表現の自由は生きる自由だ。今こそ「選挙2」
選挙カーのガソリン代やポスターは税金でできている。
ポスターの公費負担の上限は70万円だそうだ。高っけー。
現在公開中のドキュメンタリー映画「選挙2」(想田和弘監督)を見て知りました。
この映画、2011年、川崎市議会選挙に立候補し、選挙費用総額8万4720円という実に質素倹約的な活動をした山内和彦を追ったものだ。
山内は05年の川崎市議会宮前区補欠選挙では自民党公認候補で、当選もしている。そのときの様子は「選挙」という最初の映画として記録されている。当時、小泉純一郎が彼の応援演説をするほど華々しく多数派だった彼が、11年では完全なる無所属。なぜ?
山内は、きちんと主義主張した選挙活動をしたいと考えたのだ。
え、候補者は選挙の際に、主義主張するのが当然じゃないの? と思うが、考えてみたら、そんなことをしている人をあまり見たことない。たいていわいわい自分の名前を連呼しているだけだ。なんでそうなのかは映画を見ているとわかってくる。
候補者に投票するのは国民だけど、その我々が候補者のことをよくわかっていない。それでいいの? と映画を見ていると、いてもたってもいられなくなる。
もっと知りたい、選挙の仕組みを! 候補者たちのことを!
「選挙2」はその欲望に火をつける。
山内が映画の中で主張するのは「脱原発」だ。
映画は2011年の4月10日の投開票に向けての活動を追ったもので、3.11の直後、マスクをして歩く川崎市民の姿がたくさん映っているし、山内と関係者たちも放射能汚染の話題を深刻に語り合っている。
あれから2年経った今見ると、まだまだこの頃の深刻な状況を忘れてはならないし、この問題をどう解決するかが政治の最重要課題であると改めて思わされる。
山内が関係者や監督の想田和弘と、日本の状況を冗談まじりながら、その実、かなりシビアに憂う様が延々映し出されるところは、「観察映画」といわれる想田監督作品らしい。なんといっても、車の中で山内がしゃべっているアップの分量の多さよ。
が、しかし、彼のパーソナルと語りが魅力的でそれだけでグイグイ引き込まれていく。
安く作ったポスターにいたずらされたものを貼り直す姿や、街の人と震災のことを語り合う姿などを見ていると、いろいろな思いが立ち上り、見る人の数だけ無限の見方を提示してくれる映画なのである。
前作「選挙」でも秀逸だった妻との生々しい会話も「選挙2」でも健在だ。妻さゆりの選挙への率直な疑問や疲労などが、映画のスパイスになっているが、これは、監督・想田が山内と大学(東大)時代からの友人であるからこそ撮れたものだろう。もっとも奥さんは想田の撮り方に対して思うところがあるらしい。それだけ生々しいのである。必見。
こんなふうに、想田のドキュメンタリーは、基本、台本一切なしで、ただひたすら目の前の状況を撮影していくことで、見る人に何を感じるか託す。「観察映画」と名乗る所以である。ところが、「選挙2」はひと味違っていた。
この映画には「観察」を超えてしまう瞬間があるのだ。
山内以外の候補者のことも撮影しようとする想田に対して撮影拒否する候補者がいて、彼らと想田が闘う。そこがかなりのハラハラ場面。どうなる?
国民の税金を使って選挙活動している公人の活動を取材し報道することは自由であるし、そもそもの「表現の自由」を想田は主張する。そう、監督も山内同様、自分の主義主張していくのだ。
もはや淡々と「観察」だけしていられない。
言葉や行動に出さなくてはいられないところまで来てしまった。
そんなこの国の惨状を感じながら、どうすりゃいいのか、映画と一緒に考えたくて画面の隅々に答えなのかエネルギーなのか何かを探して見続けてしまう。
もっと知りたい、選挙の仕組みを! 候補者たちのことを! と同様に、
もっと知りたい、日本の現状を! どうしたら生きやすくなるのかを! 「選挙2」はその欲望にも火をつける。
映画の中で、山内や想田のやり方に共鳴する候補者も登場してくるところには、少しの希望の光も感じる。
例えば、おだかつひさが、地方議員は公職選挙法で政策を語れず「おはよう」の挨拶しか街頭でできないと問題点を語る。と同時に、その隙間に名前をしっかり滑り込ませるというテクニックを見せるところなどは、この人物のキャラクター性が出ていて痛快だ。
山内や想田は映画の外でも孤軍奮闘している。
その例のひとつが「選挙2」公開にあたり、日比谷図書館で前作「選挙」を上映する企画が、突如として千代田区から中止を求められた事件である。
理由は「参院選の前にセンシティブな内容の映画を上映することは難しいところがある。こわい。映画が選挙制度そのものについて一石を投じる内容になってしまっている。議論が起きること自体が好ましくない。過去に苦情等のトラブルが生じたこともある」というものだった。
想田監督のブログより。
結局、主催を配給会社の単独にして上映は敢行され(満員で帰らざるを得ない人までいたほどの盛況だった)、監督はそのことに対して区の人に上映後のトークショーで対話をしたいと申し出たものの、当事者は現れることはなかった。
トークショーで想田は、「知りたいことを知ることができることが民主主義の根幹だ」と言い、図書館という「資料収集の自由を有する。/図書館は資料提供の自由を有する。/図書館は利用者の秘密を守る。/図書館はすべての検閲に反対する。」という「図書館の自由に関する宣言」を出している施設にも関わらず、映画の上映に疑問を呈することに対して問題視した。
選挙に関する映画を上映するより、それに懸念を示すほうが「こわい」。
このまま、いろんなことを他人任せっぱなしにしていると、どんどんがんじがらめにされちゃいそうだ。主義主張の自由や表現の自由どころか、生きる自由がなくなる前に、ちょっと選挙について考えてみませんか。(木俣 冬)
ポスターの公費負担の上限は70万円だそうだ。高っけー。
現在公開中のドキュメンタリー映画「選挙2」(想田和弘監督)を見て知りました。
この映画、2011年、川崎市議会選挙に立候補し、選挙費用総額8万4720円という実に質素倹約的な活動をした山内和彦を追ったものだ。
山内は05年の川崎市議会宮前区補欠選挙では自民党公認候補で、当選もしている。そのときの様子は「選挙」という最初の映画として記録されている。当時、小泉純一郎が彼の応援演説をするほど華々しく多数派だった彼が、11年では完全なる無所属。なぜ?
