic Security Project(ESP)を立ち上げる。GIにより経済的に安定した生活が営める方法を研究者や活動家とともに模索するほか、画期的な経済研究や試験プロジェクト、実証実験などの支援を行なっている。

ミレニアルズの「告白」と「贖罪」

まさか再び、Facebookの共同創業者の一人であるクリス・ヒューズの名を目にする日が来るとは思わなかった。

しかも今回はITではなく、“Guaranteed Income(GI:保証所得)”という一見すると地味な公共プログラムを携えてのことだ。

もっとも、彼の自伝的要素も随所に記された本書を読むと、このプログラムが、彼の心の深いところから発したものであることがよくわかる。GIの試みは、ザッカーバーグやオバマの傍らに立つことで、幸運にも富と名声を得てきた彼がようやく見出した人生の向かうべき方向=purpose(目的)なのだ。

その意味で、本書はクリス・ヒューズという35歳のミレニアル世代の成功者による「告白」の書であり「贖罪」の書である。それは、彼が20代のうちに得た富も名声も、ともに「時代の転換点」──いわゆるNew Economyの立ち上がり期──にたまたま居合わせたことから生まれたという、いささか卑下した自己認識による。

もちろん、彼自身の「努力」もそれらの成功を支えた大きな要因の一つであり、実はヒューズ自身もそのことを内心誇りに思っている。私立の名門校であるフィリップス・アカデミーからハーバードに進学していたことから、てっきり良家の子息だとばかり思っていたのだが、そんなことはなく、ヒューズ自身は南部ノースカロライナの中産階級の出身だった。フィリップス・アカデミーの学費もほぼ全額免除だったというくらい、才能ある神童のひとりだったわけだ。だが、それにしても「3年間の労働で5億ドルを得た」という成功は、バランスを欠いたものだと自己分析している。New Economyとは「勝者総取り経済(Winner-takes-all Economy)」であるからだ。

だから、彼は「成功に伴う責任」という言葉を繰り返す。幸運にも得てしまった富を、なんとか社会に還元したい。そのような思いが彼に取り憑いている。こう感じるのも、ドイツ系移民の末裔としてルター派プロテスタントの信仰が彼の身体に染み付いているからだ。幼い頃に両親とともに通った教会で身につけた「10分の1税」的習慣、すなわち、所得の10分の1を慈善事業に寄付する習慣をなんとしても励行しようとする。告白の書であり贖罪の書というのは、多分にこの彼の信仰心に根ざしている。

New Economyの時代にふさわしい公平さ

といっても彼もまた、気がつけばインターネットを環境として受け止めたミレニアル世代の一人である。信仰心に根付いた善行も、より現代的に情報化時代の洗礼を受けている。GIとして現金給付のプログラムに注目するのは、経済的不平等(inequality)だけでなく、情報化時代になって顕著になった経済的不安定(instability)に対処するために有効だと考えるからだ。収入の増減の波にさらされる人たちに対して一定の収入を保証することは、まさに「不安の除去」につながる。GIの推進グループとしてヒューズが主催する団体の名がEconomic Security Projectである所以だ。経済活動におけるSecurity=安全保障なのである。

「新しい酒は新しい革袋に」という言葉があるように、New Economyの時代にふさわしい社会保障プログラムのあり方を探ること──それが彼の試みようとしていることだ。それはまた、原書タイトルである“Fair Shot”にあるように「フェア=公正/公平」なものでなければならない。この「フェア」の実現には、ミレニアル世代らしくデータ活用の視点が取り入れられている。現金給付が有効であることを示すためには、後に説明するように〈効果的な利他主義〉の考え方も援用される。

このような理由付けが必要なのは、アメリカ政治史の中で現金給付のプログラムは、福祉プログラムに代わるものとして、もともとは60年代に、ヒューズの支持する民主党に対峙する共和党の保守派が提案したものであったという経緯があるからだ。「小さな政府の実現のための福祉プログラムの全廃」というイメージを避けるためにも、これまでの通念やドグマを払拭するデータ志向の科学的方法が採用される。いわば「ファクトフルネス」の実践であり、New Economyという「新たな現実」に即した「新たな社会プログラム」の提案の第一歩なのである。そして、その提案は、Old EconomyからNew Economyの狭間で過ごした経験をもつヒューズたちミレニアル世代だからこそできるものである。

