【沖縄発】 百年に一度の難局であるなら、百年に一度の価値転換をはかるとき。相も変わらず、人は量的な尺度で人生の成功・不成功、幸・不幸を判定するのでしょうか?


杜甫の詩『春望』のあまりに有名な一節:

「国破れて山河在り、城春にして草木深し・・・」

(争いによって国はなくなってしまったが、
山や河は変わらずそこにある。
城内では春が訪れ草木が青く茂っている)

春の陽光にキラキラ輝く沖縄の海をみていると、
百年に一度といわれる金融危機などどこにいったものやら
自然は悠久の昔と変わらぬ穏やかな姿をとどめている。

この金融危機がほんとうに百年に一度の難局であるならば、
人びとは同時に、百年に一度の価値観の転換をはからなければならないと思います。

量的な多寡で、人の生き方までをも「勝ち負け」で判定するやり方は
見直さなければならない。
量的な「競争」はいつしか「狂走」へと変貌してしまいました。

次の時代は、個々の人間・個々の組織・個々の国が「自分なりをひらく」ことを、
互いが尊重し合い、刺激し合い、そしていい意味で競い合うといった
質的な「共創・競創」の価値観が醸成されることを願います。

「自分なりをひらく」といった場合の、“ひらく”とは、

・個々が自らの才能を嬉々として“啓く”
・個々が生きる目的意識を(共通善=common good)へと“開く”
・個々が己の進む道をたくましく“拓く”

といった意味です。

「自分なり」を突き詰めることは、ややもすると利己主義に陥る危険性があります。
ですから、私は「自分なり」を“ひらく”ことが大事な観点だと思っています。
“ひらく”という意識と行動は、賢者のものです。


以下は、
2つの価値観:「勝ち負け」VS「自分なりをひらく」の目線からみた対比です。
さて、これをご覧のみなさんは現状どちらに近いでしょうか?

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□「勝ち・負け」キャリアの目線

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