これまでプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2024年3月8日)
日本経済の生産性を高めるにはなにが必要か。名古屋商科大学ビジネススクールの原田泰教授は「岸田首相は『新しい資本主義』という成長戦略を掲げたが、失敗続きの政府による取り組みが成功するとは思えない。まずは、収入の減少と人手不足の原因になっている『130万円の壁』をなくすべきだ」という――。(第2回)

※本稿は、原田泰『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

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■政府の「成長戦略」は効果があるのか

生産性の上昇が大事だというと、すぐさま、政府の成長戦略が大事だということになるのだが、政府が成長率を高めることは可能だろうか。岸田文雄首相が就任間もない2021年10月9日に唱えていた「新しい資本主義」で成長率を高めることは可能だろうか。

首相は2021年12月22日、読売国際経済懇話会で「様々な弱点を強みに代える成長戦略を官民協働で考えていく。これが市場任せでない新しい資本主義だ」と説明。また、対応が急務の気候変動やデジタル、経済安全保障分野で「政府が『方向性はこっちだ』と大きな市場を指し示し、多くの企業が投資することで分野を拡大する。結果として弱点を克服する」。分配政策では「給与、人への分配はコストではなく、未来への投資だ」と指摘。

国が決めることのできる保育士や介護職員の給与を引き上げることも述べ、「資本主義が生み出した弊害にしっかりと向き合っていく」と述べたとのことである(「首相『成長戦略官民で』」『読売新聞』2021年12月23日)。しかし、仮にこれが新しい資本主義だとして、「新しい資本主義」で成長することはできないだろう。以下、その理由を述べたい。

■牛乳が余ったのは市場ではなく政府の失敗

まず、政府が将来の市場を指し示すというのだが、それが正しいという保証はない。たとえば2021年12月21日の記者会見で、岸田首相は「年末年始には牛乳をいつもより1杯多く飲み、料理に乳製品を活用してほしい」と述べたとのことである(「『牛乳を飲もう』大号令」『日本経済新聞』2021年12月23日)。

乳製品の需給は農林水産省によって統制されており、企業が自由に生産しているわけではない。牛乳が余ってしまったのは、資本主義が間違っていたからではなく、農水省の指し示した方向が間違っていたからだ。その失敗を国民が引き受けさせられるのはかなわない。

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気候変動や経済安全保障分野で、しなければならないことはするしかない。その意味では、政府の指し示す方向は正しいというより、前者は国際的約束で、後者は安全保障のためにそうするしかないことだ。しかし、これらはいずれもコストを上げる政策である。

温暖化を避けるために割高なエネルギーを用い、経済安全保障のために国内または同盟国内で補助金を払ってでも生産するということである。コストが上がれば、その分だけ実質所得は減少する。また、どのエネルギーを用いるのが二酸化炭素(CO2)削減に効果的か、政府が適切に方向を指し示すことができるとも思われない。

■失敗し続けたデジタル戦略

日本では、太陽光発電が欧米の何倍ものコストになっている(木村啓二「日本の太陽光発電はなぜ高いのか」自然エネルギー財団ホームページ、2016年2月4日)。欧州では、よりコストの安い風力発電にシフトしている。これは気象条件にもよるので日本の政策の失敗とは言いきれないが、同じだけのCO2を削減するのに、どの方法がもっともコストが安いのかという視点はなかった。

デジタルについては、政府は効果のないデジタル戦略を繰り返してきただけだ(日経コンピュータ『なぜデジタル政府は失敗し続けるのか消えた年金からコロナ対策まで』日経BP、2021年)。なぜ政府が、民間に対して有効な方向性を示すことができると考えるのか、私には分からない。

念のために述べておくが、私は気候変動対策に反対しているわけではない。1970年代の公害対策で、コストをかけてきれいな大気や水を取り戻したことは素晴らしいことだったと思っている。政府は、コストをかけても気候変動対策や経済安全保障対策をしなくてはならないと国民を説得するべきで、これらの対策で成長できるというのは間違いである。

人への分配はコストではなく、未来への投資だというのは、心地よく聞こえるが、それが投資であるかどうかは、企業と個人が決めるべきことだ。企業は、必要があれば高い賃金を払うだろうし、必要がなければ払わない。人は、それが将来の所得を上げるものと認識できれば技能を身に着けようと努力するが、無駄な努力はしない。

■保育士の給与が低いのは資本主義ではなく制度の問題

国が決めることのできる保育士や介護職員の給与を引き上げることは望ましいと私は考えるが、その給与が低いのは資本主義のせいではない。

介護、保育(社会福祉の専門的職業)、看護の有効求人倍率を見ると、コロナの影響を受けていない2017〜19年の職業計の平均が1.5倍前後の時、介護、保育、看護がそれぞれ2倍、3倍、4倍程度となっていた〔厚生労働省「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)」職業別有効求人倍率(パートタイムを含む常用)。保育士は社会福祉の専門的職業に含まれる〕。

