【長谷部 真奈見】ダウン症のある娘が、マチュピチュ遺跡の3時間往路でブチキレながらも笑顔になった理由

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待望の第一子の誕生直後に、ダウン症と知らされたフリーアナウンサーの長谷部真奈見さん。「娘にダウン症がある」という事実を出産当時は受け入れることができず、誰にも明かせないまま、自殺を考えるほど思いつめ悩んだ時期もあったという。そして、16年の月日が経ち、長谷部さんは、16歳になった娘さんとの出来事や家族との楽しい日々をブログなどで積極的に発信している。

そんな長谷部さんは、娘さんと夫とともに、「世界一周」という大きなチャレンジをした。ダウン症のある娘とともに、見た世界は気づきも多かったという。

第4回目の今回は、南米「ペルー」での出来事を前後編でお伝えする。前編では世界遺産のマチュピチュを訪れたときの意外ほど頑張った娘さんの姿をお伝えする。

ペルーへ移動。高地に順応してきた娘

世界一周の旅を終えた後、娘に「今回の世界一周旅行で一番楽しかった国はどこ?」と聞いてみたら、一寸の迷いなく「ペルー!」と即答だった。

前回の記事では、南米・ボリビアで高山病に苦しんだことを書いたが、ボリビアの首都ラパスの空港(標高4000m)から飛行機に乗り、ペルー南東に位置するクスコ(標高3400m)へ移動すると、高山病の症状はずいぶんと楽になっていた。おそらく、日本から持って行った薬の効果と、私たちの体も高地にいたことで次第に慣れてきていたのだろう。

とはいえ、クスコも高地に位置するため高山病になる人が多く、街のいたる所で酸素ボンベが販売されていた。私たちもボリビアで味わった苦しみを二度と経験したくない。油断は許されない。できる限りホテルで休みながら、ゆっくり世界遺産の街クスコを楽しむことにした。

クスコは、かつて栄えたインカ帝国の首都で、中心となるアルマス広場は多くの観光客で賑わっていた。ボリビアでは想像以上に高山病に苦しんだ娘だったが、ペルーに入ってからは驚くほど元気で、散策しながら街並みを楽しむ余裕も生まれ、食欲もすっかり回復し普段通りの様子だった。

それなら、せっかくペルーに来たのだしペルー料理(クスコ名物など)を楽しみたかったのだが、やはりそうは行かず、娘はスターバックスやマクドナルドといった、日本でも馴染みの店の看板を見かけるたびに反応し、食べたがった。異国の地で見慣れたお店を見つけるとホッとする気持ちは大人の私にもよく理解できた。というわけで、昼食は、アルマス広場の近くにある“世界一標高の高い”マクドナルドで食べることにした。

日本のマクドナルドとは、メニューも少し違っていたため、娘が食べてくれるか心配したが、ビーフバーガーを美味しそうに平らげた。食後には、日本で大好きなストロベリーシェイクが飲みたかったのだが、残念ながら販売していなくてペルーのいちごサンデーに変わったが、それも娘は嬉しそうに食べてくれてホッとした。娘の期待値コントロールは難しいが、今回の旅では思いのほか娘の受容力、順応性に助けられた。

突然のハプニングに娘は冷静に対応

夕食は行きたい店を決めていた。クスコにも素晴らしい日本食レストランがあった。1日の気温差が激しく、夕方になると店内でダウンジャケットを着ていても寒いくらいだったため、温かい天ぷらうどんが冷えた体に染みた。

海外に行ったのに現地のものをなぜ食べないのか、と思うかもしれないが、娘は食べ慣れたものを好む傾向があり、食事は娘にとって何よりも優るバロメーターだったため、今回の旅では、現地のものと日本食とのバランス取りながらお店を選んでいた。実際にお店に行ってみると同じ日本食でも現地のアレンジを効かせた料理に出会うことが多く、(例えばペルーのカツ丼にはスパイシーなソースがかかっているなど)色々な国で日本食を味わう楽しさも今回の旅で知った。

その日は、珍しく(!?)何事もハプニングなく、一日を終えようとしていたその時だった。娘が注文したカツ丼が運ばれ、さあ食べようという時に、突然電気が消えて、店の中が真っ暗になった。しかし、外を見ると、うっすら街灯はついている。どうやら、この店のビルだけが停電したようで、復旧もいつになるか分からないとのこと。店の人が、笑顔でキャンドルを各テーブルに配っている。きっと、よくあることなのだろう。よりによって、何もこのタイミングで停電にならなくても……と心配して娘を見ると、本人は静かに落ち着いていた。

以前なら驚いて怖いと泣き出し、食事どころではなくなるところだが、この旅で一段と逞しくなった娘は、私のスマホのライトを頼りに、文句も言わず黙々と食べ始めた。「停電、怖くないの?」と野暮なことを聞いた私に「怖いよ、でも仕方ないよ。我慢して食べる」と娘。親バカ過ぎるかもしれないが、そんな娘の成長がうれしくて、停電のハプニングすら今となっては良い思い出だ。

