「病室中を血まみれにしてでも起き上がりたい」…命を狙われ、リハビリに励む反体制派ナワリヌイ氏の「血の滲むような努力」と「希望」

写真拡大 (全3枚)

真のロシア愛国者「アレクセイ・ナワリヌイ」がプーチン独裁政治の闇を暴く『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』が、全世界で緊急同時出版された。1976年にモスクワ近郊で生まれたナワリヌイが目にしたのは、チェルノブイリ原発、アフガン侵攻、ソ連崩壊、上層部の汚職、そして「ウクライナ侵攻」だった。政治とカネ問題、超富裕層の富の独占、腐った老いぼれに国を支配される屈辱と憤怒。独裁政治の闇をメディアに発信し、大統領選にも出馬した彼は、やがて「プーチンが最も恐れる男」と評されるようになる。そして今年2月、彼を恐れた当局により獄中死を遂げた。

そんなナワリヌイが死の間際に獄中で綴った世界的な話題作『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』より「本物のロシア愛国者の声」を一部抜粋、再編集してお届けする。

『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』連載第13回

『「現実と夢の寄せ集めの記憶」…“毒”を盛られ、九死に一生を得たナワリヌイ氏が体験した、想像を絶する過酷な「試練」』より続く

あの日起こった出来事

ユリアやレオニードは、私に起こったことを何度か説明しようとした。だがなかなかうまく伝わらない。まるで閉まっているドアをノックし続けているが、ドアの向こうにいる私の脳は応えないでいるような状態だった。毒を盛られたこと、機内で気を失ったこと、FSB高官だらけのオムスクの病院のこと、当分、政権は転院を認めそうにないこと、ドイツへの避難に関することなどを話してくれたのだが、私は座ったまま、2人を見つめているだけだった。

プーチンがシベリア出張中の私を暗殺しようとしたことや、独立系研究機関が毒を盛られたと断定していること、しかも英国ソールズベリーでのロシアの諜報機関によるセルゲイ・スクリパリ親子毒殺未遂事件[訳注:ロシアの元スパイで、英国情報機関に機密を提供していたスクリパリと娘が2018年に神経剤で殺されそうになった事件]に使われた化学物質と同じだったことなどを詳しく話してくれた。説明の途中で「ノビチョク」という言葉が出たとたん、私は突然、2人をきっと見据え、「なんだって?ふざけたマネをしやがって!」と吐き捨てた。

私の反応を見て、レオニードは、もう大丈夫と確信したそうだ。

あの日の出来事を深く把握するにつれて、それまでの流れも思い出してきた。私の暗殺未遂事件の詳細を知りたいのはやまやまだが、それよりも気がかりだったのは、トムスクとノボシビルスクの選挙結果だ。例の調査結果は、YouTubeで公表したのか。有権者は見てくれただろうか。投票所に足を運んでくれたのか。統一ロシアを倒せたのか。私たちの候補者の得票率は?開票日の晩、Twitterのタイムライン(自分の投稿や他ユーザーの投稿が時系列に並んだ画面)をユリアに読み上げてもらった。続いて、自分の言葉が不明瞭なため、ユリアに“通訳”してもらい、仲間にメッセージを送った。

選挙結果は、期待以上だった。トムスクでは、私たちが支援する候補者27人のうち、19人が勝利を収めた。この中に私たちの党の地方支部長クセニア・ファディエワやその補佐を務めるアンドレイ・ファティエフらもいる。ノボシビルスクでは、地方支部長のセルゲイ・ボイコら、支援候補12人が当選を決めた。

それでも、初めてベッドから出ることが許され、自分の力で実際に何歩か歩いてみるまでは、現実を完全には受け止めきれなかった。ここから逃げ出したかったし、実際に何度か脱走しようとしたこともあるため、長い間、許可が出なかったのである。思考力がゆっくりと回復していくうちに、誰かがいつも病室の外に立っていて、ガラス窓から監視していることに気づいた。医師には見えなかった。事の経緯を把握してからは、それが警備員だとわかった。

ある日、警備員から銃をひったくって脱出を手助けしてくれないかとユリアを説き伏せようとしたこともある。一刻も早く自由になりたかったのだ。銃が手に入るはずもない。そこで、自ら行動を起こすことにした。身体に取り付けられているカテーテルや管を一つ残らず引き抜き、病室中を血まみれにして起き上がろうとしたのだ。すぐに医師らが駆けつけ、私をベッドに戻すや、あっという間にコードやらチューブやらで再びがんじがらめにしていった。もっとも、そう簡単にあきらめる私ではない。その後も何度か脱走を試みている。

記憶は戻っても体は戻らない

とうとう医師団の許可が下り、自分でベッドから出て、実に危なっかしい足取りながら数歩先の洗面台まで歩けるようになり、すべての記憶が戻ってきた。

手を洗いたかったが、その手が言うことを聞いてくれない。すると、突然、ある記憶が鮮やかによみがえった。そうだ、そういえば、病院に運び込まれる数週間前、トムスク発モスクワ行きの機内のトイレで顔を洗おうとしていたのだった。ベッドに戻り、横になる。天井を見つめながら、どうしようもなく情けない気分になった。まるでよぼよぼの老人じゃないか。わずか3メートル先の洗面台まで造作なく歩くことも、蛇口をひねることもままならない。一生こんな状態が続くのかと不安になった。

当初は、実際にそうなると見られていた。ふつうの暮らしに戻るためには、血の滲むような努力が欠かせなかった。毎日、理学療法士が来た。人柄のいい女性なのだが、今までやったこともないくらいの難題を無理強いするのだ。例えば、テーブルにカップが2つ用意される。一方は水入り、もう一方は空のカップだ。私にスプーンをわたし、水をすくって空のカップに移せという。

そのころには発話もずいぶん滑らかになっていたから、「わかりました、5回でいいですよね」と尋ねると、「7回やってください」と無茶を言う。最終的には、水をすくって別のカップに移す動作を7回繰り返すことができたが、こんなつらいことはない。マラソンを走らされているような気分だった。

まだまともに歩くことも、物を握ることも、体の動きを合わせることも身についていなかった。キャッチボールは1日に100回だ。あれはへとへとになった。何週間もマスターできなかったのが、立った姿勢から床に横たわり、起き上がるという運動だ。どうがんばっても3回が限界で、本当につらかった。

集中治療室に入っているころ、一番うれしかったのは、モスクワから娘のダーシャと息子のザハールが駆けつけてくれたことだろう。だが、ご想像どおり、何ともぎこちないひとときだった。コードやらチューブやらでぐるぐる巻きだから、抱き合って再会を喜ぶこともできない。そんな状況で何を話せばいいのか戸惑うばかりだ。だから子供たちは病室でただ椅子に座り、私もその様子を見つめるだけだったが、このうえなく幸せな気分だった。

『プーチンの神経を逆撫でしても...ロシアで命を狙われた反体制派のナワリヌイ氏が感銘を受けた、独メルケル元首相の「人間味あふれるはからい」』へ続く

プーチンの神経を逆撫でしても...ロシアで命を狙われた反体制派のナワリヌイ氏が感銘を受けた、独メルケル元首相の「人間味あふれるはからい」