クリス・ヒューズとは何者か

それにしても、クリス・ヒューズの名を目にしたのは久しぶりのことだった。

最初に彼の名前を聞いたのは、ちょうど10年前の今時分のことだった。2008年大統領選でのバラク・オバマの勝利の立役者の中に、当時はまだ珍しかったオンライン・キャンペーンの推進者としてクリス・ヒューズの名を何度も耳にした。なにしろ、オバマは上院議員一年生からいきなり大統領選に乗り出して、予備選ではヒラリー・クリントン、本選ではジョン・マッケインを破ったのだから。その背後では、動員にも寄付金獲得にもインターネットが活用されていた。

ヒラリーにしてもマッケインにしても、ウェブの利用には及び腰で、旧来のキャンペーン手法──企業や富裕者からの大口寄付、テレビ広告中心の宣伝型キャンペーンなど──に頼りきりだった。そうした従来方法の「裏」をついたのが、ヒューズ率いるMy.BarackObama.com(MyBO)のチームだった。MyBOを通じて小口献金を大量かつ迅速に集め、予備選/本選ともども投票日の動員を効果的に行っていた。従来の「テレビ=マスメディア活用型の選挙戦略」に代わる新たな「オンライン活用型の選挙戦略」のあり方を、実際に選挙戦に臨みながら実践的に開発していったのが、ヒューズたちMyBOチームだった。

当時は選挙キャンペーンにおいて、まだ海の物とも山の物ともつかぬ存在に過ぎなかったソーシャルメディアであるFacebookを活用して大成功を収めた。後から振り返れば政治のありかたそのものを変えた試みだ。いわゆる「アラブの春」が2011年の出来事であることを思い返せば、ヒューズたちが2008年に取り組んだことがいかに先進的であったかがわかるだろう。

当時のヒューズの紹介には、常に「Facebookの共同創業者の一人」という言葉がついてまわっていて、むしろ、ヒューズの活躍によってFacebookは、数多あるSNSの中から頭一つ抜け出し、後に圧倒的ナンバーワンとなるためのブランド力の基礎を築いたといってもよいくらいだ。

35歳以下の若い世代に圧倒的に支持され大統領選挙に勝利したオバマ陣営。彼らは従来の米大統領選の戦い方とは一線を画し、数百万のEメールで選挙への支援を訴えたり、SNS、ウェブサイト「MyBO」を立ち上げ、選挙戦への原動力になるよう働きかけた。その先頭に立っていたのが、クリス・ヒューズだった。PHOTO:REUTERS/AFLO

次いで、2回目にヒューズの名を聞いたのは、2012年。FacebookがようやくIPOにこぎつけたことで、ヒューズも富裕層の仲間入りをしたわけだが、その資産を手にしたところで彼が行ったことは“The New Republic(TNR)”という創刊100年あまりのリベラルな政治論壇誌を買収したことだった。

革新時代(The Progressive Era)後期の1914年に創刊された同誌は、創業者の一人にウォルター・リップマン──マスメディア論の古典である『世論』の著者──を抱え、当時のウッドロウ・ウィルソン大統領(民主党)に対する知恵袋として、今日におけるシンクタンクのような役割を果たすことから始まった。赤狩り時代の、いわゆる「マッカーシズム」に対しても反対の論陣を組んだことでも知られる。そのような伝統あるリベラル誌の社主を、オバマ勝利の立役者でまだ30歳にもならないヒューズが務めるということで、大きな話題になった。すでに時代は完全にデジタル時代に入っており、アメリカではローカル紙の廃刊が相次ぎ、ジャーナリズムの未来が憂えられていた時でもあった。そこに「あの」ヒューズが参入してきたのだから、話題にならないほうがおかしかった。

