川崎フロンターレのホーム等々力陸上競技場は毎回2万人が集まる「劇場」 球技専用への改修に注目
連載第22回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は川崎フロンターレのホーム等々力競技場について。毎試合約2万人の観客が集まり「劇場」と呼ばれていますが、ここまで長い歴史がありました。この先、球技専用スタジアムへの改修が計画されていますが、これに注目だと言います。
11月1日に川崎市のUvanceとどろきスタジアム by Fujitsu(等々力陸上競技場)で行なわれたJ1リーグ第35節、川崎フロンターレ対鹿島アントラーズの試合終了直後、鹿島のロッカールームにはまるで優勝が決まったかのような歓喜の叫びが響きわたっていた。
川崎フロンターレのホーム、等々力競技場。毎試合約2万人の観客が集まっている photo by Getty Images
かつて、川崎が「絶対王者」と呼ばれていた頃、鹿島はこの等々力で何度も大敗を喫していたから、リベンジの気持ちが強かったのだろう。
前半、出足よく川崎のパスをカットして速攻を仕掛け、なんと28分までに3ゴールが決めた。その後は川崎に攻め込まれる時間が長かったが、後半追加タイムの1失点のみに抑え、持ち前の勝負強さで鹿島が勝利を手繰り寄せた。
強かった頃の川崎は、小さな動きでフリーのスペースを作って正確なパスを回していたが、最近はそうした予備作業抜きでパスを回そうとするので、そこを狙われてしまったようだ。
ところで、この日はあいにくの雨だったが、集まった観衆は2万834人。川崎が劣勢でも、サポーターたちは最後まで懸命に声援を送り続けた。
平日開催でも、悪天候でも、このスタジアムにはコンスタントに約2万人の観客が集まって独特の雰囲気を醸し出す。「等々力劇場」と呼ばれる所以である。
しかし、このスタジアムがこんなすばらしい「劇場」になるとは、30年前には想像もできなかった。
【サッカーのトップリーグでの使用は1980年代】スタジアムは川崎市中原区の等々力緑地という公園内にあるが、「等々力」という地名は、実は多摩川の対岸の東京都世田谷区にも存在する。
かつて、多摩川はこの辺りで大きく南に蛇行していて、世田谷区側とは地続きだったのだ(等々力緑地を囲む外周道路が昔の河川跡)。その後、多摩川が改修されて直線的に流れるようになって世田谷区側と切り離された。ちなみに、両岸はどちらも武蔵国だったが、明治維新後の廃藩置県によって川崎側は神奈川県に編入された。
その等々力緑地に陸上競技場が完成したのは、1964年に東京で初めて五輪が開かれた直後の1966年。当初は小さなメインスタンドがあるだけで、バックとサイドは芝生席だった。
サッカーのトップリーグで使用され始めたのは1980年代。読売サッカークラブ(東京ヴェルディの前身)の試合だった。
1969年に誕生した読売クラブは、従来の実業団(同じ企業グループに勤務している選手だけで構成されたチーム)とは違って、社会人や学生、ブラジル人選手などが加わったクラブチームだった。サッカースタイルも個人技を生かしたブラジル的なもので、人気が低迷していたJSL(日本サッカーリーグ)のなかでは異彩を放つ存在だった。
ホームタウンは東京都で、国立競技場や駒沢陸上競技場、西が丘サッカー場などを使用していたが、クラブハウスがある読売ランドが東京都稲城市と川崎市にまたがっていた関係で、川崎市の等々力陸上競技場でも開催されたのだ。
【読売クラブで注目の場所に】等々力が注目を集めたのは、1983年に読売クラブがフジタ工業(湘南ベルマーレの前身)を破ってJSL初優勝を決めた時だ。
読売クラブは1978年にJSL1部に昇格したものの、実業団勢の壁に跳ね返され続けていた。1981年には最終節でフジタに勝てば優勝という状況になったが、ジョージ与那城の決勝ゴールがオフサイドと判定されてスコアレスドローに終わり、優勝を逃していた。フジタも、前身の藤和不動産にセルジオ越後が入団して以来ブラジル路線を貫いており、読売クラブにとっては因縁の相手だった。
等々力で勝利して初優勝が決まった瞬間には、大勢の読売サポーターがピッチに飛び降りて祝福を送ったが、僕もそのひとりだった。