山内は、きちんと主義主張した選挙活動をしたいと考えたのだ。
え、候補者は選挙の際に、主義主張するのが当然じゃないの? と思うが、考えてみたら、そんなことをしている人をあまり見たことない。たいていわいわい自分の名前を連呼しているだけだ。なんでそうなのかは映画を見ているとわかってくる。
候補者に投票するのは国民だけど、その我々が候補者のことをよくわかっていない。それでいいの? と映画を見ていると、いてもたってもいられなくなる。
もっと知りたい、選挙の仕組みを! 候補者たちのことを!
「選挙2」はその欲望に火をつける。
映画は2011年の4月10日の投開票に向けての活動を追ったもので、3.11の直後、マスクをして歩く川崎市民の姿がたくさん映っているし、山内と関係者たちも放射能汚染の話題を深刻に語り合っている。
あれから2年経った今見ると、まだまだこの頃の深刻な状況を忘れてはならないし、この問題をどう解決するかが政治の最重要課題であると改めて思わされる。
山内が関係者や監督の想田和弘と、日本の状況を冗談まじりながら、その実、かなりシビアに憂う様が延々映し出されるところは、「観察映画」といわれる想田監督作品らしい。なんといっても、車の中で山内がしゃべっているアップの分量の多さよ。
が、しかし、彼のパーソナルと語りが魅力的でそれだけでグイグイ引き込まれていく。
安く作ったポスターにいたずらされたものを貼り直す姿や、街の人と震災のことを語り合う姿などを見ていると、いろいろな思いが立ち上り、見る人の数だけ無限の見方を提示してくれる映画なのである。
前作「選挙」でも秀逸だった妻との生々しい会話も「選挙2」でも健在だ。妻さゆりの選挙への率直な疑問や疲労などが、映画のスパイスになっているが、これは、監督・想田が山内と大学(東大)時代からの友人であるからこそ撮れたものだろう。もっとも奥さんは想田の撮り方に対して思うところがあるらしい。それだけ生々しいのである。必見。
こんなふうに、想田のドキュメンタリーは、基本、台本一切なしで、ただひたすら目の前の状況を撮影していくことで、見る人に何を感じるか託す。「観察映画」と名乗る所以である。ところが、「選挙2」はひと味違っていた。
この映画には「観察」を超えてしまう瞬間があるのだ。
山内以外の候補者のことも撮影しようとする想田に対して撮影拒否する候補者がいて、彼らと想田が闘う。そこがかなりのハラハラ場面。どうなる?
国民の税金を使って選挙活動している公人の活動を取材し報道することは自由であるし、そもそもの「表現の自由」を想田は主張する。そう、監督も山内同様、自分の主義主張していくのだ。
もはや淡々と「観察」だけしていられない。
言葉や行動に出さなくてはいられないところまで来てしまった。
そんなこの国の惨状を感じながら、どうすりゃいいのか、映画と一緒に考えたくて画面の隅々に答えなのかエネルギーなのか何かを探して見続けてしまう。
もっと知りたい、選挙の仕組みを! 候補者たちのことを! と同様に、
もっと知りたい、日本の現状を! どうしたら生きやすくなるのかを! 「選挙2」はその欲望にも火をつける。
映画の中で、山内や想田のやり方に共鳴する候補者も登場してくるところには、少しの希望の光も感じる。
例えば、おだかつひさが、地方議員は公職選挙法で政策を語れず「おはよう」の挨拶しか街頭でできないと問題点を語る。と同時に、その隙間に名前をしっかり滑り込ませるというテクニックを見せるところなどは、この人物のキャラクター性が出ていて痛快だ。
山内や想田は映画の外でも孤軍奮闘している。
その例のひとつが「選挙2」公開にあたり、日比谷図書館で前作「選挙」を上映する企画が、突如として千代田区から中止を求められた事件である。
理由は「参院選の前にセンシティブな内容の映画を上映することは難しいところがある。こわい。映画が選挙制度そのものについて一石を投じる内容になってしまっている。議論が起きること自体が好ましくない。過去に苦情等のトラブルが生じたこともある」というものだった。
想田監督のブログより。
結局、主催を配給会社の単独にして上映は敢行され(満員で帰らざるを得ない人までいたほどの盛況だった)、監督はそのことに対して区の人に上映後のトークショーで対話をしたいと申し出たものの、当事者は現れることはなかった。
トークショーで想田は、「知りたいことを知ることができることが民主主義の根幹だ」と言い、図書館という「資料収集の自由を有する。/図書館は資料提供の自由を有する。/図書館は利用者の秘密を守る。/図書館はすべての検閲に反対する。」という「図書館の自由に関する宣言」を出している施設にも関わらず、映画の上映に疑問を呈することに対して問題視した。
選挙に関する映画を上映するより、それに懸念を示すほうが「こわい」。
このまま、いろんなことを他人任せっぱなしにしていると、どんどんがんじがらめにされちゃいそうだ。主義主張の自由や表現の自由どころか、生きる自由がなくなる前に、ちょっと選挙について考えてみませんか。(木俣 冬)