そして3度目に彼の名を聞いたのは2016年で、その“TNR”を手放したときだ。残念ながら、デジタル・ジャーナリズムの未来を築くという当初の目論見は脆くも崩れ、最後は、編集長と彼のシンパである編集者たちが揃って辞めるという、なんとも締まらない終わり方だった。期待が大きかった分、ヒューズに対する幻滅も大きく、この一件は、それまで彼が得ていた名声をかなり傷つけてしまった。だから、ヒューズの名を目にするのもこれが最後かもしれないと思っていた。

実際、本書を手に取るまで、彼の名はすっかり忘れてしまっていた。

「やみくもな理想主義」からの脱却

ともあれ、このような紆余曲折を経て、今回、ヒューズが持ち出してきたのがGI(保障所得)というアイデアだ。オバマ選対の頃から、ヒューズの発言は一貫して、社会正義の実現に著しく燃えたものだったが、どうやら「ソーシャル・アントレプレナーシップ」の領域に、生涯の目標=purposeを定めたようだ。社会正義に燃える人クリス・ヒューズは健在だった。

本書によれば、GIのアイデア自体は“TNR”の社主であった頃に見出していた。そして、同誌を手放したのをきっかけにEconomic Security Projectの方向に舵を切った。そのため、ESPの展開には“TNR”の経験が活かれていて、「やみくもな理想主義」を掲げるのではなく、現実的な解決策が目指された。〈効果的な利他主義〉に見られる計量的アプローチの評価もその一つである。

では、そのGIはどのようなプログラムとして設計されているのか。

本書が提唱するGI(保証所得)のプログラムとは、具体的には「年収5万ドル未満の世帯の、何らかのかたちで働いている成人一人につき月500ドルの保証所得を政府が支給する」というものだ。該当するのは約6000万人の成人で、必要な財源は年に2900億ドルという大規模なものとなる。ただ、対象をここまで絞ることで給付の原資は、邦訳タイトルにあるとおり「上位1%の富裕層」への増税で賄うことができるのだという。なお、ここでいう「何らかのかたちで働いている成人」には、家庭で家事や介護に務める人、また将来の就労に備えて大学等で学んでいる人たちも含まれる。何らかのかたちで社会の存立や稼働に関わっていさえすればよい。

このGIの実行にあたっては、今のところ、ETIC(Earned Income Tax Credit:勤労所得税額控除)という既存のプログラムの活用が想定されている。というのも、「現金支給」の場合、人間心理として、そのお金の出処や支給の理由を多くの人が気にしてしまうからだ。

たとえば、「現金給付」の成功例として本書でも紹介されている、有名なアラスカ恒久基金(Alaska Permanent Fund:APF)の場合、アラスカ州政府は住民全員に一人あたり年に平均1400ドルほどを支給しているが、この給付金の原資は、州に埋蔵された石油の採掘にかけられた税や使用料を積み立てた基金である。つまり、州の領土に眠る鉱物資源は、州民の「コモンズ(=共有資源)」であり、住民がその利益を分配されることは自然なことと理解される。この基金は1976年に法制化されており、今ではすっかりアラスカの生活に馴染んでおり、同州は、全米の中で最も経済格差の小さい州になっている。

いずれにしても、現金を戸惑いなく受け取るにはそれなりの理由が必要で、その点でETICは名前にある通り「税額控除」であり、形式的には「税金還付」の形をとっている点で心理的敷居は低くなる。確定申告の時点で給付要件の確認に必要な事項もすでに提出されている。このようにプログラムが設計通りの効果を上げるためには、支給される現金を安心して受け取って使える仕組みも大事な要素なのである。このあたりの配慮には、ヒューズの“TNR”での経験が活かされている。

EITCはGI実現の第一歩

もともとこのEITCというプログラムは、今から50年前の1960年代から70年代にかけて、大統領でいうとニクソンとフォードの共和党政権の頃に検討されて導入された。つまり、50年前の時点で保障所得制度は導入直前にまで至っていたわけだ。ヒューズはその名残であるEITCを彼の考えるGIの実現に向けた第一歩にしようというのである。

