文章は自らの気持ちとは異なり、ひたすら型にはまることこそが重要である。

昨日は午後からある勉強会で話し(といいますかインタビューを受け)、そのあと食事。さらに、ちょっといろいろと話すことがあったので、場所を居酒屋に移す。

そこの店員が融通が利かない。驚くべきほどだ。「注文いいですか」「ちょっと待ってください」「あの、もうそろそろ注文いいですか」「あ、はい。えっと。あ、伝票もってきます」「さっきも同じこといったろ」。いや、きっと融通が利かないのではなく、無能なだけだろう。

たったの一つか二つの注文であるからして、記憶すればいいものを必ず伝票を取りにゆき、しかも多くの場合は伝票を取りに行ったことも忘れて、違うお客のところへゆく。しかし、面白いことに、店全体の雰囲気は悪くない。他の店員は、その無能な店員を励まし、なんだか和やかな感すらある。

まあ、考えるに、その店員の無能さも許せないほどではない。微笑ましい馬鹿がいた、と思えば良いではないか。それに、その馬鹿のおかげで、他の店員の結束力が増しているといえなくもない。

現状のささいなネタから人生訓を読み解く。わあ、これはなんだか新聞記者が書く、陳腐な文章のようではないか。一度やってみよう。

<先日、飲食店で食事をした。そこで店員に注文しようとするのだが、フロアにいた店員(彼女)は多忙ゆえか私の声がなかなか届かない。ときには、私に注文を訊きに来ることを失念さえしている。厨房から他の店員がお詫びとともに私の元に駆けつけ、彼女の代わりに私の注文を訊いてくれた。

続きはこちら