宗教共同体は、平和に貢献する一方で、争いも引き起こす。その自覚が必要だ!

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浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について書簡を交わす本連載。今回のテーマは「宗教共同体」です。(本記事は、「群像」2024年9月号にも掲載されています)

宗教共同体

『月刊住職』という雑誌があるのですが、ご存知でしょうか。雑誌名からは、なかなかニッチな雰囲気が漂ってきますよね。この雑誌が今年創刊五十周年だそうです。そこで、原稿の依頼をいただいたのですが、お題が「なぜ今も宗教(宗教家)同士の争いが絶えないのかと問う人への説法」というものでした。確かに「宗教」と言えば、「争い」をイメージする人は少なくないようです。

私は、長年、大学で宗教学を教えているのですが、たまに授業で「宗教と聞くと、どんなイメージを持ちますか?」といったアンケートを取ることがあります。すると、やはり「怖い」とか「金儲け」とか、「争い」「暴力」などといった言葉が返ってきます。実際、宗教には、一方で平和を祈り、慈愛・自己犠牲を説き、一方で争い・分断を生み出し、信仰のための戦いを賞賛するダブスタ的性質があります。

宗教を理由として集団の暴力が起こるのは、宗教には人と人とをつなぐ強い力があるためでしょう。宗教は共同体を生み出します。共同体が無くて、完全に個人の枠内にとどまっているのであれば、それは宗教というよりも思想・信条といったところでしょう。「いや、単独者として神と向き合うのが本当の信仰だ」との見方もありますが、やはり「人と人とを結びつける」のは宗教が果たす大きな役割であり、人類に宗教が発生した由縁のひとつだと思います。

そこで今回は宗教における「共同体」について考えてみたいと思います。もちろんこれは、宗教二世の問題にも関わってきます。

独特の強さと喜び

以前にも書きましたが、宗教は信じている人と信じていない人との境界を生み出しますので、宗教共同体には独特の強さがあります。それが妥協の無い争いへとつながることもあります。

また、同じ道を歩む喜び、同じ物語を共有する喜びは、何ものにも代えがたいところがありますよね。あの一体感は若松さんもよくご存知かと思われます。これは有史以来、変わることのない人間の本性でしょう。

以前、海外から移住した人たちによる教会や寺院をあちこち巡ったのですが、いずれも「ああ、この場所があるから、辛い異国での生活を生き抜けるのだな」と実感しました。やはり宗教共同体は強い。

人類学者のロビン・ダンバーによれば、十八〜十九世紀のアメリカにおける社会改革共同体(世俗共同体)と宗教共同体を研究した結果、「世俗共同体の存続期間が平均一五年程度だったのに対し、宗教共同体では一〇〇年だった」(『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』)とのことです。

また、同じ調査では、宗教共同体の方が大きな規模を維持したことがわかったそうです。この事例だけじゃなく、おそらく他地域の他時代のコミュニティを調査しても同様の傾向が見られるんじゃないでしょうか。人類規模で見れば、世俗の理念・理想や利益による紐帯よりも、宗教によるバインドの方が強いということでしょう。

そもそも人間の身心は何ものかに「つながっている」という実感がないと、生きていくのがとても難しくなります。つながっているという実感があるから、苦しい日々を生きていけます。これもまた、人間が本来的にもっている特質です。

宗教共同体も、この一翼を担っています。本来、宗教共同体は、「損か得か」「役に立つか立たないか」といった社会の価値とは別の価値で動いており、利害関係なしにつながり合える場を目指します。また目に見えない世界や死者ともつながることが出来る、という特有の領域をもちます。つまり宗教共同体ならではの時空間があるというわけです。

そしてまた、その宗教共同体の特性を悪用する集団もあったりします。同じ道を歩むメンバーをコントロールの対象にしたり、搾取の対象にしたり、世俗内の欲望を満たすための道具として扱うやからもいます。日常のすべてが教団優先となってしまって、信者の財産や人間関係などが崩壊するケースや、家族共同体が崩壊するケースも起こります。

