私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第28回
サプライズ選出された男が見た「史上最強」と呼ばれた代表の実態(3)

◆(1)ドイツW杯にサプライズ選出された巻誠一郎の困惑>>

◆(2)巻誠一郎が見たドイツW杯の舞台裏「ギクシャクした空気が表面化」>>

 2006年ドイツW杯、グループリーグ最終戦となるブラジル戦が始まった。

 巻誠一郎は玉田圭司と2トップを組み、スタメンで出場した。初めてのコンビで、ほぼぶっつけ本番の試合だった。巻は、ジーコから指示された「ボックス内にいろ」を頭に入れつつ、覚悟を決めてピッチに立った。

「試合は、複数得点(2点)差で勝たないといけなかったんですけど、相手はブラジルじゃないですか。めちゃくちゃハードルが高かったですし、僕は何か特別なことができるわけじゃない。ジェフ(所属のジェフユナイテッド千葉)では、(監督のイビチャ・)オシムさんのもとで『走らないといけない』『点を取らないといけない』と思い、いつも必死でプレーしていました。

 結局、ブラジル戦でも、自分がやれることはそういうこと。あれこれ考えても仕方ないので、いつもどおりがむしゃらに走れるところまで走ってやろうと思っていました」

 巻は、守備のときは前からボールを追って相手にプレッシャーをかけ、攻撃ではスペースがないときには下がってボールを受け、スペースに出たパスには必死に走ってキープした。なかなか思うような形は作れなかったものの、我慢し続けたことでチャンスが訪れた。

 前半34分、玉田が目の覚めるような豪快なシュートを決めて日本が先制した。ブラジル相手に理想的な展開となり、巻は「もしかしていけるかも......」と思った。


ドイツW杯の第3戦、ブラジル戦で先発出場した巻誠一郎だったが... photo by AFLO

 ところが、ブラジルは失点したあと、チーム全体の空気がピリッとし始めた。その変化を、巻もすぐに感じ取った。

「点を取られるまでのブラジルは『こんな感じなんだ』というレベルで、前評判ほどの強さは感じませんでした。(先制して)自分たちのほうがまだまだチャンスを作れそうな雰囲気でしたし、このままいけるんじゃないかと思っていました。

 でも、点を取ってしばらくしてからテンポが合わなくなってきて、ボールに触れなくなったんです。次第に(ブラジルの)圧が強くなり、セカンドボールも簡単に奪われて、防戦一方になってしまいました」

 攻撃に出た際には一気に畳みかけてくるブラジルに、日本は為す術がなかった。試合は日本陣営のハーフコートマッチの様相を呈していた。それでも、日本はなんとか持ち堪えていたが、前半のアディショナルタイム、ロナウドに同点ゴールを決められて追いつかれた。

 やってはいけない時間帯での痛恨の失点。「1点リードのまま後半へ」という希望的なプランはあっさりと打ち砕かれて、日本の選手たちは落胆した。

「まだ同点で、終わったわけじゃない。ただ、テンポを上げて本気になったブラジルからどうやって点を取るのか......。僕には想像がつかなかった」

 後半、ブラジルは前半終了間際のゴールの勢いのまま、完全にゲームを支配した。日本は攻撃の糸口さえ見えない状態だった。

「自分はFWなので、ボールが来ないと話にならないんですけど、(後半に入ってからボールが)まったく来ないんです。それなら、守備で貢献しようと思ってボールを追うんですが、守備の(組織的な)トレーニングなんかしていないので、プレッシャーをかけていっても後方(のサポート)が続かず、まったくかからない。個人でプレスにいっても簡単にはがされてしまって、何も起きないんです。

 前線では何もできない。守備陣は耐えるだけ。苦しい時間が続いていました」

 ブラジルの怒涛の攻撃に対して、日本の守備陣はギリギリのところで踏ん張って、奪ったボールをクリアするのが精いっぱいだった。そのため、クリアしてもすぐに回収されて、攻撃を食らう。その繰り返しで、たまに前線にボールが入っても、巻や玉田はすぐに2、3人の敵に囲まれてボールを奪われた。