このようにヒューズは、“TNR”の経験もあって、プロジェクトを小さくとも確実に始めることにこだわっている。インターネットの世界でいうところの「スケール」の感覚だ。「小さく始めて大きく育てる」ことを狙っている。

ところでGIの中身を聞くと、それはベーシック・インカム(BI)なのでは? と思う人もいるかもしれない。あるいはその反対に、すでにBIについてよく知る人なら、支給対象を限定している以上、ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)とはいえないと即答する人もいるかもしれない。

確かに、現金給付という点ではBIの思想と被るところはあるのだが、多分、ヒューズからすれば、そのような反応は「高い理想よりも実効性のある現実的な策を」という“TNR”の経験から得られた教訓に照らせば、ただのノイズでしかない。そこで、BIではなくGIという呼称を選んだように思える。

なにしろ、BIはBIで長い検討の歴史があり、古くは18世紀後半のアメリカ独立革命時代のトマス・ペインや、19世紀前半のイギリスの政治思想家J.S.ミルにまで遡るものだ。そのような検討成果の蓄積をいちいち見直すように仕向けられるのは迂遠でしかない(BIの詳細についてはヒューズも参照するガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道』が参考になる)。

「人間の仕事が奪われ大量失業が生じる」という論争が後を絶たないが、すで人間がまったく見当たらない完全自動化へとシフトした物流倉庫などが現れ始めている。PHOTO:CHINA NEWS SERVICE/GETTY IMAGES

むしろ、最近ではBIは、半ば語呂合わせからか、AI(人工知能)とセットで扱われる方が多い。いわゆるAI/ロボットの登場で「人間の仕事が奪われ大量失業が生じる」という懸念からだ。ユヴァル・ノア・ハラリがいうところの「無用階級(Useless Class)」の大量発生という悪夢であり、その不安を払拭するために事前にBIを社会制度として導入しておくことで、ある日突然、人びとが大衆のレベルで路頭に迷う事態を避けることが目的とされる。

この懸念は、よく知られるように、イーロン・マスクやビル・ゲイツといったテックセクターの経営者/ヴィジョナリから発せられたものであり、瞬く間にBIへの社会的関心を高めた(意地の悪い見方をすれば、投資家が安心してAI/ロボットに投資できるようにBIという救済策を推奨し、あわよくばその実行を政府に委ねようとしているようにも見える)。むしろ、その盛り上がりに、これ幸い、いいPRになる、とばかりに、以前からBIを提唱してきた研究者や活動家たちも流れに便乗しようとしているようにも見える。

アメリカンドリームの解体と復活

だがヒューズは、BIそのものには、原理的にも実践的にも特にこだわってはいない。彼が望むのは、自分たちがNew Economyで巨万の富を得る傍ら、同じNew Economyのメカニズムによって破壊された「アメリカンドリーム」の復活である。彼が救いたいのは、AIによる大量失業のような「未来の不安」ではなく、経済的不安定(instability)という今すでに目の前にある「不安」である。そのため、彼はBIではなくGIを採用した。プログラムの速やかな立ち上げを優先した結果だ。

経済的安定という「セキュリティ」の確保が、ヒューズにとっての喫緊の課題なのである。

実際、彼は「アメリカンドリーム」が解体されてしまったことをとても危惧している。ここでヒューズのいうアメリカンドリームとは、一般に思われているような「何かデカイことを成し遂げて大金持ちになる」というようなものではない。そうではなく、「誰もが前の世代よりも少しよい暮らしできる」という慎ましやかなものだ。その本質は、ささやかではあるが、しかし昨日よりは今日、今日よりは明日、少しでも暮らし向きが良くなるという「前進への確信」にある。ルター派の信仰を身体化したヒューズからすれば、そのような確信があればこそ、人は生涯に亘って勤勉に穏やかな人生を過ごすことができるのだ。

だが、その「ささやかな前進の確信」すら、今のアメリカ人は──貧困層だけでなく中産階級のアメリカ人も──抱けなくなっている。そして「誰もが確信できない」ということは、この問題が個々人の問題ではなく、社会が抱える構造的な問題であることを意味している。

