―私は私。他の誰とも比べたりしない。

結婚して、出産する前まではこんな風に考えていたのに。

子供を持ち母となって、劣等感と嫉妬心に苦しめられる女たち。

未だかつてない格差社会に突入した東京で、彼女たちをジワジワと追い込むのは「教育格差」だった。

大恋愛の果てに結婚したエミと、代々続く病院の医師と結婚した実沙子。高校時代の同級生だったふたりはそれぞれ、幸せの絶頂にいたはずだった。

しかし偶然の再会をきっかけに、エミと実沙子の幸せだった日常は少しずつ狂い始めていくー。

結婚により生活レベルが下がってしまった佐々木エミ。一方、リッチな家庭に嫁いだものの、夫の浮気疑惑浮上後、精神的に追い詰められていく森田実沙子。

エミは、夫と娘を愛しているのにもかかわらず、実沙子との再会によって、教育格差を実感。今まで感じたことのない焦燥感から、夫へ辛く当たってしまうのだった。




佐々木エミの夫・健太の変化


いつも側にいてくれる大事な家族こそ、一番大切にしなくてはいけない。

それなのに私は、外では愛想よく振る舞いながら、夫・健太のことは全く大切に出来ていなかった。

言い訳は山ほどある。

初めての育児と仕事の両立だけでも消耗しているのに、小さな娘が胃腸炎になり、夜中に突然嘔吐し始め朝まで眠れないこともあった。

その翌日、職場に気を使いながら仕事を休まなくてはならないのは、当然夫ではなく私の方だ。

またある時は娘が高熱で痙攣を起こし、救急車を呼ぶほどの事態になった。夫はオドオドするばかりで、あまり頼りにならなかった。

保育園で頻繁にウィルスをもらってくるのも、私が家でずっとりあを見ていないせいだと自分を責めながら、小さな小さな娘の体を必死で守るのに精一杯だったのだ。

その頃の私は、"完璧な母親"でいることに、あまりにも囚われていたからー。

だからあの朝、突然夫がドアの前で動けなくなってしまったことも、あまり気に留めていなかった。

「…健太?どうしたの?」

そう声をかけても、生気のない目で「ちょっと体調が悪い」とつぶやく夫の変化に気が付かなかったのだ。


仕事と育児の両立で夫への鬱憤がたまっていたエミ。実家に助けを求めるが…


愚痴を言っても、なぜか満たされない


「ねぇエミ、あなただけでも看病しに戻ってあげたら?」

りあをあやしながら、母が私を諭すように言った。

夫の健太が原因不明の体調不良で寝込み始めてから3日ほど経った日、私はりあを預けるため世田谷の実家に来ていた。

「看病ねぇ…でも、健太は熱があるわけじゃないのよ」

それは事実だった。

健太は、頭が痛い体がだるいとはいうものの熱があるわけではなく、ただただ寝込んで1日中家にいる。

寝込む夫を横目に一人だけ朝から晩まで余裕なく動いていた私は、日頃の鬱憤を晴らすかのように母に愚痴をぶちまけていた。




"子供の世話と健太の世話の上に仕事なんて無理"
"平日はほぼワンオペ育児"

自分の頑張りを理解してくれる人が欲しい、ただそれだけだった。

けれど母は、私に話を合わせ、一緒になって健太の悪口を言い始めたのだ。

「そうねぇ、ちょっと頼りないわよね。お姉ちゃんの旦那さんとは全然違うもの」
「熱もないのに寝込むのはおかしいわよね」

だが、共感してもらったはずなのに私の心は一向に晴れず、逆にモヤモヤとしたものが溜まってゆく。

自分から健太の愚痴を言ったはずなのに、姉の夫と比べられるとどうしても母に対する反抗心が芽生えた。

「…で、でもね、健太っていいところもあるのよ。週末は絶対りあと遊んでくれるし、子供が大好きで一緒になってお風呂ではしゃいだり。そうそう、私のご飯がいくら手抜きでも、文句も言ったことないのよ」

