86歳で亡くなった板東さん

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 元プロ野球の中日ドラゴンズのエースで、タレントしても活躍した板東英二さんが7月22日に慢性心不全のために死去。86歳だった。徳島商のエースとして準優勝に導いた1958年夏の甲子園大会では、準々決勝で延長18回を投げて25奪三振を奪うなど6試合63イニングで83奪三振は現在も残る大会記録となっている。その板東さんが生前、「もしも甲子園に出場していなかったら…」という仮定で自身について語ったことがあった――。【前後編の前編】

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 甲子園で大活躍した板東さんは、ドラフトがなかったことでプロ球団の争奪戦となり、当時では破格の契約金2000万円となった。長嶋茂雄や王貞治より高かったというのが板東さんの自慢のひとつだった。プロ野球では11年間で77勝をマークしたが、29歳の若さで引退。野球解説者の一方で、ラジオ番組のパーソナリティやバラエティー、ドラマ出演など活動の幅を広げていった。

小学校で「テストはいつも100点」だった理由

 板東さんは本誌・週刊ポストの誌面にもたびたび登場。野球、芸能、株などの話題を提供したが、6年前には「もしも甲子園に出場してなかったら」との質問にこう答えていた。

「間違いなく学校の先生になっていたでしょうね。できれば中学校で教えたいところですが、ボクの学力では小学生相手に楽しくやるのがいい。この夢は小学校の頃から持っていました。

 ボクは終戦後、満州から引き上げてきたんですが、引き上げ船の中で大人たちが掛け算や割り算、漢字まで教えてくれた。徳島の板東町の小学校に入学した時は、田舎の子供の中ではズバ抜けて勉強ができたんです。それで1年1組の級長に選ばれた。担任の女性の先生も可愛がってくれて、放課後に残って掲示板に絵を貼ったり、ガリ版でプリントを作る手伝いをしていました。当時から目ざとかったんでしょうね、女性の教師の横にずっとくっついていました。

 ガリ版でテストを作るのも手伝ったりして、その時に先生という職業に憧れた。テストもいつも100点。それもそのはず、テスト問題を全部見ているわけですからね(笑)」

 板東さんの話にはいつもオチがついていた。そして、幼い頃に貧しかったという話もよく聞かせてもらった。

「うちは貧乏でしたが、兄と姉が奨学金をもらって大学に進学していたし、すぐ上の姉は看護学校に養成員で通っていたから学費がかからなかった。だからボクも奨学金をもらって大学を出て、教員になるつもりでした。

 大学も大阪なら関西大、東京なら中央大と決めていました。兄が受験して受かった大学ですけどね……。教師への憧れもあったが、貧乏が辛いこともわかっていたんだと思います」

 職業として野球を選ぶとは夢にも思わなかったという板東さん。野球を始めたきっかけを聞くと、そこでもまた意外な答えが返ってきた。

【後編へ続く】

◆取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)