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なぜ介護などの給与が上がらないかといえば、介護は介護保険で運営されているからだ。介護職員の給与が上がれば保険料を上げなければならず、それができないから給与を安くしておくしかない。安い給与では人が集まらないから必死に求人し、求人倍率が高くなるわけである。

外国人労働者を受け入れる技能実習生制度が「現代の奴隷制度」などと言われて人権侵害や搾取の問題を引き起こしているのも、資本主義や自由主義経済のせいではない。本来、資本と労働が自由に交渉し、雇用主が競争して労働者を求めるのが資本主義である。

ところが技能実習生制度では、実習生が自由に雇用主を選べない。ここに搾取と人権侵害が生まれる。さすがに政府も技能実習生制度を改めて、外国人が、より自由に雇用主を選べるようにしようとしている(「外国人、就労の選択肢拡大」『日本経済新聞』2023年11月25日)。

すなわち、資本主義のシステムを用いて、搾取の問題に対処しようとしている。

■誰も「構造改革」の意味を説明できない

この背景にも、日本の賃金が上がらず、台湾や韓国、あるいは自国と比べても、日本で搾取されながら働く経済的メリットがなくなっていることがある。これでは誰も来てくれないので、政府も真面目に技能実習生の待遇改善に乗り出したわけだ。

「新しい資本主義」の中にはコストを上げる方策が多い。しかし、コストを上げて経済を活性化することはできない。所得分配を重視するのはよいが、そのための実際の予算支出はわずかである。大きく分配状況を変えることはないが、だから成長を阻害するほど分配に力を入れないのはよいことだという判断もあるだろう。

成長戦略について否定的なことを述べたが、成長戦略は難しいということをまず認識する必要がある。

2001年初めのことである。テレビの経済討論番組で、当時の亀井静香・自民党政務調査会長に、ある有名エコノミストが「なぜ政府は小手先の景気対策ばかりで抜本的な構造改革をやろうとしないのか」と語気鋭く迫ったのに対し、亀井氏は「それではあなたのいう構造改革とはいったい何なのか」と切り返した。

このエコノミストは、それに対して何も答えられなかった(野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』47頁、東洋経済新報社、2001年)。あれから20年以上たっているのに、構造改革論派のエコノミストの多くは、具体的には何も答えていない。

■ノーベル賞受賞者ですら経済成長のさせ方がわからない

どうしたら成長率を高めることができるかは、簡単な問いではない。2006年に世界銀行が、貧困国のための成長の処方箋を、マイケル・スペンス氏、ロバート・ソロー氏らノーベル賞受賞の経済学者を含めた委員会を作り報告書の作成を依頼した。

その結果について、開発経済学の専門家でニューヨーク大学のウィリアム・イースタリー教授は、「21人の世界一流の専門家で構成される委員会、300人もの研究者が参加した11の作業部会、12のワークショップ、13の外部からの助言、そして400万ドルの予算を投じて2年におよぶ検討を重ねた末、高度成長をどのように実現するかという問いに対する専門家の答えは、分からないというものだった。しかも、専門家がいつか答えを見つけることを信じろという」と書いている(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学社会の重要問題をどう解決するか』日本経済新聞出版、2020年、270頁より引用)。

岸田首相は、中間層を厚くする、と言っている。しかし、どうしたら中間層を厚くできるのか。一つ確かなことは、所得の高い人と所得の低い人から税金を取って中間層に配ることはできないということだ。

所得の高い人は人数が少なく、所得の低い人はお金がなく、中間層はたくさんいるからだ。中間層には自分で頑張って中間になっていただくしかない。政府に中間層向きの仕事を作ったりすることができるとは思えない。政府ができることは、たとえば教育の援助くらいしか思いつかない。

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■低所得者を苦しめる「130万円の壁」

むしろ、できることを考えてはどうだろうか。所得の低い人の所得を上げることである。

いわゆる「130万円の壁」をなくすことと、補助金付きの最低賃金の引き上げ(これは、給付付き税額控除と似ている)である。まず、年収の壁から考えよう。説明するまでもないだろうが、年収の壁とは、妻の収入が103万円を超えると所得税を払わないといけなくなり、配偶者控除(38万円)が受けられなくなる。また、企業の配偶者手当が支払われなくなる。

106万円を超えると場合によっては、130万円を超えるとほとんどすべての場合で、社会保険加入が必要になる。これらにより、103万円、または130万円を超えると、妻が150万円程度まで働かないと、夫と合わせた家計収入がむしろ減少してしまうことをいう。うち、税金や控除については壁にはならない。なぜなら、税とは、追加的に得た所得の一部を取るものだからだ。