母の手前、必死になって夫の良いところを口走った私はハッとした。

ー健太、こんなにもいいところあるじゃない…。私、何で健太に感謝できなかったんだろう。

私は、思わず娘のりあを抱き寄せた。膝に乗せて、愛しい我が子の顔を見つめる。

健太にそっくりの大きな目と、スっと通った鼻筋。私に似ているとよく言われる口からお菓子をポロポロ食べこぼしながら、「ママ」と小さな手で抱きついてきた。

「…りあちゃん…」

途端にどうしようもない罪悪感に襲われる。私は、健太の良さを何も見てあげられていなかったのだ。

嫌な面ばかりが目についてしまい、彼に対して全く思いやりを持てていなかった。

でもこれからは違う。

心を入れ替えて、健太と力を合わせてりあを守らなくちゃー。



そう力強く決意したものの、健太との心の溝は、既に取り返しのつかないほどに深くなっていた。

そして気がつけば、私たちはお互いに、会話や接触を避けるようになったのだ。

そんなときは、ふと考えてしまう。

もし私が実沙子のように、働かずに子育てだけに集中出来たら、こんなことにはならなかったのに…。

実沙子のInstagramからは、相変わらずゆったりとした子育てをする様子が伺えた。

初めは羨ましいと思っていたが、ある時、1時間かけて用意したという離乳食の投稿を見てふと黒い本心が口をついて出てしまう。

「何これ。ただ、要領が悪いだけじゃない」

私は、自分の顔が醜く歪んでいることには、全く気がついていなかった。


徐々に仮面夫婦化していくエミと健太。一方、円形脱毛症になってしまった実沙子は?


私はダメな母親です


髪は女の命。

それなのに、私の後頭部からは、いつの間にか髪の毛が抜けてしまっていたのです。

人から見たら目立たない場所ですが、私は焦り、急いで皮膚科のお医者様のところに駆け込みました。

もちろん、夫である昌幸さんには内緒です。

ただでさえ、すでに友達のような夫婦関係であるというのに、これではますます女として見られなくなってしまう。

それに、最近の夫はどんどんと痩せて、とても快活になりました。

そんな昌幸さんを見て、お義母様も喜んでらっしゃいます。でもそれは私ではなく、きっと他の誰かのおかげなのです。

お義母様から見たら、息子が輝いていれば、その影の功労者が誰であっても全く構わないのでしょう。

ですから私は、やはりみなみのために生きるしかありません。

「ストレスでしょうね」

お医者様は、そう仰いました。

産後の女性の毛が薄くなるのはよくあることだし、慣れない育児のストレスが原因の可能性もあるとのことで、初診時には血液検査までしてくださり、様々な治療法を提案してくださいました。

「ストレス…」

自宅のリビングでお医者様の言葉を思い出しながら、ふと考えてしまいます。

ーこれほど恵まれた環境を与えられている私は、幸せ者のはずだ。

お掃除の方によって整えられた、まるでホテルのスイートルームのようなリビング。私たちの生活をあれこれサポートしてくださるマンションのコンシェルジュの方。

お義母様は難しい方ですが、優しいところもあるのです。

「これ、みんなで食べてちょうだい」

そう言って、どこかに出かけるたびにお菓子やお土産を必ず我が家へお持ちになります。

昨日も『アトリエ うかい』のお菓子をくださったし、私にもちょっとしたアクセサリーやバッグなどを「似合いそう」と買ってきてくださったり。私の負担を考え、どこに行くにも移動は絶対にタクシーを使いなさいとも仰います。




それに、みなみという素晴らしい娘を授かれたというのに、こんなに贅沢な暮らしをさせてもらっているというのに、ストレスなんて感じて良いわけがありません。

お義母様が最近よくおっしゃる幼稚園受験のプレッシャーなんて、たいしたことないはずです。

でも、やはり限界だったのでしょうね。

ある日。

せっかく丹精込めて作った離乳食をテーブルの下にぶちまけたみなみに、私はつい「何してるの!!」と大声をあげてしまったのです。

その日は珍しく昌幸さんもいたというのに。

私はパニックになり、私の大きな声に怯えて泣き出すみなみを見て、自己嫌悪でいたたまれなくなりました。

「なんて悪い母親なの、なんて最低な母親なの!!」

洗面所に駆け込み、気がついたら、私は自分で自分の髪の毛を強く強く引っ張っていました。


実沙子の様子を見た夫・昌幸の提案とは?


