ノーベル物理学賞に「AI研究者」の選出で波紋
ノーベル賞メダル(写真:PIXTA)
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明により巨万の富を得たスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルが、その遺産の大半を基金として、国籍の差別なく、毎年、各分野において傑出した業績を残した人物を選出して授与される。
ノーベル賞の一部門であるノーベル物理学賞は、物理学に対する大きな成果を生み出した人に贈られるものだというのが、われわれの一般的な認識だった。しかし2024年の同賞受賞者には、2人のAI研究者が選ばれた。
現在のAIにつながる機械学習モデルを考案した2人
ここ最近の数年間で「生成AI」という言葉はわれわれ一般人の間にまで浸透した。生成AIとは一般的に、文章などでAIに出力させたいデータの説明を入力すると、目的とする文章や画像、音楽、動画などをAIが作りだし、出力するシステムのことだ。
われわれの認識では、生成AIはコンピューター科学の分野に属する技術だが、2024年のノーベル賞では、物理学賞の受賞者として、AI研究者のジョン・ホップフィールド氏と、ジェフリー・ヒントン氏の2人を選出した。
2人の受賞理由は、1982年にホップフィールド氏が発明したネットワークによる連想記憶のモデルである「ホップフィールドネットワーク」と、それを基にヒントン氏が1985年に「ボルツマンマシン」と呼ばれる新たなネットワークを開発したことが、それぞれ評価されたからだ。
これらの研究は、現代のChatGPTやStable Diffusionのような、生成AIを構成する高度なネットワークに比べればはるかに初歩的で単純なものだが、2人によって生み出されたアイデアが、いまの生成AI研究の出発点になったのだ。
物理学とAIの関係
ところが、一部の物理学者などからは、この2人の業績はノーベル物理学賞の対象とは言えないと主張する声もあり、ソーシャルメディアなどで議論がわき起こっている。
例えば、インペリアル・カレッジ・ロンドンの宇宙物理学者ジョナサン・プリチャード氏は、Xへの投稿で「言葉も出ない。私も機械学習や人工ニューラルネットワークは好きだが、これが物理学における発見だとは思えない。きっとノーベル賞はAIの熱気にやられてしまったのだろう」と述べた。
I’m speechless. I like ML and ANN as much as the next person, but hard to see that this is a Physics discovery. Guess the Nobel got hit by AI hype. #NobelPrize https://t.co/WZPPHrctx8
- Jonathan Pritchard (@jr_pritchard) October 8, 2024
また、ドイツ・ミュンヘン数理哲学センターの物理学者ザビーネ・ホッセンフェルダー氏は、「年に1度のノーベル賞発表の日は、物理学とそれを研究する者にとって、スポットライトを浴びる貴重な機会だ。それは誰かが身内や知り合いに物理学者がいることを思い出し、その年のノーベル賞がどんなものなのかを教えてもらいに行くかもしれない日だ。しかし、今年はそうではない」とし「2人の業績はコンピューター科学の分野に属する」ものだと述べている。
受賞者本人たちもまた、自分たちが賞を受け取るとは思っていなかったようだ。ヒントン氏は、受賞の知らせを受けたときは「愕然とした」と語っている。
確かにホップフィールドネットワークに関する論文は、元々は生物物理学の研究に分類されていた。人工ニューラルネットワークは、ニューロンと呼ばれる神経細胞が多数結合したシステムである生物学的な脳の物理的構造および機能からインスピレーションを得ているからだ。その基礎となる数学モデルは、統計物理学で研究されるシステムと似ている。またその挙動は統計力学の技術を用いて分析でき、人工ニューラルネットワークに関する研究だけでなく、物理学における新たな洞察にもつながっている。
AI研究者の受賞を歓迎する声も
多くの人は物理学とAIが直接関係のあるものだとは思っていない。しかし委員会は、研究者たちが「物理学の基本的な概念と方法」に基づいて人工ニューラルネットワークの基礎となるモデルを構築したことを考慮し、より広い視野を持って受賞者を決めたと考えられる。
ホップフィールドネットワークの概念(写真:Nobel Prize)