その「構造的な問題」の由来は、ヒューズ自身も認めるように、彼が手にした「棚ぼた」的な経済的成功の由来と同一のNew Economyである。彼自身が体感したように、経済の仕組みがすっかり変わってしまったのだから、その変化に合わせて経済的セキュリティを維持する方法も変えるべきなのだ。

ヒューズが見るところ、New Economyが成立した背景には、「急激な技術革新」、「グローバルな自由貿易体制」、「(ベンチャーキャピタルを含む)プライヴェート・エクイティファンドの定着」の3つの要因があった。要するに、「イノベーション」と「グローバリゼーション」、そして「ファイナンス」のことであり、もはや誰もが当たり前のように受け止めている現代の特徴だ。

それでもミレニアル世代らしさの点で興味深いと感じたのは、iPhoneのからみで自由貿易体制について触れたところだ。関税が事実上ない自由な貿易体制があればこそ、iPhoneのような高機能PCを、あの値段で世界中に供給することが可能になった。つまり、Facebookの成功にとって、ということはヒューズの経済的成功にとっても、iPhoneの登場こそが決定的だった。この見方は、ともすれば今日の情報社会の始まりを90年代半ばのNetscapeの登場あたりに定める歴史観自体が、旧世代に属したものであることに気づかせてくれる。

実際、iPhoneの普及によって、コンピュータの本格的なパーソナル化が実現した。個人からすれば「情報空間(サイバースペース)」に常にアクセスすることが可能になり、目の前に広がる物理的空間と同様に「自らの存在」を支えるものとして受け止めるようになった。つまり、「空間」がもう一つ広がったことになる。一方、そのスマートフォンならびにその上で稼働するアプリの提供者からすれば、個々のユーザーを、まさに個人単位で常時追跡することができるようになった。

自由貿易体制が生んだ情報社会

この社会的なコンディションの変化は、スマートフォン以前の世界からは想像できなかったことだ。デスクトップであれラップトップであれPCの時代は、そもそもPCの保有・利用に一定の制約があった。それはオフィスワーカーかそうでないか、という就労上の制約や、利用者にしてもPCの電源のオン/オフによる接続上の制約があった。その意味ではPCが社会に普及したといっても、その存在は「空間的にはまばら」で「時間的にはまだら」なものだった。

それを根底から覆したのがスマートフォンであり、そのパイオニアとしてのiPhoneであった。だが、そのiPhoneが、単に商品として登場するだけでなく、世界中に普及するためには、あれだけの高機能PCでありながらも、誰もが購入可能な「アフォーダブル」な価格が実現されなければならなかった。そして、その生産体制を築く上で、グローバルな自由貿易体制は欠かすことができなかった、というのがヒューズの理解だ。端的に、関税の有無・程度が、生産体制の柔軟かつ迅速な変化を可能にしたことになる。様々な部品の調達にかかる障害の多くが取り除かれていたから、という理解だ。

要するに、自由貿易体制がなければ、今あるような情報社会は現出していなかった、ということだ。もちろん、スマフォのグローバルな生産体制のことなら、「世界の工場」としての東アジアの台頭、とりわけ中国の躍進を考えれば、勘のいい人にとってはそれほど目新しいことではないかもしれない。

“iPhoneショック”とも呼ばれる2007年のiPhone登場は、IT業界のみならず、ライフスタイル、さらには経済にも大きなインパクトを残した。PHOTO:JUSTIN SULLIVAN/GETTY IMAGES

だが、ヒューズの議論で興味深いのは、そのグローバルな自由貿易体制が生み出されたのは、1970年代のアメリカで始まった、主には大企業による政治的反撃──後から見ればこれは「保守革命」の始まりだった──の後押しにあったとするところだ。

関連記事:現代アメリカを生み出した稀代の〈アングラー=釣り師〉ディック・チェイニー:映画『バイス』池田純一レヴュー

60年代のリンドン・ジョンソン大統領による“Great Society(偉大な社会)”を頂点にアメリカで極まった大きな政府による福祉国家路線に対して、大企業の経営者や資産家を中心に反撃が始まったのが70年代のアメリカであり、1980年のレーガン大統領の登場以来、その路線が基本的には今にまで継承されているという見方だ。

