政治家にとって庶民派アピールは、いわば伝統芸のようなものである。が、日米を比較すると、日本の政治家のセンスは乏しいと言わざるを得ないようだ(写真:©Robin Rayne/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ)

アメリカ共和党大統領候補のドナルド・トランプ前大統領がマクドナルドの店舗を訪れ、キッチンでフライドポテトを揚げるなどして、アルバイト体験を報道陣に披露したことが話題になるなか、日本では選挙活動中の政治家のコンビニ弁当や牛丼などの食事写真のSNS投稿が「わざとらしい」などと批判を浴びている。

自由民主党の議員で元復興大臣の平沢勝栄氏の「時短のためにコンビニでお弁当を買って車内で食べました」という写真付きのXのポストがとりわけ矢面に立たされたが、立憲民主党の枝野幸男氏の「昨朝はY家で牛丼を頂きました」という同様のポストなども、「くだらない庶民派アピール」だとして辛辣な意見が目立った。

トランプ氏のマック体験も店舗の口コミ情報サイトなどに怒りのコメントなどが殺到したが、SNSではAIで勝手に加工された動画(調理が大失敗したり、突然裸になったりする)がバズるなど、笑いのネタにされる側面がある一方で、日本における政治家の弁当、牛丼写真に対するリアクションは寒々しいというか非常に風当たりの強いものになっている。

自爆型PRになりやすい“食事による庶民派アピール”

政治家にとって庶民派アピールは、いわば伝統芸のようなものである。だが、SNSを中心に政治家の情報が筒抜けになっている現代においては、むしろ逆効果になっている。かつてであれば私生活そのものはベールに包まれ、知りようがなかったからだ。

【画像4枚】「コンビニ弁当は高すぎる」「庶民アピールはどうなのか」…。ランチ風景を投稿して批判殺到した、平沢勝栄氏のポストを見る

そのような視点で見ると、食事による庶民派アピールは恐ろしく昭和的な、前時代の遺物といえるだろう。


「時短のため」コンビニでお弁当を購入。しかし、「庶民にはコンビニ弁当は高い」などの声が寄せられた(画像:平沢勝栄Xより)


「物価高の影響で、ファミレスの朝定食から牛丼チェーンの朝定食にシフト」と投稿した枝野幸男氏。一般的に政治家は高収入とされるため、疑問の声を多く集めた(画像:枝野幸男Xより)

また、格差社会化の進展によって、食事は、以前よりもセンシティブなものになっている。日本の相対的貧困率が先進国中で最悪の水準にあり、直近のデータによれば6人に1人が貧困状態にある(「2022(令和4)年国民生活基礎調査」)。生活意識で「苦しい」との回答は6割に上り、過去5年で最も高い水準である(「2023(令和5)年国民生活基礎調査」)。

国民がこのような厳しい状況にある中で、人々の境遇によってどう受け止められるか不確かで、かつ意図が露骨な食事は分が悪いとしか言いようがない。

加えて、そもそも政治家の食事などがいちいち炎上すること自体が、日本の「貧すれば鈍する」的な状況を表しているともいえる。いずれにしても、自爆型PRになりやすい代物なのだ。

トランプ氏のほうがまだマシ?

一方で、いわゆるポピュリズムの文脈から見れば、幅広い支持を獲得するための戦略として有効にも思える。

けれども、とりわけ庶民対エリート/既得権益の姿勢を打ち出すポピュリストは、有言実行の一貫性が重要であり、イメージ戦略はその後追いでしかないところがある。

これらの前提を踏まえると、食事の象徴的な意味をあまりにも軽視し過ぎている日本の政治家たちのセンスが浮かび上がる。

まず食事は階級意識につながっている。社会学者のピエール・ブルデュー氏は、「食べ物の趣味は、それぞれの階級に特有な、身体についての観念、そして食べ物が身体に与える影響、すなわち身体の強さ、健康、美しさへの影響についての観念にも依存する」と述べ、それが「本質的に差違化の手段になる。それによって、人は自らを分類し、他者によって分類されるのだ」と主張した(『ディスタンクシオン 社会的判断力批判』石井洋二郎訳、藤原書店)。