埋まらない心の隙間


「実沙子、実沙子!どうしたの!!」

夫は洗面所にうずくまる私の様子を見て、色々と察したのでしょう。私を責めるようなことは、一切言いませんでした。

それで私は思わず、円形脱毛症になっていることを打ち明けました。

昌幸さんはみなみを抱きながらウンウンと聞いてくれ、そのうちに落ち着いた私にそっとみなみを抱かせてくれます。

ずっと我慢していたお義母様のこと、育児や来る受験のプレッシャーなど、私は思っていたことを全て話しました。

そしてその話を、昌幸さんは全て否定することなくきちんと聞いてくれたのです。

ーなんて優しい夫だろう。

そして、私は勇気を出して、ずっと気になっていたことを伝えます。

「昌幸さん、あのね。最近とっても痩せたり、素敵になって…。少し変わったわよね。それに私たちも、その、あまり一緒に過ごす時間も減ったわよね」

私なりに、暗に夫婦生活がなくなったことを訴えたつもりでした。

すると昌幸さんは驚いたような顔をして、その後すぐにいつもの優しい表情に戻ります。

「実沙子、だいぶストレスが溜まっているね。そうだ、こうしよう。お掃除の人の他に、少しベビーシッターさんを呼ぼうか。それからね、出張でエステやネイルをしてくれる人が最近はいるみたいだから、そういった人も呼んであげよう。子育てを頑張りすぎてるんだ、少し自分にご褒美をあげなくちゃ」

昌幸さんはそう言って、私を抱き寄せ、子供のように肩を叩きました。

ーたった今私が訴えたことは、無視されたのかしら…?

「今まで一人で頑張らせてごめんね。これからみなみの受験もあるというのに。いつもお疲れ様、実沙子」

とてもとても優しいセリフのはずなのに、夫は私が本当に聞きたいことから話を逸らしていました。それはまるで、心の繋がりを拒否されたようです。

私は悲しくなって、1人の時間が欲しいから少しみなみを見ていて欲しいとだけ言い、お顔を整えてふらりとタクシーに乗り込みました。

車の中でふとInstagramを見ると、かわいい娘さんとの2ショット写真をアップするエミの投稿が目に入りました。

どこかのショッピングモールでしょうか。学生の時と変わらない美しさで、とてもママには見えない若さです。髪の毛もツヤツヤしているし、写真はきっとご主人が撮ったのでしょう。

その写真を見ていると、胸がきつくきつく痛みはじめました。そして自分でも信じられないくらい意地の悪い気持ちになってしまうのです。

「母親のくせに、子供の顔を平気でInstagramに載せるなんて信じられない。それに自分も載せるなんて、相当自分に自信があるのね」

ふと芽生えた感情に嫌悪感を抱いた私は、目に付いたカフェの前で車を止めてもらい、この寒さで誰もいないテラス席に座りました。

ヒーターもブランケットも、そしてちょうど後頭部を隠してくれる帽子をかぶっているのもあり、全く寒くありません。

オーダーしたカフェラテを一口飲むと、なぜか涙がポロポロ、ととめどなく溢れてきてしまいました。




すると、店員の若い男の子が私に声をかけてきます。

「大丈夫ですか?」

手にはナプキンを持って、心底心配そうにこちらを覗き込むので、私は思わず「ちょっと子育てが大変で…」と口を滑らせてしまいました。

彼は、とてもとても優しい目で私を見つめながらこう言います。

「そうだったんですね…。僕の姉も、子供を産んだばかりの時はとても大変でしたよ。眠れないし、自分の時間も全くないって。本当に、お疲れ様です」

夫の”お疲れ様”と違い、彼の言葉からは本気で私を労ってくれている気持ちが伝わり、

私は再度流れる涙を一生懸命拭うのでした。

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良い母親になり、良い教育を与えたいと願う2人。娘たちが大きくなるに従い、それが容易ではなくなっていく。