だからヒューズの成功も、元をたどれば、この70年代の企業の反撃にまで遡ることになる。となると、もしかしたらヒューズは、自分の経済的成功の背景に、このような企業主体の共和党による保守革命があったことに後ろ暗さを感じているのかもしれない。なぜなら、この「70年代から続く大企業による反撃」が、レーガン時代の大減税とともに、今日の「1%と99%」の対立を生み出したと見るのが通説だからだ。

効果的な利他主義のはじまり

先述のように、EITCの議論も、広い意味でこの保守化(というか「小さな政府」の追求)の中で見出された。ただし、GIにつながる「現金給付」の着想は、ヒューズが海外の開発支援のプログラムに触れている中で得たものだった。ここで、彼にその妥当性を気づかせた〈効果的な利他主義〉について見ておこう。

〈効果的な利他主義〉とは、思想というよりも実践的な運動のことだ。パイオニアのひとりとされるウィリアム・マッカスキル(オックスフォード大学准教授)の『〈効果的な利他主義〉宣言!』によれば、〈効果的な利他主義〉とは、慈善活動に科学的アプローチを採用する立場であり、データを重視し、そのデータを使って類似ケースとの比較を丁寧に行う「リゴラス(rigorous:計量的に厳密)」な方法論に基づく慈善活動への関わり方のことを指している。

マッカスキルの言葉を借りれば、「何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓う」立場だ。彼にとって「利他主義」とは、「(自分以外の)他の人びとの生活を向上させる」こと全般を指している。利他主義という言葉から通常連想される「自己犠牲」のニュアンスは皆無で、自分が快適な生活をしながら、第三者にとってよいことができるのなら、それに越したことはないというスタンスだ。また、「効果的」の部分は、「手持ちの資源でできるかぎりのよいことを行う」という意味であり、この立場は、善意のような動機よりも結果を重視する功利主義に立脚している。

この功利主義的立場は、もともとは実践倫理学の泰斗でプリンストン大学教授のピーター・シンガーの考え方に依拠している(シンガーも〈効果的な利他主義〉については、『あなたが救える命』などを著している)。なお、結果を重視する(帰結主義の立場をとる)功利主義に対して、行動の目的や動機を重視する立場もあり、そちらは義務論と呼ばれている。

哲学者、倫理学者であるピーター・シンガーは、功利主義の立場から倫理の問題を探求している。ザ・ニューヨーカー誌によって「最も影響力のある現代の哲学者」、2005年にタイム誌によって「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれた。PHOTO:THE AGE/GETTY IMAGES

ヒューズは直接、こうした倫理学上の立場の違いについては触れてはいないが、しかし、彼がGIの推奨に至った理由の一つは、アフリカを自ら訪れ、いくつかの支援状況を見て回った結果、GiveDirectlyのような現金給付型の支援プログラムの方が、従来型の教育機会や社会インフラを直接提供する支援プログラムよりも、現場における実効性の点で優れていると判断したからだった。つまり、「何が重要か」という判断について、支援先の人びとの考え方や優先順位の付け方に委ねることのできる現金給付の方が実効性が高いと判断した。

というのも、「まずはこのインフラから提供しよう」という、支援側によるパターナリスティックな判断は、現場における実践の段階で混乱をもたらすことも多く、端的に「そんなものをもらっても使いみちがない」と、支援された側が途方に暮れるケースも少なくないのだという。つまり、「善意の空回り」や「支援した側の意図を支援された側が理解できない」という問題が生じやすい。そのような「マッチングエラー」をなくすためにも、最も汎用性の高い現金を支給し、その使途については現地の人びとの判断に委ねる方がより効果的(effective)だということだ。