また、控除は年収が上がるごとに段階的に控除額を下げることで、壁にはならなくなっている。もちろん、限界的に税率が上がるので、労働意欲を阻害するのは事実だが、壁にはならない。坂がきつくなるということだろう。

■制度の収入源と人手不足が起きている

壁を作り出しているのは、社会保険料と企業の手当である。社会保険料は、年収がある額を超えるとすべての所得に課すからである。企業の配偶者手当は、企業にとってみれば、従業員に恩恵を与えるものだから、妻の所得が上がればそれに応じて少しずつ減額し、壁を作らないようにするものではない、と言いたいだろう。

結果、年間所得が壁に近くなると、妻が就業調整して労働時間を減らすことになる。人手不足で、年末の忙しい時に労働時間を減らされてはたまらない、というのが企業の言い分である。

また、せっかくGDPが増加するチャンスを奪っていることになる。政府は、この問題に対して、130万円を超えても連続2年までは社会保険料を払わなくてもよいようにした。あるいは、保険料相当額を企業に支払い、従業員の負担が増えないようにした(「『年収の壁』対策発表」『日本経済新聞』2023年9月28日)。

■「共働き」は当たり前の社会になってきたが…

社会保険料は、国民に負担を求めるものだから、ある所得を超えたら、すべての所得に一挙に保険料を課そうというのは無理があると私は思うが、社会保障の専門家はやけに説教臭いことを言うらしい。

2023年9月21日に開かれた厚生労働省の社会保障審議会の部会が、年金制度の見直しに関する議論を始めたところ、委員からは「就労して負担能力があるのに、壁があるから本人の保険料を免除するのは理屈が立たない」「他の被保険者との間で不公平になる」といった意見が相次ぎ、そもそも「給付があるのに壁と呼ぶこと自体がおかしい」と、政治による課題設定そのものを疑問視する声も上がった、とのことである(「『年収の壁』問題、見直し議論スタート減免策検討に慎重意見も」『朝日新聞』2023年9月21日)。

日経社説も、「社会保障ゆがめる『年収の壁』助成金」と書いている(『日本経済新聞』2023年9月29日)。たしかに夫だけの片働き世帯が減って、妻も外で働く時代になったのだから、妻もバリバリ働いてキャリアを追求し、社会保険料を払うべきだという議論も分かる。

これからの若い女性はそうすべきかもしれない。しかし、専業主婦が当たり前の時代を生き、保育所もベビーシッターもイクメンもあまりない時代に、家庭でワンオペ育児をしてきた女性に、いまさらバリキャリになれというのは気の毒だ。

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■まずは既得権益があることを認めるべきだ

多くの人は、改革には既得権益を打破しないといけない、という。しかし、改革できないのは既得権益を認めないからだ。

原田泰『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(PHP新書)

専業主婦も既得権益だとしたら、いまさらバリキャリになれというのは間違っている。正しい解決策は、社会保険料負担の開始の年収を200万円まで引き上げることだ。高校を出てフルタイムで働くと、初任給18万+ボーナス3カ月分(初年度のボーナスは年末にしかフルに出ないから3カ月分となる)、すなわち、初年度の年収は18万円×15月で270万、社会保険料の自己負担分は15%であるから、社会保険料差し引き後の所得は230万円なので、わざわざ就業調整するより、フルに働いて270万稼いだほうがよいだろう。

一方、パートで働いている人は、200万円までになれば就業調整が必要なくなる。ただし、配偶者手当は、103万円または130万円を超えると一挙になくなってしまうものだから、こちらも200万円、あるいは所得制限なしにしていただくしかない。

社長、この際だから、賃上げのついでにこちらも太っ腹で! と私からもお願いする。とくに、パート従業員を多く雇っている業界では、太っ腹でお願いしたい。

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原田 泰(はらだ・ゆたか)
名古屋商科大学ビジネススクール教授
1950年生まれ。東京大学農学部卒業。学習院大学博士(経済学)。経済企画庁国民生活調査課長、海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長、大和総研専務理事チーフエコノミスト、早稲田大学政治経済学術院教授、日本銀行政策委員会審議委員などを経て、現職。著書に『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、日経・経済図書文化賞受賞)、『日本国の原則』(日経ビジネス人文庫、石橋湛山賞受賞)、『日本はなぜ貧しい人が多いのか』(新潮選書)、『ベーシック・インカム』(中公新書)、『デフレと闘う』(中央公論新社)、『コロナ政策の費用対効果』(ちくま新書)、『プーチンの失敗と民主主義国の強さ』、『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(ともにPHP新書)など多数。
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(名古屋商科大学ビジネススクール教授 原田 泰)