新日本プロレス旗揚げ当初、日本プロレスのエースだった坂口征二を「片手で3分」で倒すと豪語したアントニオ猪木。実際の両者の対戦でも6勝1敗3分と猪木が大きく勝ち越している中で、唯一、坂口が勝利したのが1986年5月30日、広島での一戦であった。

 プロレスに限ったことではなくスポーツや芸能全般において、興行関係者の間でかつて“三種の神器”と呼ばれたのが宗教団体、在日組織、そして暴力団の3つであったという。
 宗教団体と在日組織はその強い結束による観客動員力、つまりチケットのまとめ買いを見込んでのこと。また、今のようにチケットのネット販売がなく、手売りが当たり前だった時代、暴力団のネットワークによる販売力は興行成功のために欠かせないものだった。

 プロレスにおいてはそうした組織の影響が、あからさまにリング上に影響することもある。
 「誰とは言えませんが、普段は前座で目立たない選手がある決まった地域での試合に限って、見せ場たっぷりの活躍をすることがある。なぜかといえば、その土地の有力者のお気に入り選手なわけです」(スポーツ紙記者)

 それとは逆に、ある地域に限っては成績が振るわないということもある。例えば、広島でのアントニオ猪木だ。スタン・ハンセンに逆ラリアットからの逆さ抑え込みで勝利したNWF王座戦の印象が強く('80年9月25日、広島県立体育館)、猪木と広島の相性が悪いとは思わないファンも多いだろう。
 だが、あらためて成績を振り返ると、タイガー・ジェット・シンとのNWF王座決定戦におけるピンフォール負け('75年3月13日)や、アンドレ・ザ・ジャイアントに秒殺リングアウト負けした第5回MSGシリーズ('82年3月26日)など、手痛い敗戦も目立つ。
 「アンドレに負けた試合はテレビ生中継の時間がなくなったため、早期決着を図ったというのが真相でしょうが、あまりの呆気なさに暴動騒ぎにまでなりました。また、このときは膝の負傷を理由に決勝戦を欠場しています(結果、繰り上がりで決勝進出したキラー・カーンをアンドレが下して初優勝)」(同)
 さらに'77年11月29日には、グレート・アントニオを相手に反則負け(伝説の不穏KO勝利の前哨戦)を喫し、この敗戦により、それまで続いていた猪木のシングル戦100連勝(格闘技戦や引き分けを含む)がストップしている。

 猪木の生涯シングル戦績が612勝41敗50分けであることからしても、広島での敗戦の多さは際立っている。しかし、だからといって猪木が、広島で嫌われていたということではない。
 「広島は地元組織が地域にしっかりと根ざしていて、常に安定した興行が打てる。その返礼として看板カードを提供するのですが、シリーズの山場を大阪や東京の大会場に持っていくには、広島あたりで“猪木敗戦”のようなアクシデントが起きると、ちょうどいいアクセントになるわけです」(プロレスライター)

 猪木と坂口の初対決('74年4月26日、時間切れ引き分け)が広島であったことも、そうした事情が関係している。
 「猪木と坂口という団体トップの直接対決を大都市の大会場で行うとなると、どうしても“雌雄を決する大一番”の色合いが出てしまう。'78年4月21日、蔵前国技館で行われた第1回MSGシリーズ開幕戦でも、延長、再延長の激闘の末にようやく猪木がリングアウト勝ちを収めています。その点、シリーズ途中の広島ならば、勝っても負けても次につなげることができるし、普段は陰に隠れがちだった坂口に花を持たせるにも具合がいいわけです」(同)

 とりわけ印象深いのは坂口の初勝利となった'86年5月30日のIWGPリーグ戦であろう。
 WWFとの提携解消により外国人レスラーの顔触れは大きくスケールダウン。下剋上を狙う藤波辰爾も負傷欠場とあって、無風のままの猪木優勝が予想されていたところに、勇躍立ちはだかったのが坂口であった。
 セミファイナルに組まれた両雄の一戦。メインは藤波&木村健吾にディック・マードック&マスクド・スーパースターが挑戦したIWGPタッグ王座戦であった。

 シリーズ前に写真誌で不倫報道をされた件により、猪木は丸坊主姿でリングに臨んだが、坂口は序盤からパワーファイトで押しまくる。対する猪木もラフファイトで対抗し、起死回生の延髄斬り。
 これにふらつきながらもアトミックドロップの態勢に持ち込んだ坂口は、バランスを崩してロープ最上段に猪木を投げ捨てる恰好になる。すると、このとき股間を強打した猪木が場外で悶絶する間にカウントが進み、坂口が勝利を収めたのであった。
 「ただ猪木が計算高いのは、この日、前田日明とアンドレ(リーグ戦不参加で特別参戦)のタッグ戦を組んだこと。伝説の不穏試合以来となる対戦に話題を持っていくことで、自分の負けの印象を薄めさせる意図があったのでしょう」(同)

 むろんこのIWGPリーグ戦も、結局は猪木の優勝で幕を閉じたのだった。