1982年の日本サッカーリーグ(JSL)、読売クラブの入場券。会場の「川崎」とあるのが、等々力陸上競技場(画像は後藤氏提供)
僕は1969年に読売クラブができてすぐに会員となったことがあったし(会費を払えば誰でも会員になって、当時は珍しかった天然芝のピッチでボールを蹴ることができた)、個人技を生かした読売クラブのプレースタイルもとても魅力的に感じていた。
さて、Jリーグ発足が決まった当時、ラモス瑠偉や三浦知良(カズ)など多くのスターを擁する読売クラブは、最大の人気クラブだった。そして、同クラブは東京の国立競技場をホームスタジアムにしたかったのだが、Jリーグはサッカー開催が可能な唯一の大規模スタジアムである国立をひとつのクラブに独占させることを嫌った。しかし、都内にはほかに適当なスタジアムはなく、読売クラブは等々力をホームとすることになり、チーム名も「ヴェルディ川崎」となった。
川崎市はバックスタンド、サイドスタンドを2層式に全面改築。収容力も約2万5000人となった。
だが、ヴェルディはその後も東京"復帰"を目論んでいた。そして、Jリーグの各クラブは観客動員が期待できるヴェルディ戦を国立で開催することが多く、年間王者を決めるチャンピオンシップも等々力ではなく国立で開催された。
その後、読売クラブは読売新聞社の撤退などで経営が悪化して観客動員も減っていく。そして、2001年には東京都調布市に新設された東京スタジアム(味の素スタジアム)に移転。「東京ヴェルディ1969」となった。
【球技専用への改修に注目】ヴェルディに代わって等々力をホームとしたのが、富士通サッカー部を母体とする川崎フロンターレだった。
富士通は第2次世界大戦前から川崎市中原区に工場を持ち、現在も同地に本社を置く地元企業だ。JSL時代は2部での活動が長く、Jリーグ発足後は旧JFLを舞台に戦っていたが、「川崎フロンターレ」となって1999年にはJ2リーグに加入。2000年にJ1に昇格。1年でJ2に降格したが、2005年に再昇格してからは着実に強化を続け、2017年にJ1リーグ初制覇。以後、J1で4度の優勝を飾ることになる。
川崎のJ1初制覇を前に、2015年には等々力陸上競技場全面改修の「第一期整備」として近代的なメインスタンドが完成。そして、2021年には「第二期整備」として球技専用スタジアムとしての整備も決定した。
2002年の日韓W杯を前に、日本でも大規模スタジアムがいくつも建設された。だが、その多くは陸上競技との兼用スタジアムだった。しかし、2016年に完成したパナソニックスタジアム吹田を皮切りに、西日本では球技専用スタジアムが次々と整備されており、2024年だけでもエディオンピースウイング広島や長崎スタジアムシティ(PEACE STADIUM Connected by SoftBank)などが完成している。
これに対して、強豪クラブが数多く存在する東日本では大型の専用スタジアムは埼玉スタジアム2002や県立カシマサッカースタジアムなどわずか。国立も、味の素スタジアムも、日産スタジアムもいずれも陸上競技場だ。
今からちょうど100年前の1924年に、東京には明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)、兵庫県には甲子園大運動場(現在の甲子園球場)という日本初の大規模スタジアムが完成しているが、前者は国(内務省)による建設だったのに対して、後者は民間企業である阪神電鉄によるものだった。そして、それから100年経った今でも、西日本では民間資本によるスタジアム建設が主流なのに、東日本のスタジアムは国や地方自治体によるものばかり。それが、専用スタジアムが少ない理由となっている。
その点、等々力の改修には民間資本が導入されることが決まっており、すでに東急が中心となって富士通やフロンターレも出資した企業が落札。東日本初の民間資本によるスタジアム整備となる。これが成功すれば、東日本でも専用球技場の整備が進む可能性もある。等々力の改修にはぜひ注目してほしい。
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