結局、私たちが店にいる間は停電が復旧することはなかったが、無事に会計を済ませ、ホテルへ戻った。そして、日本食店でテイクアウトした白飯でおにぎりを作り、翌朝いよいよ世界遺産マチュピチュへと出かけることとなった。

マチュピチュ遺跡を目指して往復3時間

PERU RAIL(ペルーレイル)の列車に乗り、マチュピチュ村を目指す道中、私はとにかく娘のことを心配していた。これから、マチュピチュ遺跡まで、急勾配の続く道や、硬い石段を往復3時間かけて登らなければならないため、再びの高山病と娘の体力が持つかどうか、不安でたまらなかった。

今回の旅は、娘の体調と体力を何よりも最優先事項としている。安全で無理のない旅にするため、事前に出来る限りの備えをしたかったが、人気の高いマチュピチュでも、子連れで登ったという情報や、ましてダウン症のある人が登ったという体験談は探してもなかなか出てこなかった。

心配の尽きない私の隣で、娘は列車のアナウンスから「マチュピチュ」と聞こえてくると「可愛い!! ポケモン? ピカチュウだ!!」と無邪気に嬉しそうに喜んでいる。娘によると、ポケモンに“ピチュー”というキャラクターがいて、そのピチューがピカチュウに進化するそうなのだが、それを聞いて、列車の中で大笑いした。とにかく元気そうな様子に、「まずは娘を信じてみよう!」と私の迷いはなくなった。

マチュピチュ遺跡の入り口で現地のガイドさんと合流し、世界遺産を目指してスタートした。赤道に近いためか、陽射しはかなり強く、暑かったり、でも標高が高いせいか、気温は低かったり、半袖と長袖を何度も脱ぎ着し体温調節を繰り返しながら登る。大人でも大変な中、娘は本当によく頑張っていた。

こまめな休憩と水分をとりながら、娘の様子を確認しながら進んでいると、途中から心肺機能が慣れてきたのか、習っているチアダンスを踊り出したり、歌を歌ったりしながら登り始めた。息切れしている私たちよりも娘は強くなっていた。

ブチキレながらも歩き続けた娘の想い

そんな娘の若さが羨ましく感心していたのも束の間、ちょうど半分を過ぎた頃、娘が突然ブチキレた。

「もうキツ過ぎるよ!限界だって!やってらんないよ!!パパとママだけ勝手に行ってよ!」とかなりの勢いだ。

普段から穏やかな性格の娘が、この旅でこんなに気持ちをぶつけてきたのは初めてで、思わず夫と顔を見合わせて驚いた。

「そうだよね、さすがにキツいよね、ごめんね。もう止めようか。」と私が聞くと、娘はふと我に返った様子で、「いいよ、大丈夫だよ。パパの夢だし、仕方ないよ」と気まずそうに小さな声で言った。そして、また私の手を引っ張って歩き始めた。

夫「ありがとう……。ごめんね。一緒にがんばろう。」

娘「いいよ。限界なんだけどね、本当はもう少し頑張れるから……」

そんなこんなで、遺跡に到着した時には、汗と涙と笑顔で家族3人、心から笑っていた。

ダウン症のある娘は、生まれつき全身の筋肉が低緊張という特徴がある。ただ、だからと言って最初から無理と決めつけず、何事にも(あくまで本人の様子を見ながら)少しずつチャレンジさせてみようというのが私たち夫婦で決めたルールだった。娘の体力や気持ちの変化は常に娘を見ていれば私には分かる。障がいがあってもなくても、チャレンジがあくまで親子の信頼関係の下に成り立っているのは、きっとどの家庭も同じだろうと思う。

遺跡からの帰り道は、日差しがピークに近づき、かなり暑さも厳しくなった上、くだり坂の中にも時折、階段を登らなければならない場面も出てくるため、道のりは長く厳しく感じられた。引き返すことも出来ず、夫と交代しながら娘の手を取り、一歩一歩を慎重に重ねた。

ゆっくりな娘のことを、マチュピチュを訪れている多くの人が優しく見守るように待ってくれたり、道を譲ってくれたりした。娘と一緒にいると旅先でこうした人の優しさに触れられる機会が多く、私自身、何度も気持ちが救われた。そして、誰かのために頑張ることで想像以上の力を発揮することができるということを娘が身を持って教えてくれた。

◇後編『日本の歌を日本語で涙、ダウン症のある娘と見学したペルーの日系人学校での出来事』では、ペルーの日系人学校を訪れ、そこで体感した感動の出来事についてお伝えする。

日本の歌を日本語で涙、ダウン症のある娘と見学したペルーの日系人学校での出来事