以前、そのような問題を抱えた宗教教団をテーマにしたTV番組に、若松さんとご一緒したことがあります。若松さんは、教団による金品搾取の手口を指摘して、「神はお金を要求しない」と発言されました。その力強い信仰者の姿に胸を打たれました。でも単独者としての信仰の道だけじゃなく、宗教には共同体の問題がついてまわります。「組織運営にお金が必要」というのも避けられない課題です。問題はその共同体がいかに成熟していくか、という制度や姿勢や取り組みでしょう。

カルト二世問題

宗教共同体について考える場合、今まさに日本社会の俎上に載せられているのは「信仰者の子どもたち」の問題です。二〇二二年に起こった元首相銃撃事件によって、カルト教団問題と共に注目されることとなりました。

事件をきっかけに世間で広く使われるようになった用語に「宗教二世」があります。ただ、親が特定の信仰をもっているケース自体はそれほど特異ではありません。むしろ、世界中のどの文化圏でも家族が同じ信仰をもっている家庭の方がマジョリティでしょう。それぞれの家庭における宗教風土で育つこと自体は、ごく自然な姿とも言えます。つまり宗教二世や三世というのはそれほど特殊な状況ではないわけです。

しかし、親の信仰が社会通念と大きく乖離するような教義に根差している場合や、その子どもが「そこから出ようとする」という場合などは、いくつもの困難が生じます。生まれた時から投げ込まれている宗教共同体の枠があるわけですから。

なにより、考えねばならないのは、カルトの二世です。カルトは子を囲い込み、他の選択の扉を閉じてしまいます。孤立させ、よそにいかせないようにする。だから、カルトに入信する人は人間関係が壊れるのです。この場合のカルトは「熱烈に信仰している」という意味で、伝統宗教の中にもあります。宗教以外にも、政治カルトや教育カルトもあります。

基本的には、子はその家庭の信仰で育つけれども、いつもいろんな方向の扉が開いているということが宗教の信仰継承には必要なこととなります。

宗教共同体の成熟とは何か

宗教教団は、しばしば偏狭な家族像を信者家族に押し付け、人間にとってとても重要な「社会と家族の両方に所属している状態」を壊してしまいます。

「社会と家族との双方に所属し、この二つをでき得る限り両立させていく」ことの重要性を、宗教教団はよくよく考察する必要があるでしょう。信仰を持つ者が、社会と家族と宗教共同体に身をおくことになる場合、教団が「社会と家族よりも宗教共同体だけを優先することに固執・誘導する」ことになれば、時に社会・家族の図式が壊れたりしますよね。

宗教教団は、「子どもの社会性を奪い、子どもの多様な可能性の扉を閉めてしまうような方向へと信者が突っ走ってしまうドグマやエートスを構築していないか」という社会からの問いかけを、真摯に受けとめていかねばなりません。そのため、社会の価値観や文脈を理解し、社会問題と向き合い、教義教学を成熟させていく取り組みを怠ってはならないと思います。それは宗教教団が取り組み続けるべき案件なのです。

たとえば(あまりぴったりの例示ではないのですが)、第二バチカン公会議(一九六二〜一九六五年)を契機として、カトリックでは他宗教への敬意をもつことや、宗教間対話が大きく促進されることとなりました。これはカトリック共同体が成熟するために必要な取り組みだったに違いありません。教団が成熟するには、社会問題に向き合い、異なる領域や信仰に懸架する歩みが必要でしょう。

最初の問題へ立ち返りますが、「宗教共同体は平和や非暴力にも貢献するし、争いや暴力も引き起こす。どっちにも振れる」ということをしっかりと自覚しなければなりません(この問題は宗教だけではなく、政治や経済などの領域でも同じことが言えると思います)。この自覚を手放すことなく、常に自らに問い続け、丁寧に慎重に宗教共同体が成熟する方向を模索していく、ここ二年ほどそんなことを考え続けております。

最後に付言しますと、この問題についてマルティン・ブーバーが「共同体」と「集合体」とに分けて考察しており、二つの次元の違いについて言及しています。他者が「汝」として成立する世界(共同体)と、他者が「それ」として成立している世界(集合体)の区分は、集合体がしばしば非人間的な現象を生み出すことを考察する際の手がかりとなりそうです。

(以下次号)

宗教は、悲しみの涙をぬぐうことで終わってはならない