江川卓が稀代のヒットメーカーに投じた幻の一球 空振りした田尾安志は呆然と立ち尽くした
連載 怪物・江川卓伝〜田尾安志だからこそ知る大エースの弱さ(後編)
田尾安志は稀代のヒットメーカーとして、80年代前半のセ・リーグを席巻するほどの好打者だった。あのイチローが小学生の頃に憧れた選手だけあって、引っ張ってよし、流してよしの、広角打法を絵に描いたようなバッティングで、毎年のように首位打者争いを演じてきた。
1991年に現役を引退した田尾安志 photo by Sankei Visual
田尾は1978年にドラフト1位で入団し、ルーキーイヤーからライトのポジションを獲り、不動の1番打者として活躍。1984年のオフに電撃トレードで西武に移籍。中日の数少ない全国区の看板選手だっただけに、このトレードは球界を揺るがした。その後、87年に阪神に移籍し、91年まで現役を続けた。
84年に西武の監督だった広岡達朗から、以前こんな話を聞いたことがある。
「いつも田尾は、試合前の移動のバスの中でイヤホンをつけて、音楽を聴いていた。当時、こういうリラックス法もあるんだと思い、感心したことがある」
名将・広岡を驚かせるほど、当時の田尾はいろんな意味で影響を与える野球人だった。
とにかく田尾は、自分の信念に基づいて、野球をやっていた。バッティングにおいても、独自の理論はもとより、投手のクセを見破るのが得意だった。
「江川のフォームはオーソドックスで、テイクバックが小さいですよね。クセを見抜いたときもあったんですよ。だけど江川は、クセを見抜かれているのをわかっていて投げていた。大体、ワインドアップで投げるピッチャーは、なんらかのクセが出ます。
たとえば、セットに入るときのグラブの位置でスライダーかシュートというピッチャーはいます。その場合、状況やカウントによってどちらかに絞るわけです。江川の場合は、ワインドアップ時に腕を上げる際、両ヒジが開くときは真っすぐだったのですが、バレたとしても打たれないから気にしなかったんでしょうね」
江川は剛腕でありながら、クレバーさも兼ね備えていた。打者心理を読むのがうまく、駆け引きも一級品だった。おそらく、高校、大学の異常とも言える登板数のなかで、肩に負担がかからないようにどう投げるかを考え、そうして投球術を身につけていった。だからこそ、ストレートとカーブの二種類だけで、プロのバッターと対峙できたのだろう。
【田尾に投じた幻の一球】田尾に江川の球種について尋ねると、こんなエピソードを教えてくれた。
「江川って真っすぐとカーブの二種類しかないのに、僕にだけフォークを1球投げたことがあるって、本人が言っていました。動画サイトに当時の映像が残っているんですけど、空振り三振した時に『あれっ、今のボールは何だったの?』って驚いた表情をしています。コメント欄には、ほかの試合でも何球か投げていたって書かれていたけど、江川に聞くと『あの1球しか投げてない』って言うんです。江川って、体のわりに指はそんなに長くないから、きちんとしたフォークを投げられないんですよね」
その場面は、1982年5月25日の後楽園球場での巨人対中日戦。巨人が7対0と大量リードの8回表、一死で田尾を迎え、カウント1ボール2ストライクの4球目にフォークを投げている。田尾は上体を崩されて空振りしたあと、右ヒザをつき「あれっ?」という顔で江川のほうを見つめていた。
田尾は三振に打ちとられると、潔く小走りでベンチに戻るのに、この時だけ呆然と立ち尽くしていた。
江川自身、プロ生活で初めて投げたフォークだと公言している。82年は20勝した翌年であり、まさに江川の全盛期と言えた。用意周到な江川のことだから、好調時こそ試し時だと思い、好打者の田尾に対して新しい球種を投げたのではないだろうか。
フォークも思い出深い出来事ではあるが、田尾にとって江川との対戦のなかで、忘れられない打席がひとつだけある。それは1982年4月22日の平和台球場での中日対巨人戦だ。
「ゲーム前のバッティング練習で、打順が下がっていたうえに、『あと3本』と言われるのがめちゃくちゃ早くて、それにカチンときて残り3球は打たずにバントしたんです。そしたらヘッドコーチの黒江(透修)さんが『おまえ、野球なめとんのか!』と言ってきたから、『いえ、一生懸命やってます』と。すると今後は『そんな態度とるならゲームに使わんぞ』と言うから、『もう使わんといてください』とクビ覚悟で返したんです。それで練習を途中で切り上げて、スパイクやら荷物をバックにしまって、運動靴を履いてベンチに座ってゲームを見ていたんです」
ところが事態は急変する。
「それで試合中盤になると、いきなり近藤(貞雄)監督が『代打、田尾』って言うので、黒江さんが『監督が行けって言ってるんだから行け!』と。『もう使わないないって言ったじゃないですか。僕は行きませんよ』とケンカが始まったんです。最後は黒江さんが『頼む、ここは行ってくれ』と言うものだから、スパイクを履いて、ヘルメットをかぶって打席に立ったんです。
でも、アドレナリンが出ていたんでしょうね。今まで打ったこともない江川の高め、しかもボール球をセンター前に打ったんです。体がカーッと熱くなる感じはありました。江川の高めの球を打ちたいと思うと、上から叩く感じになって自分のフォームが崩れていくんですよ。江川と対戦して、高めのボールだけを意識すると、その後のゲームに影響します。そういうことを何度か経験していくうちに、『江川の調子がいい時は打てない』と割り切っていました。江川の高めの真っすぐだけは、ほかのピッチャーと意味合いが違うんで」
球界屈指のバットコントロールの持ち主であった田尾が言うのだから、調子のいい時の江川の高めのボールをミートするのは、不可能に近かったのだろう。
江川の高めの真っすぐを打つために試行錯誤し、最終的に行き着いたのは"開き直り"。異次元の球を技術云々で攻略するのではなく、恐れずに強く振ることだけを考える。稀代のヒットメーカーである田尾でさえも、絶頂期の江川のストレートは手も足も出なかった。江川のすごさが十分に伝わるエピソードだ。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している