「その時、レアル・マドリードとの試合を思い出しました。あの時もまったく歯が立たず、ボールにすら触れなかった」

 巻が言うレアル・マドリード戦とは、2004年7月29日に国立競技場で行なわれたレアル・マドリードのジャパンツアーにおけるジェフユナイテッド市原との一戦。当時のレアル・マドリードは、デビット・ベッカム、ジネディーヌ・ジダン、ルイス・フィーゴ、ロナウド、ロベルト・カルロスらを擁し、「銀河系軍団」と称されたスター軍団だった。

 ジェフはその相手に1−3で敗れた。この時、巻自身も、チームも、スコア以上のレベルの差を痛感させられた。巻は、同試合と同じような絶望感をブラジル戦で感じていた。

 そうした状況にあって、日本は後半8分に逆転ゴールを許し、14分には追加点を奪われた。

「前線でなかなか動けないなか、いきなりボールが来ても反応できない。そこでボールを受けても、すぐに(相手に)囲まれてロストして、また攻められる、という悪循環でした。そこから打開して、修正するだけのエネルギーが、僕にもチームにもなかった。守備陣が体を張って頑張ってくれていたんですが、前線の僕は何もできなかった。みんなに申し訳ない気持ちと無力感を味わいました」

 後半15分、巻は高原直泰と交代し、ベンチに下がった。

 巻がベンチに下がってからも、ピッチではブラジルが圧倒的な力を見せつけていた。"サッカー王国"のすごさを、体にも、目にも焼きつけられた。

 日本はロナウドにトドメとなる4点目を決められ、1−4と完敗を喫した。日本は「史上最強」と称されながら、1勝もできずにグループリーグ敗退。W杯の舞台から去ることになった。

「3試合を通して、チームとしても、個の部分でも、相手に勝てていなかったので、『(日本は)まだまだだな』って思いました。ただ、まったく通用しないということではなく、オーストラリア戦も、クロアチア戦も、いい時間を作れていたんです。その出力を継続していければ、もう少しやれたのかなと思うので、そこはもったいなかったです。

 あと、やっぱり最後までチームが一体感を築けなかったのも大きかったと思います。W杯の舞台だから、そうなってしまったのか......。(所属するジェフでは)オシムさんのもとで(チームが)ひとつになってプレーしていた僕には、正直理解できませんでした」

 チームとして結果は出なかったが、巻にとっては初のW杯。60分のプレー時間ながら、得るものがあったという。

「やれそうな自分と、まったく何もやれない自分と、半々でしたね。ただ、僕はあらめて『人に活かされるタイプの選手なんだ』というのを実感することができました。そこから今後、どれだけ自分ができることを増やしていけるのか。それが課題でしたし、その努力をしていかないといけない、と思えたことは大きな収穫でした」

 ドイツから帰国し、日常に戻った時、巻は「オシムさんだったら、W杯をどう戦ったのだろう」「日本のサッカーをどうするんだろう」と考えていた。

 その「もしもオシムなら......」という巻の想像は、まもなくして現実となった。2006年7月、オシムの日本代表監督就任が発表された。

(文中敬称略/つづく)◆巻誠一郎にとってのサプライズ選出「選ばれないほうがよかった」>>

巻誠一郎(まき・せいいちろう)
1980年8月7日生まれ。熊本県出身。大津高、駒澤大を経て、2003年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入り。イビチャ・オシム監督のもと、着実に力をつけてプロ3年目にはレギュラーの座をつかむ。そして2006年、ドイツW杯の日本代表メンバーに選出される。その後、ロシアのアムカル・ペルミをはじめ、東京ヴェルディ、地元のロアッソ熊本でプレー。2018年に現役を引退した。現在はNPO法人『ユアアクション』の理事長として、復興支援活動に奔走している。