もう一つは、ナショナリズムである。文化史家のパニコス・パナイー氏は、『フィッシュ・アンド・チップスの歴史 英国の食と移民』(栢木清吾訳、創元社)で、白身魚のフライと棒状のポテトフライを組み合わせたフィッシュ・アンド・チップスが、どのようにしてイギリス人の「国民食」になったかを明らかにしたが、このようなナショナル・アイコンの重要性にあまりにも無頓着なのかもしれない。

この点、まだ、トランプ氏のほうがましと言える。マクドナルドはアメリカの食文化の象徴のようなものだからだ。

その生産の場で働くことは、ナショナル・アイコンの力に寄りかかることにほかならない。食べる側ではなく、食べ物を提供する側に立つということが大きな違いだ。

マクドナルド本社がトランプ氏の店舗訪問とはいかなる関係もないと表明し、火消しに回ったのはその影響を重く見た面もあったのだろう(同社のフランチャイズの店舗は、所有者によって独立して運営されているため、本社の同意なしにトランプ氏の訪問を許諾することが可能だという)。

パフォーマンス目的であることが見え見え

今回のトランプ氏や日本の政治家に共通して重要なポイントは、先の知見に裏付けられた食事の「境界的」な機能の部分だ。

近代化によって食品の加工技術は進化し、市場が世界化されると、食べ物が「民主化」されるようになると指摘したのは、社会学者のデボラ・ラプトン氏だ。と同時に「このような社会的な変化はあるものの、食べ物は依然として、その値段や希少性、そして何より文化的な意義といった要因から、境界を示すものとして重要である」と述べた(『食べることの社会学 食・身体・自己』無藤隆・佐藤恵理子訳、新曜社)。

この場合における境界の“越境”は両義的である。境界を越えることは侵犯であることを意味するが、隔たりをなくす融和の意味も持ちうる。

マクドナルドを宣伝に利用したトランプ氏への罵詈雑言や、日本の政治家の弁当、牛丼写真に対する反感は、それが自分たちの食文化に土足で踏み込むような「ふざけた侵犯」と受け取られたからだという見方が成り立つ。「庶民的食文化の盗用」と言ったら言い過ぎであろうか。

そもそも融和的な境界越えをしたいのであれば、自らメディア関係者を集めたり、SNSで発信したりするような自作自演はやめるべきだろう。パフォーマンス目的であることが見え見えだからだ。

仮にファストフードのハンバーガーや牛丼が好物で、習慣的に食べているのであれば、いずれその事実は他者を通じて浸透するからである(そのような嗜好があればの話だが)。そのほうが圧倒的に真実性は高い。

政治の小道具として古くから用いられてきた

このように多様な文脈で見ていくと、興味深いのはアメリカ民主党大統領候補で副大統領のカマラ・ハリス氏が料理作る様子を動画配信をしていることだ。

「ハリスは料理動画を選挙運動に利用し、飢えや農場労働といった食料問題にとくに関心を注いできた。それだけでなく、瞑想する方法としても料理を活用する」という(「ハリスほど料理の力を知る政治家いない」 リスクも踏まえ、あえて動画でアピール/2024年8月26日/朝日新聞GLOBE+)。

同記事中にもあるように、食べ物は、政治の小道具として古くから用いられてきた。今であれば、料理を作ったことがあるか、スーパーに並んでいる食材の価格を知っているか、産地や農家の状況に関心があるか等々、そういった日常的な感覚の有無は政治家の信頼度に関わる。食料政策や農業政策に対する姿勢に反映されると考えるのが普通だからだ。

食は国民性と切り離せない文化であり、安全保障の要でもあり、わたしたちのアイデンティティに直結している。食をめぐる議論は想像以上に燃えやすいことは念頭に置いておくべきだろう。

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)