/この世に生きているということは、すでにチャンスが先払いされている。つまり、すでに報酬は得てしまっているのであり、これにどう応えるか、こそが問題なのだ。甘い自分に酔って日々の努力を怠れば、この世に生きた証(あかし)を失う。/

 卒業して十年、二十年、三十年という節目ともなると、誰からともなく、同窓会をやろうか、という話になる。あいつはどうしているだろうか、というとき、運動会で、学園祭で、修学旅行で、そしてまた、映画やドライブに行ったり、夜遅くまで公園で無駄話をしたりして、生き生きと活躍していた友だちの顔が次々と思い出される。

 成績のことも、勝敗のことも、よく憶えてはいない。あのときはそれが日々の目標であったはずなのに、今となっては、まるで他人ごと。だいいち、しょせん学生生活で、成績がAでもBでも、勝敗が3位でも4位でも、結局、その後の人生には大差ない。とにかくよくがんばった、辛かったけれど、楽しかった、という思いしか残らないのだ。

 球を打ってホームランになるか、白いファウルポールの外側にそれるかは、飛んできた球にもよる。試験、試合、仕事は、問題次第、相手次第、景気次第。もちろん、それを見極めるのも技量のうちだが、それでも、結果は運不運でどちらにも転ぶ。しかし、だからといって、バットを振らずに、ただ球を見送るのか。せっかくバッターボックスに立てたチャンスをドブに捨てるのか。

 そう、ちんたらと努力などしていられること自体、すでに相当に恵まれているのだ。世の中には、体調悪しく、わずかの努力も無理な人がいる。家族の世話など、より大切なことに追われている人がいる。それどころか、あなたのその年になる前に、事故や病気、災害で亡くなってしまった人も大勢いる。それを思えば、勉強でも、運動でも、仕事でも、集中して努力できる余裕が与えられた時点で、すでに大きなチャンスをつかんでいる。


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