実際、2人が物理学賞に選ばれたことを歓迎している物理学者もたくさんいる。ハーバード大学の理論物理学者、マット・ストラスラー氏は「ホップフィールド氏とヒントン氏の研究は学際的で、物理学、数学、コンピューター科学、神経科学をひとつにまとめたものだ。そしてその意味では、彼らの業績はこれらすべての分野に属する」としている。
ボルツマンマシンの概念(写真:Nobel Prize)
さらに2021年にノーベル物理学賞を受賞したイタリアのローマ・ラ・サピエンツァ大学の物理学者ジョルジョ・パリージ氏は「物理学は近年、ますますその範囲を広げており、過去には物理学に含まれなかった、またそもそも研究されていなかった多くの知識領域が含まれるようになっている」とし「ノーベル物理学賞は、物理学の知識においてさらに多くの領域に広がり続けるべきだと思う」との考えを示している。
物理学とコンピューター科学の融合は、量子力学とAIによっても進みつつある。量子機学械習アルゴリズムは、古典的な手法よりも指数関数的に早く特定の問題を解くことが可能になり、量子物理学の境界を押し広げるのに役立っているという。物理学とAIはいまや互いに助け合う関係であり、これらの分野の境界線がますます曖昧になっていると言えそうだ。
もちろん、AIやニューラルネットワークの利用は、物理学への応用にとどまらない。もっと身近で実用的な分野でも活用されている。たとえば気候モデリングの技術は、高度な機械学習技術を地球全体の物理的な理解に統合して気候の予測を改善している。核融合エネルギーの開発では、AIでプラズマ閉じ込め技術や原子炉の研究を最適化し、商業的に実現可能なクリーンエネルギー源への道筋を開いている。
材料科学の分野でも、AIとニューラルネットワークが、これまでにない特性を持つ新材料の発見を加速させている。量子力学と物性物理学が重要なこの分野では、材料の特性を予測し、実験研究に機械学習のアプローチを活用して大きく様変わりしつつある。
このように、AIを駆使する手法を開発している科学者たちは、物理学とコンピューター科学の交わる場所で研究を進めており、物理学における最高の栄誉に値する貢献をしていると言えるだろう。
約120年前にその歴史が始まって以来、ノーベル賞は基礎的な学問分野だけでなく、そのときどきで社会に大きな影響を与える実用的な発明や研究、業績に光を当て、その栄誉を与えてきた。たとえば新型コロナのパンデミックでわれわれにも身近になったPCR分析法の発明は、1993年のノーベル化学賞を受賞している。
このような前例があることを考えても、今年のノーベル物理学賞が決して的外れな基準で選ばれたわけではないと言えるだろう。
AIが「ダイナマイト」にならない仕組みが必要
ノーベルが発明したダイナマイトは、トンネル掘削などの土木工事を飛躍的に早く、安全に進められるようにする革命的なものだった。そしてノーベルは、ダイナマイトの特許によって大きな財産を得た。
やがて戦争が起こると、ダイナマイトは大量虐殺用の兵器として使われるようになった。ノーベルは、ダイナマイトが兵器として使われたとしても、それが抑止力になるのを期待していたという。ところが実際は、ダイナマイトの破壊力は戦争をさらに激しいものとした。
そしてノーベルの兄が死去したとき、それをノーベル本人と思い込んだ新聞が「死の商人、死す」との見出しの記事を掲載したのを知ったノーベルは、人々の安全のために作った道具が、人々を殺すための物だと認識されていることに、大きなショックを受けたと言われている。
ジョン・ホップフィールド氏とジェフリー・ヒントン氏(写真:Nobel Prize)
現在、大幅に進歩したAIやその応用技術は、人々に役立つものとして大々的に宣伝されている一方で、ダイナマイトのように本来とは異なる使い方がされたり、誤った目的に使われたりすることで、誰かを傷つけたり、誰かの仕事を奪ったり、誰かの権利を侵害したりする事例が発生し、関連する裁判も起こされるようになって来ている。究極には、戦争などで人類の将来を危機にさらすといった、SF映画の中の話のような問題の発生も危惧されつつある。
ジェフリー・ヒントン氏が2023年にGoogleを離れたのは、AIが自身の想定を超える発達を見せ始めたために、その危険性を人々に訴えかけるためだった。
今のところ、AIはまだソフトウェアでしかないが、人々が意志決定にAIの力を借りるようになれば、その判断によっては予想外のリスクを生み出す可能性も考えられなくはない。SF映画の中の出来事が現実にならないよう、AI研究者や科学者、AI企業らには、高い倫理基準や、リスク軽減のための方法を用意することが求められる。
(タニグチ ムネノリ : ウェブライター)