もちろん、すべての善意先行型の援助プログラムが空回りしている、というわけではない。あくまでも〈効果的な利他主義〉の立場は、その支援プログラムについて必ずフィードバックを得られるような仕組みづくりまで含めて支援をすべきだというもので、そのような「支援後の評価手法」を含めて「効果的」な慈善事業を行っているケースも実際に存在する(詳しくはマッカスキル本を参照して欲しい)。

興味深いことに、もともと〈効果的な利他主義〉の運動は、まさにヒューズのように、若くして多額の富を得た人びとが──多くはIT業界や金融業界などのNew Economy関係の人びと──が、その資産の一部を(もっといえば高給の一部を)どこかしら慈善事業に寄付したいと思っても、どこに寄付したらよいか、その活動結果を相互比較できるものが何もないことに気づいたところから始まった。ポートフォリオを組む際、ファンドマネージャーは企業の業績を相互比較した上で投資先を決めるものだが、それと同じ方法で寄付先を選ぼうとしたところ、そのような判断に足るような業績報告がなされていないことに気づいてしまった。そこから、投資先にアカウンタビリティを求めるような「客観的」で「リゴラス(厳密)」な方法論が採用されることになる。

そして、こうした〈効果的な利他主義〉的な寄付の態度が一つの運動として定着してきたということは、似たような疑問を抱き、似たような解決策を求めた人が一定数いたことを示している。その意味で確かに〈効果的な利他主義〉という立場は、インターネットの普及が社会的に一巡したところで自発的に生じた、公共的な課題解決のアプローチ方法なのである。ヒューズも、ITセクターで富を築いた一人らしく、リゴラスなアプローチを採用した結果、現金給付プログラムであるGIにたどりついたわけだ。

ルター派の教えにならった「善き社会」

このように本書は、よくよく見直すと、2010年代に入ってから顕著になった、インターネット以後の様々な社会構想がいくつも流れ込んでいる。少なくとも、インターネットではなくiPhoneにこそ断続的な変化を見出したミレニアル世代で共有された、社会構想の「定番的アプローチ」という点で参考になるところは多い。

特にヒューズの場合は、ザッカーバーグのように自らのヴィジョンに従って直接、社会を変えてみせたわけではないが、そのような成功者の傍らでネットワーク社会のポテンシャルを肌で感じてきた。彼が見聞きしてきたように、インターネット以後の世界では、思考は瞬く間に実践に結びつき、ムーブメントとして具体化され、逆にそのようなスケーラブルなものとなることを見越して思考も試みられる。現在のそのような状況のラフスケッチとして、この本を受け止めることもできるだろう。少なくともヒューズがパートナーに選んだミレニアル世代の面々は、ネットワークの進展によって社会の編成原理が変わりつつあることに敏感で、それゆえ従来の20世紀的な社会通念に楔を打つことに躊躇しない。彼らはそのモードの勢いを実感している。

とはいえ、ここまできてやはり気になるのは、ヒューズの求める「善き社会」が、彼の生い立ちに大きく規定されているのではないかということだ。

一般的にルター派は「社会的再分配」に対して積極的だ。実際、ルター派の多い北欧諸国では、再分配率が高い。たとえば大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』によれば、社会的な富の再分配率の高さは、同じキリスト教徒の中でも、ルター派>カトリック>カルヴァン派、の順になるのだという。暮らしやすい国といえば、北欧諸国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)の名があがるのも、彼らがルター派の多い国だから、というように説明される。本書を通読して感じるのは、クリス・ヒューズも似たような傾向をもっていると思えることだ。

そうでなければ、あとがきで、わざわざ「自分はただラッキーなだけだった」などとは語らないのではないか。そんなヒューズの「生真面目さ」は、読み進めていくうちに、時折息苦しくさせられることもあるのだが、その一方で、この「生真面目さ」があればこそ、彼の成功(と失敗)があったこともよく理解できてしまう。

となると、彼と同じ生真面目さを大多数の人びとに求めることができるのかどうかが、GIの成功の鍵を握るのかもしれない。というのも、一歩間違えれば「現金給付」の道は、70年代の共和党の保守層が望んだ「福祉からの離脱」に傾きかねないからだ。こんな懸念を抱いてしまうのは、今年に入ってから、ヒューズもGIの先行例として取り上げたアラスカ恒久基金(APF)に不穏な動きが出てきたからだ。

