/鸚鵡はよくしゃべるが、ろくに自分で飛べはしない。真実を包み隠し、ウソを売り付ける煙幕のような語りは、身辺から遠ざけよう。神様は、無言の努力のみを聞き届ける。天使は、沈黙の恭順にこそ囁き掛ける。/

 先日、ラジオの仕事をさせていただいた。だが、限られた時間で、聞いてくれている人たちに伝えたいことを伝えようと、もがけばもがくほど空回りする。きっと、ほんとうに伝えるべきことは言葉ではないからだろう。

 『自転車泥棒』という古いイタリアの映画がある。なけなしのカネでようやくに手に入れた自転車を人に盗まれ、仕事ができなくなってしまった父親が、止むに止まれず、そこにあった自転車を盗み、自分の子の目の前で人々に捕まり、なじられ、こづき廻される。どうにか許されたものの、父親も子も、もはや言葉も無い。ただ手を握り、その手を握り返す。父には子の、子には父の気持が痛いほどわかっている。だからこそ、なんの言葉にもできない。

 テレビや雑誌には、気の利いたひねくれごとを喚き散らして、してやったりと悦に入っている連中が溢れかえっている。だが、そんなことをしたところで、世の中はなにも変わらない。概して声の大きいやつは、世の大勢ですらない。外野のヤジは、しょせんガス抜き。鸚鵡はよくしゃべるが、ろくに自分で飛べはしない。べらべらと能弁に語っていることからして、すべてどこかのだれかの受け売り。それを時代の指導者だ、予言者だ、とありがたがるのは、まさにエラスムスやブリューゲルの言う痴愚神礼賛。

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