GIが問い直す20世紀のwelfare

昨年11月の中間選挙で新たにアラスカ州知事に選出されたマイク・ダンリーヴィー(共和党)は、基金からの住民への配当額を増加させる一方で、州政府予算の25%削減を打ち出した。その結果、州立大学などの教育予算が大幅に削減され、フェリーなど公共交通サービスで廃止が決まるものも現れた。実はアラスカには、州に収める所得税もなければ消費税もなく、州政府の予算は全面的に、APFと同様、石油と天然ガスの採掘に掛けられた税や使用手数料(ロイヤリティ)によってファイナンスされてきた。つまり、州の公共サービスの提供は事実上、州外の石油企業の業績に負っていたのである。

ベーシックインカムのモデルケースとして挙げられるアラスカ恒久基金だが、2018年の中間選挙でアラスカ州知事に選出された共和党のマイク・ダンリーヴィー就任以降、その施策は曲がり角に来ている。PHOTO:BLOOMBERG/GETTY IMAGES

ところが近年、この石油資源からの歳入が低下してしまった。そのため、ダンリーヴィーの前任のビル・ウォーカー州知事(民主党)は、住民向けの配当を減らして州政府予算の現状維持を試みたのだが、その施策の評判は悪く、2018年の州知事選では、配当を増額させることを公約に掲げたダンリーヴィーに敗れてしまった。つまり、構図的には、住民自らが、現金配当の増額を望む一方で福祉の削減による「小さな政府」の実現に助力したことになる。ちなみに、ダンリーヴィーの支援者には、リバタリアニズムの推進者である大富豪のコック(Koch)兄弟が控えているという話もあるようで、となると、彼らが望む「小さな政府」の実現にAPFが利用されたという見方にも一理あるように思えてしまう。そしてこの展開は70年代の保守派の夢でもあった。

ヒューズが掲げるGIにも、このような展開が全く生じないとはいえない。もちろん、彼自身は、多分このような事態を見越して、GIの適用対象に一定の制約をかけ、全市民を給付対象とするBI(ベーシックインカム)と一線を画すよう心がけている。そのようにGIの対象を絞った上で、GIの原資を富裕層への増税に限定し、そのモデルがルター派の「10分の1税」にあったことをほのめかしている。そうしてプログラムの設計思想の源泉を想像する手かがりを残している。

とはいえ、一度プログラムが走り始めれば、その解釈方法もまた、後続の人びと対して開かれる。ヒューズ自身、既存のEITCをベースにしたわけで、同じ「再定義の試み」は第三者によっても起こり得る。加えて、最近のキャッシュレス化の動きを見れば、現金給付は今後、より容易になっていく。ヒューズが注目した〈効果的な利他主義〉の発想も、より実践しやすい環境が整えられていく。となると、改めてヒューズの熱意を支える動機や彼を取り囲む慣習にも配慮する必要があるのではないか。彼のいうGIは、BIと違ってまったく「ユニバーサル(=普遍的)」ではなく、とことん「ローカル(=特殊的)」であることに、むしろ注目すべきなのだ。その「特殊」が「普遍」に見えてしまうのが情報化時代の「スケール」の詐術である。

本書を通じて、ヒューズに熱意があるのは十分わかったが、では、その熱意はどれくらい普通のものとしてアメリカ社会に受けいれられるのか。ミレニアル世代もそろそろ社会的に中堅を担うことを踏まえると、この問いは重要だ。おそらく彼らの試みは、より効果的な福祉プログラムの探索へと向かい、その結果、APFのように回り回って、旧来の福祉=welfareのあり方も変えてしまうのかもしれない。その時、ではwelfareに代わる言葉として何が見出されるのか、何と名付けられるのか。こうした概念の問い直しが、しばらくの間、実践の現場にもつきまとうことになる。そうしているうちに、今イメージするwelfareという概念が20世紀半ばの社会の産物であったことに改めて気づかされるはずである。